3-4 法治

      ◆


 榊律、と呼ばれるものが正式に発布されたのは、天満天皇の治世十三年のことである。

 治世九年における景国への留学生の派遣は、そのあと、治世十年、十二年にも後続の留学生が送り出され、反対に景国から帰ってくるものが相当数に増えていた。

 景国からもたらされたものは多岐に渡るが、景国と地続きの遠方、一面の砂の海の果てにあるという国からもたらされた、宗教が最も大きな地位を占めた。

 この宗教は、永守朝で古くから祀られていた神とは違い、その神が遣わしたという人物から始まるもので、その人物の名から、完教と呼ばれていた。

 完教の教えは瞬く間に広がり、民の間でも支持され始めた。

 この宗教にはいくつもの決まりごとがあり、死者の弔い方や、その霊にまつわる儀式が厳密に定められていた。

 久宝皇子が企図している、法によって国を治める、という野望と言っても差し支えない願望は、ここに別の形での現実味を帯びたことになる。

 神が遣わした完という人物を通すこと、その人物の弟子たちが広めた教えを通すことで、民は抵抗なく、規律というものを身近なところへ受け入れたのだった。

 この現状は、普通の人間が定めた規律ではない、という前提があるだろうと、久宝皇子は想像していた。

 人が人を支配するためには、これまでは暴力、武力が大きな意味を持っていた。

 一つの集団が一つの集団を力で屈服させ、統合する。その繰り返しが、この永守朝の最初の段階だったことを久宝皇子ははっきりと理解していた。

 やがて争いがなくなり、一つに国が統一された時、人々は天皇の元に統一されたはずが、そこにあるのは人と人の関係のままでは齟齬が生じかねなかった。

 なぜ普通の人間が、同じ普通の人間の自分を支配するのか。

 民がそう考えるのは危険だった。

 それが今、完は神の遣わした人物である、という一事において、民はおそらく普通の人間を、普通ではない人間と錯覚した。

 久宝皇子は榊大館と議論した結果、まず第一にするものとして、天皇の血筋は選ばれた特殊なものである、と決めた。

 天皇が国を治めるのは神によって与えられた使命である。

 久宝皇子は他にも税を取る権利を明確にし、また徴兵の権利も明確化した。

 さらに朝廷における位階を設定し、十段階とした。役人にも位階を与え、この役人は国の権利である徴税や徴兵を代行すると定め、さらにその範疇も明らかなものとした。

 これら全て、久宝皇子の知恵の全てを絞ったものでありながら、第三皇子という立場を考慮し、榊大館の働きかけによって天皇にはかられ、天皇の布告という形として広められることになったのだった。

「皇子というのも窮屈なものだ」

 天満律という呼称で正式には記録され、のちには榊律と呼ばれることになる、この法律が布告されたことを祝う宴席があった日の夜、久宝皇子の屋敷を榊大館が訪ねていた。

 ふっくらと肉付きの良くなった朱季姫が酒を出そうとするのに、久宝皇子が「ここからは茶にしておくれ」と声をかけると、深々と静かに頭を下げ、姫は退室していった。

 榊大館が容赦ない声をかけたの朱季姫が部屋を出た直後だった。

 かすかな酔いの中で、久宝皇子は頷いた。

「そう、皇子などというものは、窮屈なのだよ、榊殿」

「それは私も同じかもしませぬ。榊氏の長として、恨まれ、憎まれることもある」

 榊氏は景国派遣の学者を多く出したが、それよりも多くの水夫を提供したし、造船に関しても多大な労力を引き受けていた。他の民よりも大きな税を払っているようなものだし、それ以前に、船が沈めば水夫が戻ってくる可能性は少しもない。親を知らない子、子を失う親、そんな立場のものが大勢いるのが榊氏の実際だった。

「国のために、などと胸を張ることはできませぬな」

 そこへ朱季姫が茶の入った器を持って戻ってきた。二人の壮年の男性は、無言で器を掲げて見せてから口元に運んだ。

「失われたもののためにも、国を先へ進ませねばならない」

 まるで死者に祈るような響きの久宝皇子の言葉にすぐには榊大館は答えなかった。

「その言葉を、親しいものを亡くして涙するものに、言えればいいのだが」

 榊大館の言葉は、あまりにも生々しく、人間らしかった。

 その言葉に一度、久宝皇子が目を閉じてうつむいたのは、どのような心情の表れであったか。

 悲しみというにはあまりにも素っ気無く、何かから目を背けるにしてはささやかだった。

 沈黙の中、夜の空気を震わせているのは、風に揺れる木々のざわめきか。

 何事か、ため息に混ぜるように久宝皇子が言った言葉は、榊大館にははっきりとは聞こえなかった。聞き返すことができなかったのは、久宝皇子が発散する気配があまりに重苦しく、彼の苦しみが並大抵ではないことが伺えたからであった。

 苦しいのは誰もが同じだった。榊大館も、やはり相応の苦悩をそのうちに抱えていた。

 誰も彼もが、平穏の裏で苦しんでいるのが、この時のこの国だった。

 上に立つものは国の形に悩み、下にいるものは上に立つものの動向に翻弄された。

 榊大館は目をつむって動かない久宝皇子の背中を見やる朱季姫の様子に気づいた。

 そのゆとりを常に持っているような女人でさえも、皇子を見る目には余裕がなく、不安を押し隠しているのが如実に分かった。

 男が苦しむように、女も苦しむ。

 これで国はどうなるのだ。

 そう言いたいのをやはり胸に秘めたまま、榊大館は器の中身を煽ったのだった。



(続く)

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