3-3 改革者

     ◆


 潔という老人が亡くなったのは、天満天皇の治世六年の暮れのことである。

 神に祈りを捧げる神事が行われ、それには天満天皇もご臨席された。久宝皇子も列の中に顔を見せていた。

 この祈祷は数日に渡って続き、それから朝議の結果、墳墓を造営することが決定された。

 久宝皇子は発言を許されなかったが、しかしその前に父である天満天皇に密かに伝えていた計画があり、それは朝議の場で、天満天皇の御意志として表明された。

 罪人に許しを与える、というのである。恩赦であった。

 これには朝議においても議論があったが、天皇という至尊のお方の意思を否定できるわけもなく、ただ恩赦の対象が議論された。

「あれはあなたの入れ知恵だろう」

 朝議が終わってから、別室で書記役として終わったばかりの朝議の記録をまとめていた久宝皇子のところへ訪ねてきた若者があった。

「榊大館殿か」

 その上背のある青年は、有力氏族の榊氏の若き当主だった。朝議にも榊氏を代表して参加し、非常に闊達な弁舌をふるうので、あるものは頼りにし、あるものは忌避する、そういう存在だった。

 書類の束を横へそっと動かし、それで何かを切り替えたように、澄み渡った瞳で久宝皇子は榊大館を見た。

「潔殿は国の礎を築いたお方です。当然のことかと」

「それで陛下のご威光は高まり、民は感動し、喜んで墳墓の造営に人を出す、か」

 榊大館の口調は明らかに不敬であったが、久宝皇子は平然としている。

 まさか榊大館が意味もなく、波風を立てることもあるまい、と見ているのだった。動揺、もしくは激発を誘っているのだろうか、と久宝皇子は目の前にいる青年を観察した。

 それは榊大館の方を同じであった。そのために二人は沈黙の中で、お互いを見つめ合う結果になった。

「よそう、正直に話すことにする」

 先に折れたのは榊大館で、彼は部屋に面した廊下に立ちすくしていたのを、スッと音もなく部屋に入ると膝をついて、久宝皇子ににじり寄った。

「この国では定まっていないことが多すぎると思っている。景国では、様々なことが定められ、規律というものが民にも浸透しているという。それを皇子はどう思われる?」

「この国にはこの国のやり方が、景国には景国のやり方があるでしょう。未だ、この国は景国には大きく溝をあけられています。国としても、文化としても、遅れていること甚だしい」

 これは期せずも、はるかな時を経て蘇り、繰り返される問答だったが、二人がそれを知ることはない。

 百年の遅れは、この時もまた、彼らの上にのしかかっているのである。

「榊の地では」

 より低い声で榊大館が声を発したので、久宝皇子も思わず身を乗り出した。

「船の建造に力を入れております。そして、景国の言葉を学ぶために、先に景国から戻ってきたものの元へ、人を送り込んでおります」

 意外ではなかった。榊氏は南方出身の氏族で、海に接している。景国と距離的にも近く、景国の漁師が嵐によって長い漂流の末に半死半生で漂着するということもあると、久宝皇子は聞いていた。

「つまり榊殿は、景国へさらなる使節を派遣せよ、と」

「使節ではございません。本格的に学びに行かせるのです。若く、才能のあるものを」

 久宝皇子がこれに即答できないのは立場だけが理由ではなく、父である天満天皇がまだ皇子が幼いとき、語ったことが思い出されたからである。

 初めての景への使節の派遣の後、この国の政は困難を極めた。有力なもの、素質あるものが海を渡る冒険に動員されたがために、統治に必要な人材に空白が生まれたというのだ。しかも送り出した船の幾つかは波の下に消え、それはそのまま人材の消滅に直結した。

 そのことを天満天皇は幼い皇子に、取り留めもなく語ったことがあったのである。

 それから十年以上の月日が過ぎている。

 久宝皇子は目まぐるしく思考を巡らせ、思案した。

 景国へ留学生を送る。犠牲になるものが出るのは避けられず、この国が疲弊する可能性もある。しかし犠牲や停滞を恐れ、足を止めることが許されるのか。

 時間は有限であると見るよりなかった。

 春の次に夏、夏の次に秋、秋の次に冬、冬の次に春、いつまでも季節が移ろうとしても、あるいは冬の後に春は来ないかもしれないのだ。今できること、それを実行することが、唯一最上なのではないか。

「私にはそこまでの力はない」

 久宝皇子はまずそう言葉にした。榊大館はわずかに目を細め、口を開きかけたが、その声より先に久宝皇子が言葉を続けた。

「しかし、榊殿の意見はおそらく、正しい。私は皇子に過ぎぬ。それも第三皇子だ。国を憂う気持ちがあったとしても、国を動かすことは一人ではできぬのだ」

 口を閉じた榊大館だが、彼には久宝皇子が言おうとしていることが先に分かったのだろう。瞳の色が変わっていた。

「まずは私と榊殿の間で、策を練りたい。榊殿が景国を意識するように、私にも意識しているものがある。知恵をお借りしたい」

 榊大館は、その言葉にただ一度、小さく頷いた。

 この後、久宝皇子は榊大館と交流を深め、国のあり方、国を運営する上で必要になる事柄について、いくつかの提案を朝議にかけることになる。久宝皇子は表に立たず、榊大館が主だって動くことになった。

 朝廷は天満天皇の治世九年に、景国へ留学生を派遣することになる。総勢で二百名を超えるものたちが、二つの船に分かれて海に漕ぎだしていった。この時、都はいつになく静まり返り、人気が絶えたようだった。

 久宝皇子は朱季姫を娶り、男子をもうけていた。

 榊大館による永守朝の改革はこの間も続けられ、国の形は間断なく整えられていく。



(続く)

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