3-2 試み

      ◆


 久宝皇子の屋敷は永守の都の王宮の一角にあった。

 天満天皇は複数の妃を持ったが、子の数は意外に少ない。皇子が三人、皇女が二人である。このうちの王女二人はまだ十歳にもなっていなかった。

 第一皇子が天満天皇の後を継ぐという見方は、推測ではなく事実とした認識され、第二皇子は誰の意志が働いたものか、兵に強い興味を持ち、自身も兵に混じって調練を行うような人物である。

 そうして第三皇子の久宝皇子は文官のようなことをしているのだから、この三兄弟において次の世代では天皇家による統治を文武の両面からより引き締めよう、そういう意図があるように見えた。

 久宝皇子の邸では、晩夏の日差しの中、甲高い声が繰り返されていた。

 庭を見れば、開けたところで細身の青年が鞠を蹴り上げて遊んでいる。しかしこれをじっと観察すると、長い髪が一つに括られ、肩の線は細く、全体的に華奢な肉体をしていることから、男の装いをした女性であると知れる。

 それにしても活発な女性だった。機敏な身のこなしで、鞠を地面に落とすことなく、蹴り上げ、また蹴り上げていた。汗がキラキラと宙に飛ぶと、細かな水晶の粉が舞ったような具合に光をきらめかせた。

 軽い音を立てて鞠が地面に落ちる。これもまた女性らしくなく、着物の袖で顔を拭う様は、どこかの農夫が顔を拭う様にも見えた。

「皇子さま、少しはお身体を動かした方がいいのではないですか」

 屋敷の縁に座って書を読んでいた久宝皇子が顔を上げる。柔らかい、優しさがはっきりと現れた笑みに、女性も微笑み返さずにはいられなかった。

「朱季姫のように、うまくはできないからね、こうして書物を読んでいる方が合っている」

「鞠を蹴る遊びは、今、朝廷でも多くの方がしているわ。皇子さまがお上手になれば、それだけでも一目置かれると思うのですが」

 朱季姫の言葉に、「なら姫が私の名代になればいい」と冗談交じりに返す皇子だが、鞠が投げつけられてさすがに立ち上がった。

 書を縁において、靴の加減をすると、久宝皇子も鞠を蹴り始めた。

 遠くからだと女性と間違えられることさえあった久宝皇子だが、鞠を蹴る動作は正確で、蹴り上げられる鞠は高さが、何度舞い上がっても変わることがない。

 呆気にとられたように朱季姫が見ている前で、二十回ほど続けてから、久宝皇子は鞠を両手で掴み、どうかな、という視線で朱季姫を見た。

 少しの間、目を丸くしていた朱季姫は丁寧に頭を下げた。

「お見事でした。どこでそのような技を身につけられました?」

「姫がやっているのを見て、おおよそがわかっていただけだよ」

 鞠を歩み寄ってきて姫に手渡した時、控えていた侍従が「高円様がお見えでございます」と声をかけてきた。

 返事をする前に、体格のいい男性が庭へやってきた。服装は兵を指揮するもののそれで、剣がないのは、屋敷に入る時に預かる決まりだからだ。

 高円時勝は分厚い唇で笑みを作ると、「また娘が男の格好などをして、申し訳ありませぬ」と、謝罪のようでいて、冗談そのものを口にした。

「いえ、高円殿、朱季姫は鞠を蹴る遊びが巧みだ。女性の服装ではあの技は披露できないでしょう」

「鞠を蹴る娘というのも、胸を張れませんね。化粧などもせず」

「化粧は汗で落ちたのです」

 庇うような口調で言ってから、久宝皇子は冗談を返す気になり、「元から薄い化粧でしたが」と付け加えた。これには高円時勝は豪快に笑って頷いている。

 着替えて参ります、と朱季姫が屋敷の中に去ってから、久宝皇子と高円時勝は並んで縁に腰掛けた。高円時勝が正式な話し合いではなく世間話として意見交換したいという意図だろうと、久宝皇子が気を利かせた形だった。

 そして高円時勝も気遣いを無駄にはしなかった。

「なんでも、法というものを定めるとか」

 そこは武人らしく、最初から直線的な問いかけが久宝皇子に向けられた。

「そう、法と呼ばれるものを作りたいと思っております。禁じるべきものを禁じるためのものです」

「軍規というものを作ろうと話し合ったことがありますが、皇子様のお役目に関して、何か役に立つかと思いまして」

 兵の集まりのことを軍と呼ぶと決めたのは天満天皇の治世二年目のことだった。軍の中の掟を軍規とし、しかしこれは主に軍を維持するために必要なことだった。

 例えば敵を前にして逃げ出した時の処罰、脱走した時の処罰、軍の備品を盗んだ時の処罰、民に対して暴力を振るった時の処罰、そのようなものが列記されている、そんな簡単なものが今の軍規だった。

 高円時勝は手にしていた包みを差し出し、開いてみると紙の束だった。

 見ていくと軍規それだけではなく、軍規に反する行動をとったものをどのように処罰したのかが記録されている。

 軍規そのものよりも、軍規がどのように働いたか、それを久宝皇子に知らせようとする高円時勝の意図だった。

「ありがとうございます。よく読ませていただきます」

「して、娘はお気に召したかな」

 野太い声に、思わず久宝皇子は柔和な笑みを見せた。

「面白い姫で、退屈しません。むしろ彼女からすれば、私の方こそ退屈な男でしょう」

「跳ねっ返りなところがありますが、そう、あの姫の最も良いところは退屈を嫌うところでしょう。その娘が、久宝皇子さまに不服がないのですから、久宝皇子さまもまた、退屈なお方ではないのです」

 そうでしょうか、と応じた時、二人の背後に女性の着物に着替えた朱季姫が戻ってきた。今度は女人らしい化粧をしており、幼さが残る顔には大人の色香と言っていいものが控えめに付け加えられていた。

「私の娘とは思えぬな」

 率直な高円時勝の言葉に、すっと朱季姫は頭を下げて見せた。堂々とした、凛とした動作だった。

 満足げに頷いている高円時勝の横で、久宝皇子はやはり法というものを考えていた。

 法を定めたとして、民がそれを守るには何が必要であろうか。

 罰を決めることが法を定めること、というのは彼の理想とはやや異なっていた。法は罰を与えるための口実になってはいけない。しかし実際、法は罪に対してのみ力を持つと見るよりなかった。



(続く)

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