第三部 国ここにあり
3-1 若きもの
◆
茨周王の長子である茨天王は国をまとめ、葉津奈から都を「永守」の地に移した。
そうして自身は天満天皇を名乗り、ここに永守王朝、永守朝廷が始まった。
景に派遣された使節は進発した三年後、帰還することに成功し、これにより様々な文物がもたらされ、また、永守王朝はその構造、組織を大胆に再編することになった。
この時代、王朝のものはより強固で、安定した集団でいることに腐心し、民は民として日々の生活に追われていた。
税は徐々に重くなり、兵として徴されるだけではなく、国家の形を整えるために徴されることも増えていた。例えば街道を整備するとか、築城もあれば、灌漑の工事などにも人では必要で、そのためには動ける男はただの一人でも朝廷の手によって農村から引き抜かれた。
そんな中で、最も民が嘆いたのは、都を造る、という事業であった。
それも、景の都をこの国にも作ろうというのだ。これは途方も無いことであった。
そもそもからして永守という場所は開けた平野にあり、元々は原野と言っても良い。そこを整備し、街を設計し、建築するのは途方も無い大事業である。
天満天皇は異国に憧れているのだ、と表現すればまだ生易しいといったところで、民の間では激しい批判が、影では行われていた。表でそれが口をついて出ないのは、まだ天満天皇という存在に人々が畏怖の念を覚えていた、それだけのことに過ぎない。
自分たちの生活を著しく制限するとしても、何故か、天満天皇とその臣下は、民には考え付かず、思いつかないことを考え、発想し、さらに実行に移す行動力があると、民は感じていた。
自分の三代前、四代前に生きた人々と比べれば、歴然の差がある生活を自分たちは送っている。そのことを祖父母や、両親に聞かされていたのがこの時の民の大半であった。
天満天皇の世は、争いのない世であり、それはとかく、国に敵対するものが極端に少ないからであった。南方のさらに南方の氏族と、北方にいる氏族、この二つしか外敵はいなくなっていた。
北方の氏族を討伐する計画は何度も朝廷で議論されたが、結論が出ないまま、かき集めた税は都造りに注ぎ込まれ、都が時々刻々、その姿をよりきらびやかに、より立派にしていく一方、朝廷の中にも複雑な力関係が生じていた。
都の美しさ、晴れやかさとは逆に、朝廷の空気は濁りつつあった。
そんな世で、民が特別な視線を向ける相手がいた。
それは天満天皇の第三皇子である、久宝皇子である。
この皇子は秀麗な容貌にその血筋が現れ、そして非常に聡明だと噂されていた。その学識は、景に派せられ帰還した学者たちから全てを学び、皇子でありながら、この口における第一の学者と見るものさえいた。
二十歳になる前から朝廷において、書記役という、朝議の記録を取る係を務め、彼の筆の速さは真似ることができるものがおらず、またその記すところは正確であるということだった。
天満天皇もこの久宝皇子を頼りにし、意見を求めることも再三あるのは、朝廷のものに限らず、民の耳にも届いていた。
久宝皇子は皇位を継ぐことはないだろうが、しかしこの皇子がいる限り、この国は決して間違うことはないだろう。誰ともなく、そのような期待を抱き、また、一人の若い皇子に希望を見出していたことになる。
その久宝皇子がこの頃、日々の長い時間の多くを何に割いていたかと言えば、一人の老人の元に通うことだった。
正確な年齢を知っているものはおらず、百歳を超えているとされるその老人は、しかし意外にかくしゃくとしており、春先から秋が深まるまではただ与えられた屋敷の縁で庭を見ているのだった。病に伏せることはないものの、足腰は弱くなり、仮に足が若い頃のままなら、この時でも朝議に出席したかもしれない。
老人は潔という名前で、久宝皇子の父の父、茨周王の側近だったという人物である。
久宝皇子はこの老人に自分が見聞きしたことを伝える一方、老人が現在の国や政に対して、どう感じ、何を思い、どのような対処が必要と考えているか、それをつぶさに聞いた。
「皇子殿、誰もが守るべき決まりを作るべきでございましょう」
しわがれた声は、歯がほとんど抜けているためにふがふがとしていたが、注意深くさえあれば、聞き逃すことはない。
「律、というものですか」
「法を定め、それによって人々を律する」
「父上のそばにいるものも、その律の対象であり、例外ではないのだな?」
「正しく」
老人の視線は庭に向けられたままで、若き皇子には向けられていない。
夏の日差しの中で、木々の枝葉の緑は庭を包み込み、風が吹いて揺れるとその緑の濃淡がめまぐるしく変わった。
視線を庭へ向けていた久宝皇子は、信頼できる部下のことを考えた。
誰もがまだ若く、実権を持つ立場には程遠い。しかし知性、知識では決して遅れは取らない。
国をまとめる法を作り、それが機能する構造を作り上げる。
夢だった。
自由を束縛されるようでいて、実際にはより自由に、穏やかに過ごすことができるのが、法によって守られた国であると久宝皇子は気づいていた。
「失礼致しました、潔殿。これにて、失礼させていただきます」
頭を下げると、潔も一度、頷いた。言葉はない。
敷地を出ると、そこは永守の都の外れの、原野のはずれだった。遠くで人の集団が見えた。開墾の作業を行っているのだ。この国にはまだ農地になっていない土地は多くあるが、しかし、人もやはり増え続けていた。いったい、どこまで農耕を推し進めれば、民が誰一人として困窮しない国ができるのか、久宝皇子には想像もできなかった。
彼は木につないでいた馬にまたがった。
馬上に揺られながら、久宝皇子は法というものについて考えながら、屋敷へ戻った。夏の日は容赦なく、彼の肌を焼いていた。
(続く)
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