2-3 言葉だけ、思いだけ

      ◆


 よくやった。

 よくやった。

 よくやった。

 そう声をかけて回る茨周王の心の中は千々に乱れていた。

 境界を接する部族、加羅津の兵との戦闘の後だった。

 葉津奈からは四百人を出したが、加羅津の兵は五百を超えていた。

 偵察が不完全だった。

 そんな言い訳は茨周王にはできなかった。責任者は茨周王であり、成功だけをその身に浴びることは許されない。

 後方に伝令を飛ばし、増援を送るように伝えたが、戦闘は間も無く始まった。

 辛抱だった。密集隊形を取り、ひたすら耐えた。

 倒れる兵の姿に他の兵が恐慌状態に陥らなかったのは、最初から葉津奈の兵たちが半狂乱だったからだ。逃げ出せば背中から切られる。そんなことになるなら敵を押しのけるしかない。簡単な理屈だが、それが葉津奈の、もしくは茨周王の命を救った。

 増援が間に合ったことで、加羅津の兵たちはそれを機に無理押しをせず、一度、兵を引いた。

 葉津奈の集落に戻ることはできず、境界に近い集落に残存の兵をまとめた。逃げ出したものがいるのもわかったが、とにかく、次の戦闘に参加できるものは三百名を割っている。負傷者が百名を超え、集落は悲惨と呼んでも見当外れではない。

 集落の女たちが兵の面倒を見ている。米が焚かれる匂いもしたし、そのための火が暮れかかった空気に熱を与え、そして篝火は夜の暗さを押しのけていた。

 茨周王が兵たちに声をかけ終わった頃、葉津奈からさらなる増援が来たが、ほんの五十名だった。しかし率いてきたのは、誰でもない、潔だった。

「ご無事で何よりでございます、茨周王殿」

 拝礼して、潔が鋭い眼光を見せた。

 そのあまりの鋭さに、茨周王は刃で身を切られたような衝撃を受けた。

 まだ何も終わらせてはいけませぬ。

 言葉にこそしないが、その眼差しに込められた意思は明白だった。茨周王の弱気を指摘し、集落の立て直しの指揮を陣頭で取るように求めている。

 そう、潔が連れてきた五十名は、葉津奈の守備に残してきたものなのだ。

 ここに図らずも、葉津奈の命運がかかるのだった。

「策はあるか、潔」

 反射的に茨周王が問いかけると、「兵法もまた学問なれば」と返答があった。

 静かだが芯の通った、落ち着いた口調に茨周王は我知らず力強く頷き返した。

 その夜は慌ただしく過ぎた。

 潔が連れてきた五十名は殆ど休息も取らずに進発していった。

 潔はまず五十名に夜襲を仕掛けさせたが、犠牲が出ないように素早く兵を引いた。加羅津の兵は動揺し、追撃に手間取った。この夜は月が隠れ、闇が普段より一層、濃かったことも葉津奈、そうでなければ潔に味方した。

 これで終わりではなく、五十名は十名ずつに分かれ、加羅津の兵がまとまっている集落、その陣地の周りを動き回り、大声をあげた。

 夜襲を一度受けているのである。加羅津の陣地は警戒態勢をとり続けることを強制され、兵たちは張り詰めた心を解くゆとりもないまま、明け方まで剣や槍を手に闇に目をこらすことになった。

 もしここで加羅津の兵の指揮官が、朝と共に葉津奈を滅ぼすために兵を進めていれば、また違った違った可能性もあっただろう。しかし加羅津は動かなかった。兵たちを休ませるため、そして夜襲を受けたことを理由に、より安全に攻める方法を選んだ。増援を待ったのである。

 この時点でも兵力に差があったことを考えれば、これは蛇足であった。加羅津が力攻めをするだけで葉津奈は後退するよりなく、やがて集落に押し込まれ、滅ぼされただろう。

 このほんの一日の停滞は、潔の企図した通りのものであり、兵法の一つの結果だった。

 昼は何事もなく過ぎ、加羅津の兵たちは増援が遅いのを気にしながら、この夜はさすがに篝の数を増やした。兵たちはその一方で、昨夜は夜襲の真似事をされただけで、攻められはしなかったのだから、やはり葉津奈は最早、風前の灯と考えた。

 夜が明ければ、増援も加わり、葉津奈を圧倒できるのだ、と多くのものが思い描いた。

 日が遠い山の稜線に没しようという頃、加羅津の兵たちが近づいてくる人の群れに気づいた。

 増援だ。誰もがそう思った。

 しかしその集団は、いきなり加羅津の兵の群れに突撃し、剣や槍を縦横に振るい始めたのだった。

 混乱と悲鳴の中で「葉津奈の兵だ!」、「奇襲だ!」と声が乱れ飛んだ時、正面からも兵が迫っていた。後方の混乱は防御を不完全なものにしており、前日、加羅津の兵に対して苦渋を舐めた葉津奈の兵たちは、その鬱憤を晴らすにように苛烈すぎるほど苛烈に、加羅津の兵に襲いかかった。

 夜の闇が全てを隠した時、その闇を払う篝火の間を歩くのは、葉津奈の兵だけになっていた。加羅津の兵は逃げ出すか、倒れるか、そうでなければ虜囚となっていた。

「これにて此度の争いは終わりでしょう」

 やはり負傷した兵たちの間に声をかけて回っていた茨周王のそばに、足音もなく潔がやってきた。彼は普段通りに見えるが、頬にやや影が落ち、目は落ち窪んで見えた。夜通し、部隊を指揮したのだ。

 加羅津が増援を求めたと知るや、その増援の到着を足止めした部隊が潔の部隊だった。五十名は困難な仕事をやりおおせた。

 その一方で、茨周王は兵たちを二隊に分け、一方を後方へ回り込ませた。そして最も気が緩むだろうところを狙って、挟撃の形で奇襲を仕掛けた。成功したのには、加羅津の兵が後方からは増援が来ると思い込んでいたのも大きい。

「しかしまだ、戦は続くだろう」

 茨周王の言葉に、「左様」と短く潔が答えた。それ以上の言葉はない。

「そなたの助けには感謝している。兵を休ませてやってくれ」

 承りました、と一礼すると、潔は篝火と篝火の間に消えていった。

 茨周王は兵士に声をかけて回るのに戻った。

 よくやった。

 よくやった。

 よくやった。



(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る