2-2 志

      ◆


 国というものを作るべきだな。

 茨周王はその住まいの庭に立って夜空を見上げていた。

「国を作るのは並大抵ではございませぬ」

 建物の軒下に立っている壮年の男、潔が静かな口調で応じた。集落を統べ、それを中心に一帯を支配する立場にある茨周王に対して、対等に会話をできる相手は数多くいる。だが、潔ほどそっけなく、へりくだらない相手は少ない。

「何が必要かな」

 茨周王の瑞々しい声は夜の空気の中でより一層、澄んだ響きを帯びた。

「まず、安定した、強力な兵が必要です。周りを圧倒し、二度と刃向かおうと思わないほどの兵力です」

「さぞ、血が多く流れるであろうな」

「敵も味方も、多くのものが倒れるでしょう。あるいは、兵ではないものも」

「民もまた、血を流すか」

「それが国を建てるのに必要なことです」

 ふむ、と茨周王は夜空を見上げたまま、小さく声を発した。

 そこに含まれた、話の続きを促す気配に、潔が堂々と答える。

「次に、戸籍というものを用意しなくてはなりません」

「戸籍? それは、私が知らない民が増えるということか」

「国というものは、一人が細部まで把握できる大きさではありません。茨周王殿の下に大勢がつき、いずれはその下にも、さらに下にも、役人を配置して、国をまとめるのです」

「役人。民の中から選ぶのか」

 いいえ、と潔が答える。

「この国の民には、文字を書けぬものが多すぎます。今はその素養のあるものを登用するしか道はありません。いずれ、学問が広まれば、文字や、数の勘定などもできると思いますが」

「素養のあるもの、とは、私と同じように民をまとめているもの、か」

「国の原型とはそういうものでございます。今はまだ多くの集落、部族が林立しておりますが、それらが手を取り合い、一つになった時、国が始まるとお思いください」

「争っているものたちが、一つにまとまる術があるのか、潔」

 初めて、茨周王が視線を親友にして、この集落一の知恵者に向けた。

 漆黒の瞳は眩く輝き、美しい。

「道理を説くことです。我々には言葉があり、言葉によって争いを避ける。これが最善」

「次善は?」

「争いしかありませんな」

 潔がわずかに口角を持ち上げると、茨周王も笑みを見せた。

 この日の昼間、茨周王は側近を集め、今後について話したばかりだった。すぐそばの部族が男たちを集めており、戦の支度ではないかという通報があった。葉津奈でも男を集め、戦支度をすべきだと主張する者がいたが、茨周王は答えを翌朝に先送りにした。

 この夜が明けた時、答えを出す必要があった。潔は茨周王に私的に呼び出された形だった。

「戦いはいつ終わるのであろう」

「人は」

 潔がまるで夜の静けさを乱さないように意図しているかの如く、囁くように言った。

「どこまでいっても争いを捨てることはありません」

「海の向こうの国は、平和で豊かだと言ったのはお前のお父上やそれに連なる方だったが?」

「茨周王殿はそれを信じていらっしゃる?」

 これは挑戦的な口調ではあったが、茨周王は気分を害したようでもなく、ただ無言で何度か頷いた。潔はわずかに頭を下げただけだ。

 二人ともが、平和というものを見据えながら、この時はまだそれははるか遠くにしか見えないことで、考えを同じくしていた。

 人が倒れることを容認しなければいけない。

 それ以前に、味方の犠牲を受け入れながら、まずは自分たちが生き延びなければいけない。

「海の向こうの国、景という国は今、平和なのだろうか」

 全くの好奇心から茨周王が問いかけたのに対し、潔はすぐに答えなかった。しばらく茨周王の眼差しは潔の伏せられた面に向けられていたが、なかなか潔は顔を上げないでいた。

「恒久というものは、この世に存在いたしません」

 そう言って、やっと潔が顔を上げる。

 爛々と輝く眼光が、茨周王の強い視線を正面から受け止めた。

「ものはいずれ崩れます。草木は枯れ、動物は死ぬ。人もやはりいつかはこの世からいなくなる。それなのに国や平和というものが、いつまでも続くものでしょうか、茨周王殿」

「正しく、その通りだ、潔。しかし夢を見るのは、間違いかな。国という夢、平和という夢。誰もが満ち足りる夢」

「夢は夢でございます。現実には、常に煩雑なものがあり、端々がほつれるでしょう。それだけはお忘れなく」

 その通り、と聞こえるか聞こえないかの声で、茨周王は言うと、また視線を夜空へ戻した。

 雲がいつの間にか流れ、月がはっきりと見えていた。まるで二人の会話を肯定するような、満月とは程遠い不完全な輪郭の光がそこにあった。

 この世にあまねく内在する不完全なもの。

 いずれは崩れるもの。

 茨周王は朝が来れば、戦支度を指示すると決めていた。

 今はまだ戦わなければいけなかった。

 葉津奈は大きくても、まだ弱い。もっと強くなり、誰も逆らえなくなった時、初めて国という夢の、現実に至る階の最初の一段を登ることができる。これは茨周王の想像の中にあるだけで、葉津奈の大半のものはそこまで遠くを見ることはできない。

 民は、日々の生活が全てだ。

 兵が集落を守り、畑が稲を稔らせれば、それで何の不満もない。

 月を見上げながら、茨周王は考えた。

 民の満足とは何か。民のために必要なこととは何か。

 弱い風が吹き、茨周王のまとめている髪の毛の先がかすかに彼の首筋をくすぐった。

 それが理由でもないだろうが、茨周王は短く息を吐き、視線を友人の方へ向けた。

 潔は微動だにせず、そこに立ちつくしていた。

 その姿に茨周王が安心を覚えるのは、他の誰も知らないことだった。



(続く)

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