1-3 理由
◆
御殿の庭の中には、密談をするためにあるような場所も多く取られている。
政というのは常に駆け引きがあり、誰かを味方に引き込むことも、あるいは秘密裏に連携することも必要になる。そんな話を、まさか誰もが通る御殿の廊下で堂々とするわけにもいかない。
今回の件では何も隠す必要がないので、単純に三条宮道徹が案内した庭の一つの梅の木の下で話をすることになった。その梅の木はすでに時期を過ぎたようで、花弁はなく、代わりにかすかに緑の新芽が見える。
「悪いね、標。他に適任なものがいないんだよ」
三条宮道徹の澄み渡った声は、なるほど、春の新鮮な空気とは相性がいい。
この涼しげな響きで不快になる人間はいないだろう。
しかしそれとこれとは別だ。
「僕みたいな下っ端の忌避されている役人には、役目が大きすぎるよ」
「そう言わないでくれよ、標。実際、あの古文書の文字を読める学識の持ち主はそうはいないし、いるとしても相応の立場ものだよ」
「相応の立場のもの、っていうのは、宮家か公卿ってことでしょう。そういう人物の方が、歴史書というものを書くにはふさわしいと思いますけど」
「ま、理由は大きく、二つある」
聞きましょう、と僕が応じると、三条宮道徹は梅の木を見上げたまま、歌を詠むように話し始めた。
「一つは、陛下のたっての希望で、民に寄り添う、民が親しめる歴史書を作りたい、ということ」
「民が親しめる、と、陛下がおっしゃったのですか?」
さっきの広場での話し合いで、その話題はなかった。つまり、すでに議論する要素ではなく、決定事項だったのか。
「陛下はそうおっしゃったよ。これはあの場の殿上人は知っている。甘人もだよ」
やれやれ、貴木甘人も大概、人を騙すのがうまい男である。
「もう一つの理由を伺いましょう」
「それはね、政とは離れた、客観的な歴史書を作りたい、ということだよ」
すぐに理解するのは難しかったが、頭に浮かんだのは、先ほどの陛下からの問いかけだ。
直宮天皇を始祖とするのが今の皇室であり、そこから連綿と続く血統こそが皇統だというのは事実とされているが、実際のところは真偽は不明だ。事実として認識されているのは、皇室がそう主張し、それに多くの宮家、公卿が同意しているから、というだけのことだった。
この主張をするものの立場には、歴史を都合よく扱おうという意図がある、かもしれない。
皇室としては、自分たちの正当性を歴史によって裏付けたい。宮家の権威や公卿の権威も、彼らが属するより大きい権威の正当性が保証されて、はじめて力を持つ。
素性の分からないものを、崇めることができる民がどれだけいるか、それを僕は少し考えた。
答えは出ない。すでにこの国では、権威が権威として力を持っている。過去に歴史を利用したかもしれないが、今はもうそれは必要ないと言えるかもしれないとも思う。
だからこそ、本当の歴史というものをまとめることも、今はできる。そんな観測もできた。
それがさっきの殿上人たちの結論か。
「標、責任は重いが、やりがいはあると感じるだろう? もし私にきみの才があれば、間違いなく志願するよ」
「そう気軽なことも言えないと思いますけどね」
それが結局、実質的に僕が全てを飲むという意思表示だった。
とりあえず、三条宮家で保存されていた古文書を整理し、解読することになるが、そのための人員として「書誌司」から五人ほどが割かれるという。
五人か。あまりにも頼りない数だが、まぁ、僕よりも位階の低い役人もそうはいない。せめて自分と同格程度の人選をして欲しい、と苦し紛れに主張すると、当たり前だ、と三条宮道徹は声を上げて笑った。やはり口元を袖で隠していた。
たった今、決められたこととして、歴史書としてまとめるのに五年の期間があり、間違いなく五年後の春には書籍の形で出来上がっているようにしないといけないということがあった。
「これは勅命だよ、標。わかっているね。勅命、だよ」
「うん、まあ、やってみましょう。なるべく、勅命に沿うように」
この時は僕の冗談の方が優っていた。
勅命を反故にするのは、許されることではない。
五年というのが長いのか短いのか、すぐには見当がつかなかった。新しい歴史書の執筆の前に、現存する歴史書を確認し、それに精通した上で、新資料を解読し、他の資料との齟齬を解消する、となると、あるいは五年は短すぎるだろうか。
「いつから始められるかな」
問いかけると、いつでも、と三条宮道徹がやり返してきた。今からでもと言いたげて、今度の冗談は彼の勝ちだ。
丁寧に作業は明日から始めることを伝え、人選を今日中に終わらせて明日には派遣することと、今から三条宮家の屋敷へ行くことができるか、確認した。
「よし、それでいこう。きみのやる気があるうちに全てを進めなくてはね」
ポンと背中を叩き、三条宮道徹が歩き出すのに、僕は少し遅れてついていった。
いきなり歴史書を編纂せよ、と勅命を受けるとは、人生とは分からないものだ。
御殿からは僕だけ徒歩で行くつもりだったのが、三条宮家の牛車に乗らず、三条宮道徹も横を歩き始めた。
「たまには歩くのもいい。都の様子も知らなくてはね」
そんなことを言うが、三条宮道徹の着物があまりにも上等なので、道行く人の注目を集めている。都はとかくきらびやかだが、その中でも彼の着物は豪奢な上に豪奢だった。
「陛下のお言葉の意味がわかるかい?」
口元を袖で隠しながら、三条宮道徹がそんな言葉を向けてきた。
僕には首を振るしかない。
「いや、あれは宮様がさっき口にした、歴史書を作る上で必要な視点を確認した以上の意味はないように、僕は思いますけど」
「そうか。なんというか、陛下はきみの機転をお知りになりたかったのかもな、と私は思ったよ」
機転か。
答えを考えているうちに、さすがに宮家だけあって御殿から近い位置にある三条宮家に着いた。屋敷の者が歩いて戻ってきた若い主人に恐縮している。
「こっちだ」
三条宮道徹は気にした様子もなく、僕の先に立って屋敷に上がり、どんどん奥へ入っていく。
屋敷の広さに改めて感心しながら進んでいたので、奥まった部屋で三条宮道徹が足を止めたのに気づかず、危うく背中にぶつかりそうになった。
ずれた冠を直している僕は、彼が庭に面しているらしい引き戸を開けたことで差し込む強い光に目を細めた。
「これが全部のうちの半分の半分かな」
部屋は板の間で、その上に書物がいくつも並び、積み上げられている。二人が移動しただけで埃が舞い上がっていて、思わず袖で口元を隠した。
しかしすぐにそれはやめることになった。本能的に書物の一つを手に取る。
表紙の文字はなるほど、古い字体だ。
「読めるかな」
こちらの手元を三条宮道徹が覗き込んでくる。
「読めます。これは、「渦芽皇子記」という名前らしい」
紙をめくるが、質が悪いので少し雑に扱うと破けそうだ。そして埃が酷く、咳が出る。
「渦芽皇子といえば、百五十年は前のお方じゃないか? えっと、赤関宮家となられた」
「その通りだけど、これは百五十年前の紙の質ではない気がするな。もう少し後に記録としてまとめられたんじゃないかな」
一枚一枚、めくっていくが、表紙こそ表面がざらついているが、中は綺麗なものだ。文字が今の世のものとは違いすぎるが、読めないことはない。
「古い文字に精通している同僚が必要ですね」
「御殿には都合よく呼べるものに心当たりがないし、位階の関係で標もやりづらくなるかな。学者の誰かしらを招くことにしよう。希望は?」
「「博士処」に知り合いがいます。下級役人の家のものだけど、いいですかね」
名前を聞かれたので、僕は即答した。
「壱岐卯野という人物なんだけど。位階は、僕より下で、今はなんの仕事をしているか、そもそもどこにいるかも知らないんです。調べてもらえますか?」
「壱岐卯野だね。すぐ調べるよ」
請け負ってくれた友人にうなずき返すと、すぐに「いつ帰る?」と訊ねられた。
僕が時間の許す限り、今、この場で古文書を読んでいたいと思っているのを見抜いているのだ。そこはさすがに古い馴染みなだけのことはある。
「夕方には帰りますよ。泊まっていくのは申し訳ないので」
「わかった。何かあれば、屋敷の者に言いつけてくれ。私はきみの要望を形にするために、忙しくなる」
「よろしく頼みます」
僕が頭をさげると、こちらこそ、と若き宮家の当主は颯爽と去っていった。
誰もいないのをいいことに床に座り込んで、僕は古文書を繰り始めた。
今、手に取っている渦芽天皇の御世を記録した書物は、類似したものを過去に読んだことがあった。ちょうどいい、今までの歴史書との齟齬を探してみることにしよう。
読み進める。
百年前に何があったのか、何が起こったのかが、思考の内側に展開されていく。
不意に人の気配がした。
「明亀、お茶はぬるめで頼む」
無意識にそう言ってから、しまった、ここは自分の家ではないと気づいた。恐る恐る顔を上げた時には、三条宮家で働いている女性が目を丸くしてこちらを見ていた。
「失礼しました、ぬるいものをお持ちします」
言い訳する間もなく、堪えきれないといった笑顔で湯呑みを下げて、女性が離れていった。
無意識に頭に手をやってから、もう諦めて、また古文書に目を落とした。
(続く)
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