1-2 御前にて
◆
貴木甘人の突然の訪問の三日後、御殿に登るようにという知らせがきた。
僕があまりにもひどい身なりだと問題がありそうだったが、着物をあつらえる銭がない。
というわけでいつもの一張羅で、僕は御殿へ向かった。宮家や公卿なら馬や輿、牛車に乗ることもあるが、下級役人の中でも下の下の僕は徒歩だ。供を連れることも許されないが、供にふさわしいものは、そもそもそばにいない。
御殿の門で身元を示す木の札を見せ、それで入ることが許される。下級役人はこの木の札がなければ、敷地にも入れない。
敷地に入っても、すぐそこに建物があるわけではなく、前庭を抜ける。この庭がいやに広く、小さな家を建てても余裕がある。四季折々に芸術的な光景が広がるが、今は春の花が咲き誇っている。見物しているものがいないのが不自然にさえ感じる豪勢な景色だ。
道を抜けていくと、頭の高さに床がある、一段高い建物があり、それが御殿だ。
しかしその御殿へ上がる階段を上がれるものは限られる。
僕にはその資格はない。
階段を見張っている兵士と役人がおり、僕は役人に受け取っていた書類を見せ、「富士見の庭へ進まれよ」と告げられた。
御殿を回り込むように進むが、そこは道という感じではなく、庭の片隅だ。しかし地面は地肌がむき出しではなく、砂利が敷かれている。それも雑多な小石の集合ではなく、真っ白い石が敷き詰められている。
御殿を取り囲むようにいくつもの庭があり、殿上人ではないものは、この庭で話を聞くことになる。
富士見の庭とはどこだったか、と記憶を辿り、半ば迷いながら、おおよそ記憶と一致する庭に着いた。
庭に面して広間があるが、人の気配はなかった。
しばらく立ち尽くしても誰もこないので、僕は庭の木々を眺めて時を潰した。梅が咲いているが、少し時期が遅い。長い間、梅が咲いているようにいくつかの品種を混ぜて並べているのだろうか。
「そなたが枢原かな」
いきなりの背後からの声に、慌てて振り返り、膝をついて頭を下げる。
うっかりしていた、人の気配に気づかないとは。
「枢原標と申します」
顔を上げられないので、相手の顔は分からない。声も聞き憶えはない。
「書に詳しいとか」
柔らかく、穏やかな口調だった。
「未熟ですので、とてもそのようなことは口にできません」
そうか、という言葉とともに、男性は広間の方へ行ったようだ。
殿上人の前で無礼な行動をとれば、何が起こるか分からない。今、僕が閑職の中の閑職についているのも、殿上人の気まぐれと言えないこともない。
じっと片膝をついて待っていると、続々と広間に人が入ってきた。言葉が交わされ、その中には貴木甘人らしい声もあったし、いつの間にか三条宮道徹の声も混ざっている。
その声がピタリと止まる。
天皇陛下がやってきたのだと、それだけでわかった。
「始めよ」
厳かな声に、広間の方へ人々が顔を上げたのが、衣擦れの音が重なったことでわかった。
話し合いは淡々と進められた。
新しい歴史書の編纂の意義が論じられ、それが国家に、民にどのような影響があり、編纂にかかる費用、そして必要な人員について言葉が行き交った。
「そちらに控える、枢原標が適任かと」
そう発言したのは間違い無く、貴木甘人だった。
「位階の低いものをこの事業の責任者にと、貴木殿は仰せか」
列席している誰かしらが、静かな口調の奥に強い調子を含ませて発言する。
それからは僕が適任か、補佐するものをどうするか、別の人物が責任者として最適ではないか、などというやり取りが長く続いた。
貴木甘人は丁寧に、一つ一つに柔らかく反論し、全体を誘導していった。その弁舌の巧みさ、操縦の巧みさは舌を巻くほどだ。僕自身の運命が激動の兆しを見せているのに、僕自身は発言の機会さえないのはやや不満だが、口を開いたところで何もできないだろう。
「もう良い」
低い声に、ピタリと全員が口を閉じた。
陛下のお言葉だった。
「枢原標、そなたに聞こう」
僕はより一層、頭を深く下げ、聞き逃さないように耳を澄ませた。陛下に質問し返すなど、首を落とされても文句は言えない。
「この朝廷の始まりはいつか」
場は静まり返っていた。
僕はほんの少し、瞬き二つほど、思案した。
「直宮天皇の御世から始まる、とするのが正しいかと」
今度は一転、人々の声が起こった。直宮天皇は今から五百年近く前の人物で、市井のものはもちろん、公卿の中にさえ、伝説上の人物で実在しないとこそこそ噂する者がいる。危険な噂だが、噂話をする自由があるとも言える。
陛下が静かな口調で続けた。
「それより前はどうか」
陛下の問いかけに答えるのは、難しかった。
しかしここで思っていることを言えなければ、仕事を任されることもない。
「記録がなければ、何事も言葉にはできませぬ」
誰かもわからない一座の男が立ち上がった音がし、続けて怒鳴り声がぶつけられた。不敬をなじる言葉、そして怒りそのものが形を持ったような口調だった。あまりの口汚さに、他のものが諌めたが、場の空気は非常に殺伐としたものになった。
それを一瞬で壊したのが、陛下の笑い声だった。
「面白いことをいうものだ。よかろう、そなたに任せるとしよう。みな、良いな?」
先ほどとは別種の緊張が場を支配し、誰からともなく返事をし、頭を下げたようだった。
しばらくすると参加したものが去って行く気配がした。僕が、殿上人ではなくて良かったと思うのも久しぶりだ。殿上人同士ならあるいは殴り合いのようなみっともない事態もあったかもしれないが、僕はこうして庭に膝をついており、殿上人がわざわざ地面に降りてまで僕を殴りつける、ということはありえなかった。
もっとも、そういう下等なものが知ったような口を聞くのは、彼らからすれば堪え難かっただろうけど。
「あまり強いことをいうんじゃない」
誰かが目の前に立った。砂利を踏んでいるのは上等な靴だった。
顔を上げると、知己の友人が微笑んでいる。
「お久しぶりです、三条宮様」
細面の美男子は、確かにはっきりと頷いた。
(続く)
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