国史拾遺物語

和泉茉樹

第一部 歴史書編纂の始まり

1-1 きっかけ

      ◆


 砂利を踏む音に顔を上げないのは、その足の運びで明亀だとわかるからだ。

 明亀は正確な年齢は分からないが、おおよそ十二、三といったところで、浮浪者だったのを僕が引き取った。特に理由もなく、誰でも良かった。身の回りの世話をするものを都合する必要があったからというだけのこと。

「標さま、お客さまです」

 庭に向けて置いてある文机から顔を上げると、明亀は片膝をついている。

 その横に立っているのは、なるほど客だろうが、庭に回ってくるのような人物でもない。

「これは、貴木さま、こんなところへ足を運ばれるとは」

 客、貴木甘人は優雅に微笑み、縁側に腰を弄した。全ての所作が洗練されていて、高貴な公卿の一人らしさが満ち満ちている。

 今はおそらく、下三位の位階を賜っているはずで、もちろん、そこが終着点と見るものなどいない。

 若き貴公子、未来の指導者の一人である。

 さすがに僕も筆を置いて、姿勢を整えて、頭を下げた。

「御用を承ります」

 冗談で丁寧な言葉を選んだが、それを汲んで貴木甘人は声に出して笑った。口元を袖で隠すあたりも、いかにも高貴さを演出している。

 僕にはそういうものはほとんどない。欲しくも羨ましくもないけれど。

「標くん、今は何を書いているのかな」

 まさかそれが本題でもないだろうと思ったが、律儀に答える気になった。

「文字の歴史をとりとめもなく、書き留めておりました」

「文字か。きみが好きそうな分野だ」

 どういう意図の言葉かわからず、誤魔化すために僕は明亀に「お茶でもお出ししなさい」と指示を出した。頭を下げ、すっくと立ち上がると厨房の方へ去っていった。

「意外に馴染んだようじゃないか、あの娘も」

「意外に気がきくところがあります。今はちょっと、あなたに見惚れたようですが。それで、本当の御用は?」

 うん、と貴木甘人が気楽に頷く。

「三条宮さまのことはご存知だよね、きみも」

「ええ、それは」

 宮家というのは天皇家の血筋を引くもので、特殊な立場である。天皇家が長く続いたため、今では有名無実の宮家も多いが、軽んじられる場面は少ない。

 三条宮家もそんな宮家の一つだが、ついひと月ほど前、当主の三条宮道平という人物が他界した。今は孫ほど年齢が違う、三条宮道徹という青年が当主だ。

「ご無念だったでしょう、道徹殿も」

 また忍笑いをしながら、「普段通りに話そう、標」と囁くにように言った。

 僕も笑みを見せ、「恐れ多いですが」と言葉を返した。

 それからは友人同士の時間になった。

 僕と貴木甘人、三条宮道徹は幼馴染で、同じ国文学者の元で学んだことがある。その人物が突然の病に倒れたために、塾生は揃って途方にくれたが、貴木甘人は殿上人になり、三条宮道徹は宮家の当主である。

 結局、僕は彼らほど成功しなかったことになる。

「実はね、道徹が参っているんだ」

「何にです? あの男が、宮家の経営に困難をきたすとも思えませんが」

「それがね、道平殿が亡くなられる前に、古文書の存在を打ち明けられたそうだ」

「古文書?」

 そこへ明亀が茶を持ってきたので、すぐに下がらせた。明亀がいる間は貴木甘人も黙っていた。二人で湯呑みを口へ運び、話が再開する。

「相当に古い記録のようだ。紙もあるが、木の板や、木の皮に書きつけたものもあるという」

「何に書きつけてあるかは構いませんが、読めるのですか?」

「そこで道徹は参っているわけだ。読めないんだからね」

 ははぁ、と思わず声が漏れたのは、保存状態が悪すぎて文字が掠れるかしているのだろう、と思ったからだ。判別不能な古文書があり、しかしそれは歴史というものに関わるとなると、容易には処分も出来ない。

 そのはずだが、貴木甘人は平然と続けた。

「文字が今と違うのだよ。まさに、きみがさっきまで所感を書いていたという、文字という奴だ」

 危うく手から湯呑みを取りこぼしそうになった。

「なんですって?」

 思わず聞き返す僕に、貴木甘人は平然と笑っている。

「幸いなことに、保存状態は最良と言っていいそうだ。文字が掠れるどころか、はっきり読めるというよ。しかし字体というのか、今と差がありすぎて、判読が難しい。そこできみに用事が生じた」

「僕にその古文書を読み解け、とおっしゃる?」

「それ以外にないな。しかし、事態はもっと大きい」

 嫌な予感がしたが、まさか「聞きたくない」とも「帰ってくれ」とも言えない。相手は友人だが、それと同時に殿上人なのだ。陛下にさえ謁見できる立場にいる、上位の人間である。

「一応、お聞かせください」

 一応かね、と貴木甘人は微笑み、湯呑みをそっと置いた。

「朝廷では、歴史をより鮮明に記録するために、歴史書の編纂の計画が持ち上がっている。今までも、全部で二回、歴史書が編纂されているけれど、二回目は今からたったの百年前だ。実は三回目の編纂が四十年ほど前に企画されたが、歴史書を作り直すことにはあまり意味がない、という理由で、この計画はどうも、そのまま棚上げにされていたようだ。私も議論の場すら見たことがない」

 四十年? よくそれだけの間、中止もせず、議論もせず、宙に浮かせておけたものだ。それだけでも僕としては感心するしかない。

「その計画がね、三条宮家で古文書が見つかったことで、にわかに生気を取り戻した。この新発見の資料を解読すれば、新しい国の歴史、もしくは本当の国の歴史を明らかにできるのではないか、ということなんだ」

「それと僕にどのような関係が?」

「きみが歴史に傾倒しているのを、今や大勢が知っている」

 参ったな。

「甘人殿がそのように触れて回ったのですか?」

「きみに活躍のきっかけを与えたつもりだよ。今、きみの位階はなんだったかな」

「下八位ですよ。別に位階を上げたいとは思っていません。むしろ今くらい暇な方が、自由で快適というものです」

「下八位の禄では、生活も苦しかろう」

 無意識に自分の着物を見ていた。明亀が繕っているが、それでも所々がほつれている。御殿に出向くときは一張羅の着物を着るが、それが一着しかないので、いつも同じ着物を着ていると他のものに笑われることもある。

 もっとも、御殿へ出向く機会もそうそうある立場ではない。

 僕の所属は朝廷における様々な書類を管理することが任せられる「書誌司」だけど、あまりにやる気がなかったためだろう、ほとんど放り出されている。重要な議論、長い議論が行われた時や、年に一回の書類の整理の時以外は、ほとんど家で過ごしている。それでも禄がもらえるのだから、いい世の中だと満足していた。

 それが何やら、風雲急を告げている。

「活躍と言いますが、何をさせるつもりです?」

 恐る恐るという気持ちで、しかし表面は平静に確認したが、貴木甘人はもっと平然としていた。

「きみが、歴史書の編纂を主導するんだ」

 ……なるほど。



(続く)

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