第7話 絵本作家、泰人(1)
伸びあがって頭を受付の上にだす。お姉さんと目があう。
「ペンギンのオジサンいますか」
やさしそうなお姉さんだ。にこっと微笑んでくれる。
「ペンギンのオジサン?誰かな。久保田さん?」
「そう!久保田オジサンだ」
「オジサンね」
笑顔というより笑いを漏らしている。おかしなこと言ったかな。
「いま呼ぶから、まっててね。あそこにすわってて」
お姉さんが指さす方に顔を向けると、ソファにすわれといっていることがわかった。
「うん。じゃなくて、はい」
お姉さんにあわせて上品な言葉遣いをしなければならない。四角くてフカフカなソファに手をついて登り、お尻を落ち着ける。足はブラブラ。受付の横には棚があって、カラーの広告みたいのがいっぱいささっている。お土産コーナーに男女がいる。ぬいぐるみを物色しているようだ。マンボウがおすすめだと教えてあげようか。いや、ふたりの世界を邪魔するものではない。女の方がエンペラーペンギンのヒナのかぶりものをかぶった。ぬいぐるみならどこかにころがしておくだけでいいのに、かぶりものにしたらかぶらなければならない。かぶっていないときの置き場所に困るではないか。やめたほうがよい。
「こんにちは。今日はお父さんとお母さんは一緒じゃないの?」
首を振って否定する。
「おうちは、太田だったっけ。ひとりで電車できたの?」
うんとうなづく。久保田オジサンは生臭い。これが加齢臭というやつか。
「お兄さんに用事ってなにかな?」
背負っていたバッグを前にもってきて、中身をだす。
「絵本描いたんだよ?見せてあげる」
「そっかー。絵本を見せにきてくれたんだ。ありがとう」
久保田オジサンは絵本を見ようとはせず、受付の方を見ている。受付の上の壁に時計がかかっている。五時、十二分!時計の読み方はマスターしている。
「絵本はさ、専門家にも見てもらおうよ。その専門家は太田にいるから、車で行く?電車がいい?」
「電車!」
「よし。じゃあ、電車で一緒に太田にもどろう。お兄さんはもうすこし仕事しなくちゃいけないから、一緒においで、また事務室でイスにすわって待っててくれるかな」
「いいよ」
国語の教科書の朗読が宿題になっている。こんなこともあろうかと教科書をもってきている、宿題をやりながら待てばよい。
「お、こないだの子じゃねえか」
強面のオジサンだ。頭をガシガシしてくる。帽子の中で髪がぐしゃぐしゃになって気持ち悪い。帽子をとる。
「子供は嫌いだっつってたのに、なつかれてんじゃねえか」
「おれになついてるわけじゃないですよ。人食いペンギンの絵本を描いたから見せにきてくれたんです」
「おお、オジサンにも見せてくれるか?」
「いいよ」
一度バッグにしまった絵本を取り出して見せる。絵本を読みだしたとたん、ぎゃはははと笑っている。宿題をやっているのだから静かにしてほしい。気が散る。怖い絵本なのに、なにが面白いのだろう。神経がにぶそうだから怖いと思わないのかもしれない。笑いにつられて女の人がやってきた。
「金子さんのお子さん、じゃないですよね」
男前なキリッとした顔立ちのお姉さんだ。宝塚みたい。元宝塚の人しか知らないけれど。
「うちはまだ三箇月だ、こんな大きいわけねえだろ」
「ですよね」
「久保田の隠し子だ」
「えっ」
「あ、シャレんなんねえか。六つかそこらじゃ、二十代はじめ頃の子でおかしくねえからな。冗談だ」
「はあ」
「つうことは、美作もこんくれえの子がいてもおかしくねえお年頃ってことだな」
「刺しますよ」
「冗談だよ。ペンギンツアーでエンペラーの下敷きになった子だよ」
「ああ、例の」
「それで、これを見せにきてくれたんだと」
「絵本?ぼくが描いたの?」
「はい」
教科書からあげた頭をなでてくれる。
「お姉ちゃんも見ていい?」
「どうぞ」
真面目な顔でページをめくっていたけれど、途中でガマンができなくなったという感じで吹きだした。
「すごいね。人食いペンギンおっかないね」
「そうだよ。人を食べちゃうんだから」
ありがとうといわれ、絵本を受けとる。ガッコウみたいにチャイムが鳴りだした。
「これで、よしっ。じゃあ、帰ろうか」
「久保田が送るのか?」
「うん。電車で太田までね」
「太田」
お姉さんの目が細くなって床に向けられる。
「そうだ、先におうちに電話しておこう。電話番号わかる?」
記憶力に自信はない。絵本と教科書をしまい、バッグのフラップをあげて見せる。
「ああ、こんなところに名札がはいるようになってるんだ。そうか、子供用はこんな風になってるよね」
デスクに向き直って電話を操作する。
「おうちにお母さんかお父さんはいるかな。あ、留守電だ」
身分を名乗って、家まで送るとメッセージを吹き込んで電話を切る。久保田オジサンは家までついてくるつもりらしい。
水族館を出て、館林の駅で電車に乗り、太田へもどってきた。改札をでたところに、あのとき水族館にいたお姉さんが立って待っている。相内お姉さんだ。走って行って抱きつけたらどんなに幸せだろう。でもこの歳ではそんなことは許されない。人は歳をとるたびに幸せを奪われてゆくものなのだ。普通に歩いて、相内お姉さんの前で立ち止まる。
「太田におかえりだね」
頭を軽くポンポンとしてくれる。よしとしよう。
「お姉ちゃんが専門家?」
「うん、そうだよ。専門家。まっかしといて」
駅前の喫茶店。相内お姉さんとテーブルに並んですわって待っていたら、久保田オジサンが注文してトレーでもってきてくれた。ホットミルクだ。湯気が立って、ミルクの甘い匂いがする。
「これはなに?」
ケーキみたいに三角に切ってあって、でも中身はケーキではないものが皿に載っている。
「それはね、キッシュっていって、たぶんフランスの食べ物だよ。食べてごらん」
オジサンはフランスのことに詳しいのかもしれない。泰人はまだ外国に行ったことがない。小さいころ地球儀を蹴って遊んでいたと聞いたことがある。地球儀はお母さんのお兄さんのもので、つまり伯父さんだけれど、伯父さんは家の廊下で蹴られる地球儀の哀れな姿を見て泣きそうな顔をしていたという。今度会ったら伯父さんにやさしくしてあげるつもりだ。
それで、キッシュである。うまくしないとフォークからぽろっと具材が落ちてしまう。すこし食べにくい。久保田オジサンが皿をもちあげて口にちかづけてくれる。フォークで口にすべらせる。ジャガイモにチーズをかけたような味の料理だ。甘くはない。ほんのりあたたかい。ケーキとは大違いだ。これはスイーツではなくご飯だな。すきっ腹によい。
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