第130話 堕ちていく
部屋を暗くしていると、気分までもが暗くなる。
いや、気分が暗いからこそ部屋も暗くしたいと思うのか。
どちらかは分からないが、しかしティアグラの言う通り窓のカーテンを開け、無理やりにでも食事をとるようにすると、自分の落ち込んだ気持ちも多少はマシになったように感じられた。
少女はじっと自分の両手を見る。数十年付き合ってきた見慣れた手ではない。それこそが自分の罪深さを物語っているようであった。
「そうだ……私はもう、『クオス』じゃないんだ……」
これからどうすればよいのか。
どう生きていけばよいのか。
そう考えて、こんな時になってまでも心配するのは自分の身ばかりなのか、と自分の浅ましさに思いいたり、自嘲の笑みを浮かべる。
ふと、部屋の外に人の気配を感じた。以前のように鋭い聴覚はもうなくなってしまったが、しかしそれでも音に対する鋭敏な意識の持ち方は失ってはいない。
床板の沈み具合、ドレスの衣擦れの音から、それはこの館の主であるティアグラのものと分かった。どうやら彼女が廊下で誰かと立ち話をしているようだ。
「……そう、それじゃあやっぱりメッツァトルはクオスさんを探してるのね……」
聞きなれた二つの単語。しかしそのどちらももう既に自分を指す言葉ではない。
「本当なの!? だって、元は仲間なんでしょう?」
断片的にしか会話は聞こえていない。
「……このことは決してクオスには言わないで。傷つくわ。せっかく持ち直してきたところなのに……」
断片的ではあるが、しかしこの部屋の中でティアグラの言葉が漏れ聞こえてくるのは初めてではない。今までの話の流れや、言葉の雰囲気から、文脈を察することは出来る。
メッツァトルの人間がクオスを探している。最初は仲間として心配して姿を消した彼女を探していたようだが、やがて裏切ったことを知り、次第に憎悪を膨らませるようになってきている。
そして今日漏れ聞こえた話。
メッツァトルが元仲間に対して、何か非情な決断をしたのか、クオスが知れば傷つくようなことを。
考えれば考えるほどに不安になり、そして不安だからこそより深く考え込んでしまう。クオスは完全に深みにはまっており、そして冷静な判断力も失っていた。
光彩の消えた鈍い瞳で、一人ベッドに座って考える。そんな時にがちゃりと部屋のドアが開けられた。
「調子はどうかしら、クオス」
彼女が部屋に入り、朗らかな声を響かせるだけで部屋の中がパッと明るくなるような気がした。この屋敷の女主人、ティアグラは用のあるなしに関わらず折に触れてクオスの部屋を訪ね、そして慰める。
「あなたの事は私が必ず守る」、「私はあなたの味方」、「いつまででもここにいていい」……そして、彼女の前ではメッツァトルを非難するような発言は決してしない。
ただ、廊下の外で、注意していなければ聞こえないような絶妙な加減の声量で、自分が誘導したい情報をバラまいていく。
クオスがそれについて直接尋ねたとしても、苦笑して言葉を濁すのみ。
もはや正常な判断の出来ないクオスは、この『聖女』に完全にやられていた。
あれほどドラーガがこの女の事を『詐欺師』と呼び、その危険性を指摘していたにもかかわらずだ。
「クオス、あなたは自分の事を随分と責めているみたいだけれど」
ベッドの隣に座り、柔らかな手でクオスの頭を撫でながらティアグラは言う。
「人は誰しも自由に生きる権利を持っているの。それを邪魔することなんて誰にもできないわ。転生法を使って、自分の心の性別に合った体を手に入れたことを、まだ悩んでいるのなら……」
「違う! 違うんです!!」
ティアグラの言葉を遮り、クオスは俯いて両手で顔を覆った。
「……私は……仲間を裏切った。アルグスさんがあれほど転生法を嫌悪していると知っていたのに、私利私欲のために……」
ティアグラはクオスにそれ以上喋らせず、彼女の体を抱きしめた。その暖かさに、クオスは涙を流し始める。
「辛いことばかりの人生だったでしょう……自分の思い描く自分と、実際の自分が違うなんていうあなたの苦しみを、いったい誰が分かってくれるというの」
「私は……私は……」
「そんなことまでは望んでいなかったはず」……その言葉を口にすることができなかった。もはや自分の確固たる考えを喪失しているのだ。
そんな方法など無いと思い込み、ただ、ありのままの自分を仲間が受け入れてくれただけで幸せだった。
満足していた。
そこに不意に転がり込んできたチャンス。
女として生まれ変わり、自分の思うような、憧れていた人生を歩むことができる。
この抗い難い魅力に打ち勝てるほどの強靭な精神力をクオスは持ち合わせてはいなかった。
しかし実際に転生してみれば、望んだ生を手に入れた喜びよりも、自分の犯した過ちへの後悔と、そして恐怖。かつての仲間が、自分を誅するために向かってくるのではないかという。
「大丈夫、大丈夫よ」
クオスを抱きしめたままティアグラは彼女をなだめるように優しく声をかける。
「もしあなたの幸せを邪魔する者が現れたなら、私があなたの代わりに戦うわ」
この言葉に思わずクオスはティアグラを押しのけて顔を上げた。
「そんな……そこまでティアグラさんに迷惑をかけるわけには……」
「じゃああなたはメッツァトルと戦えるの!?」
ティアグラの質問に思わず言葉に詰まるクオス。だが違う。そこは要点ではないのだ。「戦える」か「戦えないか」が問題ではない。
今ここで、ティアグラは初めてクオスとメッツァトルが敵対するという未来を直接指し示したのだ。しかしさんざん噂に乗せて「匂わせ」られていた「メッツァトル敵対」の情報に麻痺してしまい、クオスはそれに気づかない。
もはやすでにクオスとメッツァトルの決別を既定路線として受け入れてしまっている。
そして「自分に都合の良い現状認識」を植え付けることに成功したティアグラはさらに次のステップに進む。
「私に任せて。あなたはメッツァトルとは戦えないわ……」
「戦えます!!」
言葉は口から発せられると力を持つ。これは、言霊などと言う胡散臭いものではない。マインドコントロールである。
クオスは今、自分の口ではっきりと「メッツァトルと戦える」と発言したのだ。何の見返りもなく自分を助け続けてくれているティアグラが「クオスの代わりにメッツァトルと戦う」と発言した。そのことへの申し訳なさだったのかもしれない。あるいは彼女は冷静な状態であればそんな発言は出なかったのかもしれない。
しかしティアグラはクオスに自らの意思で、その言葉を発することに成功したのだ。そして彼女の猛攻はこれで終わらない。
「だめよ、あなたは戦えないわ。必ず、私があなたを守るわ」
「戦えます!」
「ダメったらダメよ! 私はあなたのためを思って……」
「私が……」
クオスの目はここ数日の無気力なものではなく、確かな意思を持って決意の炎が灯っていた。
「私が戦わないといけないんです」
自らの意思で、何度も口に出させる。
人は、外からの刺激に弱い生き物だ。何度も同じことを口に出し、自分の耳に入れ続けることで、やがてその言葉を信じるようになる。
自分が、かつての仲間と戦えるという言葉を。
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