終章:また、春風が吹く

 ひらり、ひらり。

 桜の舞い散る空は、青く澄み渡っていた。

 浮かぶ雲は薄くぼんやりとしていて、春風に流されていく。今日は、やや風が強い日だった。つい数か月前まではガランとしていた桜の木も、今はもう、景色を薄桃色に染め上げる勢いで満開だった。

 春が訪れた。

 月日というものは気づけば、本当にあっという間に過ぎていくものだと改めて感じさせられる。

 それでも変わらないものもある。

 たとえば、目の前にいる彼らの光景のように。

「そういえば、そろそろ就活の準備しなきゃじゃない?」

「そうですね、インターンとかもあるみたいですし」

「目星とかあるの?」

「そうですね……正直、迷っています」

 零夜は頬をかきながら、眉をひそめる。

「大学卒業した後も、『喫茶店elena』で働いていたいなって」

 苦笑いをしながら「たかが、バイトの身なんですけど」と、彼は弱気に言葉を付け足す。でも晴は小首を傾げる。

「零のやりたいことなら、とりあえず続けてみるのもいいんじゃないかな」

 その言葉に零夜は振り向くと、驚いたように目を丸くする。まさか、肯定してもらえるとは彼も思っていなかったのかもしれない。

「やってみないと分からないことも、たくさんある」

 ふと、晴は青空を見上げる。桜吹雪が吹くと、彼女はレンズを覗くように、手で長方形を作った。

「そのおかげで、私はやっぱり絵を描きたいってことに気づけたから」

 手を離すと、晴はニッと微笑む。その笑顔にあてられてか、零夜も「そうですね」とふわりと笑みを零した。

 晴は今も、絵を描き続けている。

 恋岬神社に絵を持ってきては、零夜に見せていた。それを、楽しそうに彼は眺めていた。

 だが最初は、純粋な気持ちだけではなかった。

 零夜が晴と出会った日。再び晴の姿を見られたことに、驚きを隠せなかったワタシは、零夜に過去のことを話さざるを得なくなった。

 それから零夜はワタシのために、晴の絵を見られるように動いてくれたのだ。理由は、ワタシに恩があるから返したい、と言っていたけど、それが何なのか皆目見当もつかなかった。

 しかし後に彼の気持ちも変わっていき、今では晴の絵を楽しみにしている。

 晴の絵が、誰かの心に届いている。

 その事実が、ワタシは何より嬉しかった。

 だが晴は、元の仕事を辞めたわけではなく、副業としてフリーで活動しているようだ。彼ら曰く、今流行りの働き方らしい。

 目標は、絵の仕事一本で生活すること。

 先日、そう意気揚々と目標を掲げる晴の姿を見て、ワタシは一度見たことのある光景だなと思い出した。

 彼女がまだ高校生の時も、同じように絵を描くことを楽しんでいた。

 過去にあったことは零夜から、何となく聞いていた。人生、うまくいかないことはたくさんあるんだろうけど。

 こうして時が流れても、晴のやりたいことができていることが、ワタシにとって何よりうれしいことなのかもしれない。

 それからも、彼らは桜とお菓子を摘まみにお酒を飲んでいた。どうやら花見をしに来たらしく、さっきまでは互いの手料理をごっちゃにして食べていたが今は、昼なのに晩酌しているみたいになっていた。

 すると彼女は何かを忘れたらしく、取りに行くために神社を出てしまった。ワタシはそろりと、零夜の下に近づく。

「良いのか?」

「何が?」

「晴に、想いを告げなくて」

「いいんだよ」

 零夜はこちらを見上げると、ふっと微笑む。立ち上がり、ひらりと舞う桜の花びらを拾い、彼の瞳は見つめる。

「まだ、このひと時を味わっていたいのかもしれない」

 目を細め、ニッと口角が上がる。桜の花びらのように柔らかい表情に、ワタシはつい見惚れてしまいそうになった。

 この満開の桜を前にしてそれを思ってしまったことに、少しおかしくて、つい笑みを浮かべてしまう。

「その間に取られてしまうかもしれないぞ?」

 気づけば、意地悪なことを告げていた。言ってすぐに、ワタシは胸の内で首を傾げてしまう。

 どうして、ワタシはこんなことを言ったのだろうか。

「そうならないように、かっこいい男になってみせるよ」

 さらに彼は唇の端を上げ、満開の桜のように華やかな笑顔で私を見据える。それにつられえるように、ワタシもははっと笑ってしまった。

 敵わないな、と思ってしまう。

 それはおそらく、ワタシが晴を思う気持ちは、この目の前にいる青年には遠く及ばないということ。

 そんなことは、分かっていたのだ。

 当たり前だった。

 彼は結果的に向き合い、ワタシはこうして逃げているままなのだから。

 彼らは、この先も二人で過ごしていくんだろう。

 ワタシと、晴の時とは違って。

 ……そうか、羨ましかったのか。

 見守っているだけのつもりが、あの頃の思い出を引きずって、こうしていればよかったのではないかと、いつからかずっと後悔が頭を駆け巡っていた。

 だが、しょうがないことだとも分かっている。

 ワタシと彼らでは、違う存在。

 触れることすらできない。

 その上、ワタシは神様としても何も与えることができない。

 こうして神様として生まれてきたのが、そもそもの間違いなのだから。

 もう、天に戻ろうか。

 本当は彼らの行く末を見ていくつもりではあったけど、そんなことを彼らは必要とはしていない。むしろ、ワタシだけが彼らを求めていたのだ。

 今日を、最後にしよう。

 恋岬神社にて、私の存在はもう意味をなさない。ここはとっくの昔に、神社としての存在意義を失くしているのだから。

 晴が戻ってきた後、ワタシは二人の光景を焼きつけるように眺めていた。

 夕暮れ時になる。

 彼らは、後片づけをし始めた。どうやらこの後は、零夜の働いている喫茶店に立ち寄るらしい。

 これで、お別れ。

 そう思い、ぼんやりと桜と神社の景色を見渡す。ずっといた場所だからか、今になって名残惜しくなってくる。ここには、申し訳ないことした。神社として繁栄できずに、こんな寂れた場所にしてしまって。

 昔は、ワタシもやる気に満ちていたと思う。だが出どころのないやる気は、いつまでも続くはずがなかった。いつしか、どうしてこんなことをしているのか、疑問に思うようになっていた。とはいうものの、それに関係なく恋岬神社は衰退していったが。

 今は、彼らの居場所になっている。

 それだけでも、ここも少しは報われているのかもしれない。

 片付けも終わり、彼らはこの場を去ろうとする。その時に、零夜はこっそりこっちを向いて手を振ってくれた。

 ワタシも、振り返ろうとした。

 けど。

 これで、最後。

 本当に、このままでいいのか?

 何も告げずに、勝手にいなくなって。

「零夜、少しいいか?」

 言葉で引き留めようとすると、彼は一瞬きょとんとした顔をした。けどすぐ、晴に先に行っていてくれという旨を伝え、ワタシとの時間を作ってくれた。

「ワタシはもう、天に戻ろうかと思う」

「それは、今日?」

 頷くと、彼は「そっか」と下を向き、はにかむ。

「じゃあ、お別れだね」

 でもその瞳はやや、潤んでいるように見えた。

「……ああ」

 振り絞るように、声を出していた。もっと、すんなり言葉にするつもりだったのに。すると零夜は、唇を噛みしめる。

「泣きそうな顔してる」

 そう言われ、ワタシはつい笑ってしまった。

「零夜もだろう?」

 でもそれといっしょに、いつの間にか私の瞳から雫が零れ落ちるのを感じる。温かくて、じんじんと目頭が染みる。

 これが、涙というものなのだな。

 ワタシは今日初めて、涙というものに触れた。

 流したことがないのは、もちろんのこと。

 人間の涙に、ワタシは触れることができないから。

「ワタシにとって、零夜は友だちという存在に近いのかもしれない」

「それは、違うよ」

 彼は左右に首を振る。ワタシはおもわず、はは、と乾いた笑みになっていた。まさか否定されるとは思わず、どう反応したら良いか分からなかった。

 ワタシだけが、そう思っていたのか。

 早く、消えてしまいたい。

 けれど。

「僕たちは、ちゃんと友だちだよ」

 零夜は触れることのできないワタシの手を包み、微笑みかけてくる。ワタシを捉える瞳は、優しい黒の漆色。艶やかで透明感があり、ついそこに目が止まってしまうくらい。

 そこに映り込むワタシは、見たこともないくらい穏やかに笑っていたと思う。

 別れてしまうのは、辛い。

 だけど、いつまでもこうしてはいられない。

 ワタシも、次へと進まなければいけないのだから。

 この先、晴のことはもちろん、零夜のことも絶対に忘れないと思う。

 何百年、何千年先の未来でも。

 ワタシの心には、彼との思い出が刻み込まれているから。

 いつだって、彼とのひと時を思い出せる。そしてそれが、ワタシの活力になっていく。

 これが、友だちというやつなのだろうか。

「晴さんには、会わなくていいの?」

「一度逃げたワタシに、そんな資格はない」

「それは、僕も同じだったよ」

「だが、今はこうして二人でいるのは、つまり、そういうことなのだろう」

 零夜とワタシは、決して同じではない。零夜には、未来がある。しかし、ワタシには先がない。晴に、何も与えることはできない。

 それなのに、今ごろ会おうとするのは、自分勝手極まりないことだった。

 それでも、最後にわがままを言うならば。

「零夜」

「何?」

「最後に、抱きしめてもいいか?」

 答えを聞く前に、ワタシは彼のことを抱きしめていた。触れることはできないから、彼の輪郭を辿るようにそっと、力強く。

 すると、彼も抱きしめ返してくれるのが分かる。触れられてはいないけど、そんな感じがした。

「ありがとう、零夜」

「こちらこそ、ありがとう」

 人肌が恋しくなる。

 まさに、このことなんだろう。

 ワタシを覆っているところから、伝っていくように。

 不思議と、心も体も温かくなっていくような、そんな気がした。

 春風が吹く。桜の花びらは導くように、ワタシと晴が時を過ごした場所へと吹き抜ける。走馬灯のように、あの頃の思い出が蘇ってくる。

 いつしか、晴が砂時計について語っていたことを思い出す。

 オリフィス。

 砂時計にある括れには、そういう名があるらしい。彼女はそこを潜る砂を眺めている時間が、好きなのだと言う。

 ワタシは、奇跡に近いものだと思った。

 そのひと時を一緒にいられるのは、同じ時代に生まれて、会える距離で生活して、偶然出会わなければいけない。

 一つの選択で、出会う奇跡と出会えない奇跡が決まる。

 オリフィスを砂が通る時のように、細く、せつなの出来事。

 だけど、彼らは巡り会えた。

 どうかこの先も、砂時計が降り注ぐように積み重ね。

 何時か、春が訪れるように。

 二人がこれからもずっと、幸せな時を刻むことを信じて――

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何時か好きが、愛に成り代わる @_ruki

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