第八章:幼馴染

 大きく空気を吸い、ほうっと一つ吐き出す。

 白く浮かび上がる吐息の先には、見慣れた景色。よく通っていたファミレスやファーストフード店、参考書や小説を買っていた本屋。待ち合わせによく使う、噴水のベンチ。少し先を行き、大きい道路を越えれば、住宅地が待っている。

 ここは、僕がずっと住んでいた町。

 いつも使っていた道を進み、Y字路を左折し、真っ直ぐ行けば僕の住んでいたマンションが建っている。

 僕は立ち止まり、ぼんやりと見上げていた。

 不思議な感覚だった。

 たった一年前に家を出たばかりなのに、懐かしく感じる。他人の家に上がるみたいに、緊張している。

 でも、今から向かうのは、家族のいる部屋ではなく。

 まだ住んでいるはずの、藍花のところだった。



 インターホンを鳴らす。すると声が聞こえてくるけど、それが藍花のものではないことが分かる。彼女と違って大げさな反応だったから、たぶん彼女の母親だ。

 ドアが開き挨拶を交わすと、「大人っぽくなったわねぇ」とたった二年ぶりくらいなのに言われる。あれから特に変わってないと思うけど、とりあえず笑っておいた。

「藍花よね? ちょっと待ってて」

 僕が要件を伝える前にドアを閉められてしまい、唖然としていると、壁越しに騒がしい声が聞こえる。たぶん、母と娘同士で言い争っているんだろう。頑なに、藍花が駄々をこねているに違いない。

 藍花の母は、僕たちが恋人関係にあったことを知っているはず。

 それでも僕に会わせようとしてくれるのは、仲が良かった頃の僕らを知っているからこそ何だろうか。

 やがて言い争う声は止み、数分後。おそるおそるとでも言うように、ゆっくりとドアが開いていく。覗き込むように、こっちを見る。

 そこには、藍花がいた。

 僕は、じっと見てしまった。本当に僕の前にいることが、目の前にしても、未だに信じ切れていないのかもしれない。

「外に行かない?」

 ちらっと後ろを見ながら言う。それで何となく察して、僕たちは行き場所も決めず歩き出した。

 約二年ぶりに再会した彼女は、どこか大人っぽくなっていた。

 髪は肩までの長さで、毛先がふわりとカールしている。色も黒かと思いきや、薄っすらとブルーっぽい。服装はカジュアルだけど、深いカーキのロングスカートに厚手の黒いハイネックニット。白色のダウンジャケットをざっくり羽織り、隣からコツコツと、レザーのブーツがテンポよく鳴っていた。

 駅前まで行き、寒いからと僕たちはカフェに入った。二人ともカフェラテを頼み、横に並べるソファー席に座る。正直、ありがたかった。正面にいると、ずっと視界に入ってしまうから。

「どうして来たの?」

 カフェラテを一口のみ、カップを握って、指先を温めながら僕へ問いかける。あまりにも唐突で、僕は口を噤んでしまい、カップから沸く湯気をぼんやりと眺めた。

 どうして来たのか。

 藍花と、前と同じように、幼馴染として仲良くしたいから?

 そんな虫のいいこと、僕から言えるはずがない。

 会っていない間、藍花の様子が気になっていたから?

 避けていたのに彼氏面も良いところだった。

 前を向けるようになりたいから?

 ただの自己満足でしかない。

 思いつく言葉の全てが、藍花の心を逆撫でしそうで、何も言葉が出てくれない。

 普段なら、他の女性なら、するりと出てくれるのに。

 彼女にかける言葉だけは、さっきから何も決められずにいた。

 たぶん、怖いんだ。

 藍花を、また傷つけてしまうことが。

 でも、何か言わなければ。

 そのために、彼女に会いに来たのだから。

 僕は一気に彼女の方を向き、口を開こうとする。けどその前に、彼女に両頬を摘ままれてしまい、唇が尖がってしまった。

「怖い顔してる」

 と言いつつ彼女は真顔で、僕はつい固まってしまった。まだひんやりと冷たかった手が離れると、彼女の口角はほんの少しだけ上がる。

「私も、いつか零夜に会いに行こうと思ってた」

 ちらりと、僕を見やりながら言う。えっと声を漏らしてしまうと、彼女は目を細め、俯いた。

「私のせいで、関係を壊してしまったから」

 変わらず、ぽかんと口を開いてしまう。何を言っているのか、僕には全然理解できなかった。

 僕らの関係を壊したのは、間違いなく僕なのだから。

「私を好きにならないことなんて、分かってた。

 それなのに、零夜の隙に付け込んで、告白して、幼馴染という関係をめちゃくちゃにして

 ……ずっと、謝りたかった」

 彼女はこちらに向かって頭を下げる。そこでようやく僕は動き出せて、彼女に頭を下げさせるのをやめさせようとした。

 どうやら僕と藍花で、別のことに後悔していたようだった。

 僕は、彼氏として藍花を傷つけてしまったこと。

 藍花は、僕との幼馴染という関係を台無しにしまったこと。

 でも、そんなことより。

 彼女も同じように、僕らの関係について思ってくれていたことが、僕にとっては何よりも意外なことだった。

 もう一生会いたくないのだろうと、僕は勝手に思い込んでいたから。

「でも、零夜もあっちで人間関係作ってるだろうから、私はもういらないかなって、身を引いてた」

 そう彼女は半笑いで言うけど、僕の表情はまるで動いてくれない。じっと、俯いたままだ。

 人間関係は、作れているんだと思う。

 それは僕の魅力でも何でもなくて、晴さんとか店長とか、たまたま僕の周りが素敵な人たちだったというだけ。

 僕と違って、藍花はちゃんとしているんだろう。

 真っ直ぐで気配り上手で、優しい女の子なのだから。

 だけど、僕が彼女と会わなかったのは、そういうことではない。

「僕は、少し違う……ただ、また傷つけてしまうのが怖かったんだ」

 言葉じりが弱くなってしまう。まるで、声が押しつぶされていくみたいに。このままだと、僕の何かが壊れてしまうような気がした。

 それでも、一度だけ深呼吸をして、どうにか声を振り絞る。

「あの頃に戻りたいとも思って、今どうしているんだろうかなって気になって。それでも、会いに行こうとは思えなかった」

 声にすることで精一杯で、言葉が支離滅裂になっていた気がする。だけど、さっきの言葉たちが、僕が本当に思っていることなのは、間違いなかった。

「それなら、どうして来たの?」

 覗き込むように、僕の目を見据える。湖のように澄んだ瞳には、僕の姿がしっかりと映っていた。

 あの頃と、何も変わっていない。

 ずっと、藍花は僕を見てくれていた。

 今も、言葉をちゃんと受け止めようとしてくれている。

 だから僕は、閉ざされてしまいそうな壁を突き破るように、顔を上げ、想いを言葉にした。

「僕は、ただ前を向きたい」

 すると、頬を何かが伝う。目頭が熱くて、視界がぼんやりとしていて。そのまま、じっと藍花に目を凝らした。

 この景色を、今後忘れてはいけないような気がした。

「零夜、変わったね」

 ハンカチで拭われると、開けた視界には微笑みを浮かべる藍花の姿があった。首を傾げてしまう。

 変わった、のだろうか。

 いや、変われたからここにいるのかもしれない。

 晴さんという、僕の中で特別な人に出会って。

「前は、こういう時に自分のこと話さないから」

 拭い終えると、やれやれというようにため息を吐く。僕はそれ見て、おもわず噴き出してしまった。藍花は怪訝な目つきになるけど、すぐに笑みを浮かべていた。

 たしかに、僕は自分のことをあまり話さないかもしれない。

 嫌なわけではないけど、無意識にそうしている気がする。考えてみると思いつくのは、たぶん、僕の話しなんて大して面白くないのではと感じてしまうから。

 それなら、その人が楽しめるようなことを話したい。

 そうすると、どうしても相手の話しを広げて、聞くようになってしまうんだろう。

 僕の意見は、会話を繋ぐ糸口でしかなかったんだ。

 今また、僕は変われたのだろうか。

 そうだとしたら、きっと神様や店長。

 そして、晴さんのおかげだった。

「恋人、いるの?」

「いや、いないよ、どうして?」

 急な問いに、つい言葉を詰まらせてしまう。藍花から、まさかそんなことを聞かれるとは思いもしなかったから。ちょんよんと僕の顔を指さす。首を傾げてしまうと、彼女はあからさまにため息を零した。

「そんな顔して、どんな人を思い浮かべているのかと思って」

 とっさに顔を覆うと、たしかに口角が上がっているのが分かる。無理やり引っ張って元の顔に直すと、藍花はくすくすと笑っていた。だから、また僕の頬は緩んでしまった。

「私は今、彼氏いるよ」

 また、突然の一言。僕は何て答えて良いか分からなかったけど、ひとまず「そうなんだ」とだけ返す。

 たぶん、喜ばしいことなんだと思う。

 今までも何回かあった。元カノが別の誰かと付き合っているのを目撃したり、言づてに聞いたりすることは。

 その時は、何とも思わなかったのに。

 ……そうか。

 藍花は今、別の誰かの彼女なのか。

 そう考える度に、胸の辺りでもやっとしていた。

 恋愛感情ではないんだと思う。

 ただの、独占欲というやつなのかもしれない。僕の幼馴染が、知らない人のものになるという。

 それに比べて、彼女はとっくに前を向いていた。

 強いなって、思った。

 とくに、僕の周りの女性には、そう感じさせられていた。

「早くしないと、手遅れになるよ?」

 にやりと笑みを浮かべる彼女を見て、何となく、さっきの話しを掘り返しているのだと察する。余計なお世話だよ、と言いかけるけど、口を閉ざす。

 実際その通りだと思った。晴さんは、あのかっこいい男性の誘いを断ったとはいえ、この先また、彼女に惹かれる人が出てもおかしくはない。

 それならもう、気持ちを伝えるべきなのだろうか。藍花の言う通り、手遅れになってしまう前に。

 でも、彼女は言っていた。

 絵を仕事にしたいと。

 きっと彼女は今、集中したい時期なんだと思う。

 だから、僕にできる事と言えば。

「僕は、待つよ」

 晴さんの、楽しそうに絵を描いている姿が浮かぶ。今では、彼女はたまに僕の前でも絵を描いてくれる。

 その姿が、僕は好きだから。

「彼女の心に、僕を想ってくれる、ゆとりができるまで」

「それは、その人のため?」

「僕のためでもあるよ」

「なら、よかった」

 藍花は微笑みを浮かべ、僕も気づけば笑顔になっていた。

 これから先、僕たちの関係がどうなっているかは分からない。

 昔みたいに幼馴染に戻っているかもしれないし、今みたいにほとんど会わない関係に戻っているかもしれないし。

 幼馴染とか、友だちとか、案外そういうものなのかもしれない。

 ただ、心から思うのは。

 今だけは、あの時の僕たちに戻れたみたいで。

 この先も少しだけでいいから。こうして会って、微笑み合えたら良いなって。

 僕たちはこの後、義妹の一夏も呼んで、三人でファミレスに行ったり、昔遊んでいた公園に行ったりして、今のことをたくさん話した。

 二年間という、僕らの空白のひと時に、色を塗って刻んでいくように。

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