第七章:大切なあなたへ

 カチカチと、レイヤーを切り替えながらペンを走らせる。

 ペンといっても、ペンタブで描くためのペン。大学生の頃から使い始め、名古屋の会社に就職してからはほぼ毎日のように使っていた。今愛用しているのは、先月に買ったもの。元々使っていたのは古くなっていたこともあるが、あの頃から心機一転するためにも新しくした方が良いと思い、買い直した。

 絵を再び描き出してから、仕事もあって学生時代と比べてペースは落ちているものの、今のところコンスタントに描き進められていると思う。たぶん、趣味にしては頑張っているくらいには。

 でも、まだ足りない気がする。

 私が考えている、目標を達成するためには。

 ひとまず一段落したところで、私は大きく伸びをしながら椅子にもたれかかる。肩痛いなぁ、と天井を見上げていると、横目にF10サイズの少し小さめなキャンバスが映る。

 そこに描かれた絵は、もう完成している。絵具はアクリル性を使っていた。油絵具を使おうかとも思ったけど、久しく使っていなくて、見せるには、手軽で使い慣れているほうが良い気がした。

 そう、この絵は見せなければいけない。

 なのに私はこの絵を、家に閉じ込めたままにしている。

 それはまだ、誰かに絵を見せることを恐れているからなんだろう。

 私の絵を好きだと言ってくれた男の子がいる。そんな彼にも見せられないのなら、おそらく私の新たな目標は一生達成することができない。

 椅子から立ち上がり、キャンバスの前に立つ。数年ぶりにキャンバスで描いたにしては、上出来なのかなとは思う。でも客観的に見た時、どうなのかは正直分からない。

 そうやってイラストレーターをしていた時は、社内で苦しんできたのだから。

 そのせいで、ひよっているところもあるんだろう。

 真っ直ぐ、この絵を見つめる。

 秋の草木と月明りはぼんやりと冷たく、猫と零の和んでいる様子は温かくなるようにし、対照的に見えるように描いた。そのほうが、私の描きたいものが目立ち、明白になるように感じたから。

 構図は、撮った写真からそのまま描いた。私がその時に抱いた感動を、そのまま絵にしたかったから。

 良い絵にしようとは努力したけど、実際のところ分からない。

 それでも、先に進まなければいけない。

 私はキャンバスを仕事用の鞄の横に置く。といっても会社に持っていくわけではなく、明日の金曜日の夜、一度家に帰ってきてから、キャンバスを持っていくことを忘れないようにするため。

 零は、私の絵を好きだと言ってくれた。

 この絵を見て、どんな反応をするんだろう。

 また、好きな絵だと思ってくれるかな。

 そうだといいな。

 そんなふうに会社にいる時も悩みながら、絶対に定時で上がれるように手元はいつも以上に早く動いた。高校からの友達で同僚のスズから「何かやる気すごいね。これからデート?」と心の中を読んだかのような鋭さに、どうにかこうにか感づかれないように否定しておいた。事実、デートではないし。

 そのまま何事もなく就業し、キャンバスをトートバックに入れ、恋岬神社に向かった。下手だと思われないだろうか、変な色使いだと言われないだろうか。零なら絶対に言わなそうなことでも、目前にしてとてもネガティブ思考になっていた。

 だけど、今日この日に零が姿を現すことはなかった。

 二度目までは、たまたま用事が重なっていたのかと特には気にしていなかった。彼の本業はあくまで、大学生なのだから。

 だけど丸々一月現れず、さすがに心配になり、私は休日の日曜日に『喫茶店elena』に向かった。たしか、日曜日はバイトのシフトに入っていると以前言っていた気がするから。

 とりあえずお昼にいつも通りコーヒーとパスタを頼んで過ごしていると、夕方になる前くらいに制服姿の零が現れる。店長からこの時間に来ることは聞いていたけど、実際に姿が見られて一安心した。

 私は彼に声をかけた。だけど「今仕事中だから」とはね退けられてしまった。何か冷たいなとは思いつつ、彼の言うことも正しいことだから、コーヒーをお代わりしてもう少し待つことにした。

 夕方になり日が暮れてくる頃。さっきよりもお客さんの数がまばらになってきていて、今ならもう大丈夫かなともう一度、零に声をかけてみる。すると、今度はちゃんと来てくれた。

「零、最近忙しかったの?」

「いや、普通だったと思うよ」

「そうなんだ。でも、何かあったのか心配してたから、何もなくてよかったよ」

 そうほっとしていると、零は頬をかきながら下を向く。

「あー、うん。ごめん、行くの忘れてただけだから」

 私はおもわず「えっ」と声を漏らし、彼のことを凝視してしまった。信じられない一言だった。いや、もしかしたら忘れてしまうほどの何かが、彼にあったという可能性もある。

「何かあったの?」

「いいや、何も?」

 前のめりになって聞くも、しらっとした表情で即答される。

「ほんとに?」

「本当に」

 聞き返したところで答えは変わらず、「じゃあ、仕事に戻るから」と言われ、裏方の方へと行ってしまう。その後もつい目で追いかけてしまう。けれど、オーダーを取っている様子や、他の従業員の方と話している様子に変わりはなくて、本当に何事もなかったようにしか見えなかった。

 その日、私は諦めて家に帰った。

 わざわざ会いに行ってまで確かめたのだから、次の週の夜こそ、零が来てくれると信じていた。

 だけど結局、零は来てくれなかった。

 忘れていたなんて、嘘だ。

 毎週のように会っていたのに、忘れるはずなんてない。

 もう、私に会いたくないだけなんだ。



 時間さえあれば、ひたすら絵を描いていた。

 家の中にある物や、外に出て見た景色を模写したり、イラストレーターをしていた時みたいに想像して、インテリアや雑貨をデザインしてみたり。

 とにかく、ペンや筆を走らせた。

 今まではそんなことはなかったと思う。気が向けば描いて、どちらかといえば、他のことをしていた時間と比べても半々くらい。

 それなのに、どうして今はこんなにも憑りつかれたように描いているんだろう。

 一緒なのは、あの頃も絵しかなかったこと。

 浮気した彼氏はいたけど、正直なところ家にいる時はずっと絵のことやそれに関係することばかり考えていて、最優先にしていた。

 でも、零と出会ったから変わっていたと思う。

 金曜日の夜、何を話そうか、お菓子とか飲み物とか何を買っていこうか。会う数日前から、考えてしまうようになっていた。

 私の中で、いつの間にか零の存在が大きくなっていた。

 だからそれがなくなってしまった今、私は絵だけに集中できているんだと思う。それはある意味いいことなのかもしれない。私の考えている目標は、やり直すにはとても体力のいることのはずだから。

 それでも、描き続けても、零のことを考えてしまう。

 時間が経てば、いつか忘れられるのだろうか。

 ……そんなはずない。

 あれから十年経って三十路近くになってさえ、あの頃、私の絵を描くきっかけをくれたあの男性のことを忘れることはできていないのだから。

 ただ、一つ違うのは。

 あの人には、もう会う手段がない。

 だけど零には、まだ会うことができる。

 壁に立てかけられた、彼を描いた絵を見つめる。自己満足で、彼の目を描くのを頑張った。夜みたいに静かなのに、星々が浮かぶみたいにきらりと眩しい。

 惹かれた、なによりもきれいな瞳。

 その瞳はもう、私のことを見てくれることはなくて、傍から見ることしかできなくて。

 しょうがないと、言い聞かせていた。

 だけどもう、駄目だ。

「零に、会いたい」

 気づけば零れていた言葉と、一筋の涙。

 泣いていて、嗚咽していて。どうしようもないことなのに、止めどなく溢れ出てくる。

 いや、しょうがないことだから止まらないのか。

 それくらい、彼に会いたいってことなんだ。

 ……そうだ、まだ会える。

 時計を見やれば、『喫茶店elena』の閉店時間ギリギリ。だけど近所だから、走れば零が帰る前に間に合うかもしれない。涙を拭い、ダウンだけ羽織って立ち上がる。ぼさぼさ頭を隠すために、キャップだけかぶって。

 冬夜の空気が、肺を突き刺すように痛める。休日中、ずっと家に引きこもっていたから気づかなかったけど、少しだけど雪が降っている。そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、私は夜道を走り抜ける。元々運動不足なのと冷たい空気のせいで、すぐに肺に限界が来る。それが生じてか凍った雪に滑り、膝と腕をコンクリートに打ち付けてしまう。アドレナリンが吹き飛ぶほど痛い。けど、私は前に進み続けた。

 やっとの思いで、喫茶店にたどり着く。でもドアにはcloseの看板がかけられていた。それでも、もしかしたら零はまだ帰っていない可能性もある。だから裏のほうに回ろうとすると、人影が見えた。

「山下さん、どうしたんだい?」

「店長。零って、もう帰ってる?」

「そうだね、ついさっき帰ってしまったよ」

「そっかぁ……ありがとう、店長」

 私は踵を返し、今日のところは諦めて帰ろうした。けど店長に名前を呼ばれながら肩を叩かれ、引き止められる。

「少し、中に入らないかい?」

 鍵を開け、店内に入る。当たり前だけどガランとしていて、まるで別の場所に来たみたいだった。席までエスコートしてくれると、店の奥から救急箱を持ってくる。

 店長は私の怪我に気づいていたようで、慣れた手つきで手当をしてくれた。見るまで分からなかったけど、目をそらしたくなるくらいには、中々ひどいあり様になっていた。

 痛むだろうからと、紅茶を淹れて休ませてくれた。お金を払おうとするけど、ただのおせっかいだからと断られてしまう。あまりにも至れり尽くせりで、申し訳なかったけど、ここはお言葉に甘えることにした。

「零夜くんなら、明日も同じ時間にシフト入っているよ?」

「どうして、わかったの?」

「それは、最近の零夜くんの様子と、今日の山下さんを見れば、ね?」

「……それも、そうですね」

 私は少し下を向き、紅茶の入ったカップを両手で包む。もしかしたら、目も腫れているかもしれない。そう思うと余計に恥ずかしく、さらに顔は俯いていった。

 その様子を見てか、店長はぽんぽんと肩を叩いた。

「二人が元気ないのは、私にとっても辛いことだから」

 ゆっくりと顔を上げると、店長はこの紅茶のように温かく目元を細めていた。

「それに、この先常連さんが来なくなってしまうのも、とても寂しいことだよ」

「優しいですね、店長は」

「優しくなんかないさ。少し、私情も挟んでいるからね」

 私が「私情?」と首を傾げると店長は、店名を『喫茶店elena』に決めた理由を話してくれた。

 店長がまだ若かった頃。

 会社員時代に貯めた貯金で喫茶店を開店したが、当時はまだまだ常連客が少なく、閑古鳥が鳴く日があるほどに繁盛していなかった。

 そんな時に出会ったのが、エレナさんだった。

 エレナさんは日本とイタリアのハーフ。大手企業の会社員でありながら、社長令嬢でもあった。

 そんな彼女が人気の少ない喫茶店に訪れたのは、コーヒーの良い匂いがしたからだと言う。エレナさん曰く、コーヒーを淹れるのがうまい店長を気に入り、週に数回は訪れるようになった。

 でもパスタの腕はてんで駄目だったようで、逆にエレナさんからパスタの作り方を教えてもらう。母が料理上手だったらしく、料理好きな彼女は受け継いでいて、それを試食した店長自らお願いしたよう。

 それからパスタの人気と共にコーヒーもおいしいと評判になり、地元に愛される喫茶店になっていった。

 でも、エレナさんとはお別れすることになる。

 エレナさんにはずっと前から、婚約者がいた。

 それも、親同士によって決められた。

 この時代では、まだまだあり得たことだった。

 結婚して誰かの奥さんになった後も、またお店に来ればいいだけのこと。でも、それはできなかった。

 二人とも、特別な感情を抱いてしまったから。

 最後まで打ち明けなかったのは、お互いの気持ちに気づいた上で、店長がエレナさんに男の影があることを感じていたから。

 どうしようもない現実を受け止め、二人は別れる。

 そして、店長は『喫茶店elena』と改名した。

 彼女とのひと時の思い出を忘れないようにするため。

 あのひと時のような幸せを、お客さんにも届けられたらいいなという想いを込めて。

「形は違えど、同じように大切な人と離れ離れになって欲しくはない」

 話し終えた店長はぐるりと店内を見渡した後、目を細め、カウンター席をぼんやりと見据える。その眼差しは席を照らす橙色の照明のように穏やか。でも、儚げにも見えるのはきっと、さっきの思い出を聞いたから、だけではないと思う。

 もしかしたら、どれだけの月日が過ぎようとも、その瞳にはエレナさんが映っているのかもしれない。

「これは、私のただのおせっかいなのさ」

 その一言と共に、いつの間にか取ってきていたカイロをくれた。「あったかい」とおもわず声に出ると、店長は柔らかく頬んでいた。

 店長は「さすがに連絡先は教えられないけど」と申し訳なさそうに言い、せめてもの気持ちで、明日は零が帰らないように引き留めてくれるらしい。

 だけど、私は左右に首を振った。店長の気持ちは嬉しいけど、零を無理やり引き留めるようなことはしたくない。彼自身の意志で、私と会って欲しいから。

「強いね、山下さんは」

 変わらず微笑んでいる店長。

 だけどその微笑みにいつもの和やかさは感じず、寒空の風のように冷えていた。彼は、薬指にはめられた指を見据える。

 おそらく、その指輪とこの喫茶店が、店長とエレナさんに残された、唯一の繋がりなんだと思った。

 傍から見れば、いつまでも忘れられず、女々しいことなのかもしれない。

 だけど私は、美しい純愛だと思った。

 そして今日は店長の懐の部分を知れて、私は以前よりも、もっと素敵な人だと思えた日になった。

 店長は、怪我をしていて夜も遅いからと、近くまで送ってくれた。ジェントルマンだな、と改めて感心してしまった。

 零も、そうだった。

 私のことを気遣ってくれて、優しくて。

 それが社交辞令だけではないことを、私はたった数か月の間に感じていた。彼の過去とか、彼の事情も何も知らないけど。

 ただ、信じたいだけ。

 店長の言うように、強くなんかない。

 私はこれからも、零と他愛もないひと時を過ごしていたい。

 それだけが、今の私の願いだった。



「零、いっしょに恋岬神社に行かない?」

「どうしてですか?」

 こっちには目もくれず、作業しながら聞き返してくる。声色も、心なしか冷たい気がする。それでも私は彼から目をそらさず、言葉を続けた。

「零と話したいから」

「……分かりました」

 頷き、吐息交じりの返事が来る。それでも応じてくれたことに、私はつい笑顔になってしまった。信じているとはいえ、正直、諦め半分なところもあったから。

『喫茶店elena』の閉店間際に来た私は、コーヒーを一つ頼み、それを飲みながら零を待つことにした。いつも通りおいしくておかわりしてしまい、ちょうど飲み終わったころくらいに私服姿になった零が迎えに来た。ロングコートにマフラーと、とても暖かそうだ。

 恋岬神社に向かう道中、私たちの間に会話はほとんどなかった。いつもなら私が話しかけると、零は会話を広げてくれる。だけど今日は私からの一方通行で、話題が続くことはなかった。

 張り裂けそうな甲高い風の音が吹くと、何かが倒れる音が響く。すれ違う人の会話や足音も、嫌に鼓膜に響く。私は、無意識に腕を擦っていた。

 静かな夜は、普段よりも肌寒いように思えた。

 誰かといるはずなのに、一人だと感じると、余計にそう感じてしまうのかもしれない。

 すると、肩に何かがかかる。

 いつの間にか、マフラーで首元が覆われていた。

 そのせいで零の首元は肌が露わになっていて、私は申し訳なくてとっさに返そうとした。けど零はマフラーを掴んで背後に回り、しっかりと私の首元で結んだ。

「バイトの後で体は暖かいから、大丈夫です」

 そう、零は身を縮めながら、ポケットに手を突っ込む。彼はとなりで、淡々と歩いていた。ときおり、欠伸なんかを交えながら。寒そうな素振りは見せないくせに、眠いことは隠さないんだな、とつい口角が上がってしまう。

 やっぱり、零は零なのかもしれない。

 側に少しいるだけで、私はそう思えてしまった。

 長い階段に私だけ息を切らしながら、恋岬神社の鳥居をくぐる。平日だろうが休日だろうが人気のないここは、相変わらず寂れている。

 枯れが鳴りながら進み、いつも座っている石段に着く。浅く二人並んで、腰掛ける。でも心なしか、前より距離は遠いように感じた。

 マフラーのお礼にと思い、途中にあった自動販売機で買っておいた缶コーヒーを零にも渡す。もちろん、ホットを選んだ。

 カショ。

 私の方からは少しだけ不細工な音が鳴って、一口飲む。さっき買ったばかりだけど、まだ冬ということもあって熱々ではなかった。むしろちょうどいい温かさ。店長のコーヒーも最高だけど、缶コーヒーも、これはこれで親しみがあっておいしい。

 ほうっと一息吐いていると、隣からくすりと笑う声が聞こえてくる。私はすぐさま横を向くと、彼はハッとしながら表情を戻す。けど、ため息を零し、再び笑みを浮かべた。

「本当に、おいしそうに食べるし飲みますよね」

「そ、そうかな」

「晴さんの良いところです」

 にっと唇の端が上がり、いつもの笑顔。私はそれが嬉しくて頬が緩んでしまうけど、すぐに表情を引き締めた。確かめなければいけないことが、まだあるから。

「私のことを嫌いになったわけではないってこと?」

 そう真っ直ぐな言葉で聞くと、零は一瞬目を丸くし、頬をかきながら俯いてしまう。

「正確には、嫌われたかったんです」

 えっと声を漏らさずにはいられなかった。そんなことをしなければいけない理由が、何も思い浮かばなかった。だからどうしてか聞いてみると、彼はやや開いた膝の上で両手を組み、じっとそこに目を凝らす。

「この前、見たんです。晴さんが男性と、雰囲気のあるレストランから出てきたところ」

「……それって、先月?」

 迫るように前のめりになってしまう。十中八九、東さんと二回目の食事に行った時のことだ。まさか、見られていたなんて思いもしなかったから。すると彼は頷き、ちらりと横目に私を見やる。

「彼氏さんと、デートですよね?」

「ううん、違う、あれはただ同じ会社の人だよ」

 すぐさま否定するも、彼は足を組み「そうなんですか」と満面の笑みを零す。誤解が解けたかと思い、ほっと一息つく。

 けど。

「でも、僕はお似合いだと思いますよ?」

 その一言に、私は固まってしまう。

「その方にも悪いと思って。もう、ここで会うのは――」

 口を噤んでいる私に、畳みかけるように告げてくる。正直、最初の一言も何を言っているんだろうと思って、うまく頭が回らなかった。

 でも、なにより。

 会うのやめませんか?

 次に続くはずのこの言葉を想像すると、私の破裂寸前の心に針を刺した。

「……どうしたんですか?」

 眉を顰めて覗き込んでくる彼。でも顔はぼんやりとしていて、冷えた頬に温かなものが伝う。それでようやく気づいた私は、急いで目元を拭う。せき止めるように、何度も、ひりひりと痛んできても。

 だけど零に手を掴まれ、そのまま手と体ごと、彼の胸元に抱き寄せられる。マフラーのない首元の肌は、やっぱり冷えていた。

 彼自身は暖かくて、ごつごつしているけど柔らかくて、側に寄っては時々香った爽やかで優しい匂い。彼の全てに、私の心は落ち着いていった。

「どうして、泣いているんですか?」

「……分からない」

 少しだけつっかえている声に、私は彼の胸の中で首を振る。

「でも、零と会えなかった日々が、会わないほうが良いと言われたことが、とにかく嫌だったことは、覚えてる」

 戸惑いの色を感じる彼に、私はどうにか言葉を振り絞る。すると、零が首を縦に振るのが上目に映る。支離滅裂にも思えたけど、何とか伝わっているよう。

 ぎゅっと、さらに力強く抱き寄せられる。

 それは包み込むというには荒々しく、彼の中へと沈み込んでしまいそうになるくらい、じわりと熱が近くなっていく。

 まるで、何かを押し殺しているみたいに。

 そして、徐に体を離される。

 時間が止まったみたいに、一瞬だったひと時。

 鮮明に、体には彼の温もりが刻まれていて、離れた今はさっきよりもいっそう寒く感じた。

「晴さんは、僕をどう思っているんですか?」

 零は真っすぐ、こっちを見据える。力強い視線なのに、どこか勘ぐってくるような言葉選びに、私は妙な違和感を抱いていた。

 こういう直接的なことを、普段の彼は口にしないから。

 私は俯き、口を噤んでしまう。考えるのと共に、膝の上で結んでいた指を擦ったり引っ張ったりといじってしまう。

 どう、答えたらいいんだろう。

 そう悩んでしまうのも、無理もないのかもしれない。

 零をどう思っているかなんて、私自身、言葉にできていないのだから。

 私にとって、大事な人。

 でもそれはあやふやで、色んな意味で取れてしまって、おそらく彼が求めている答えではないような気がする。

 私にとって、彼は何だろう。

 肩にかけていたトートバックを、そっと抱きしめる。すると、ややはみ出たF10サイズのキャンバスに触れる。

 それを出さずに、じっと見つめる。私は一つ息を吐き出し、ぎゅっと目を閉じて、零に向けてキャンバスを差し出した。

「これを、見てほしい」

 ゆっくりと、瞼を開ける。零はしばらくそれに目を据えていると、首を縦に振り受け取ってくれた。

 血管がパンクしてしまいそうなほど、心臓が跳ねる。握り占めている手からは、滑るくらいに手汗が溢れていた。

 分かっていたこと。

 だけど絵を見せるのって、こんなにも緊張したのかと、改めて思わされていた。

 見せているのは、出会った日に見た光景の絵。

 零と猫たちの仲睦まじい様子を、私なりに描いてみたもの。

 たぶん、スケッチブックに載っていたのは風景の絵。これは、人を描いている。思えば、好んで人を描くことはあまりなかったかもしれない。

 いったい、どんな感想が返ってくるのか。

 固唾を呑みながら、彼の言葉を待つ。足を組み変えながら、端から端まで見ている。真剣な眼差し。けど、ふと彼の目元が細められ、私と目が合う。

「僕は好きです、この絵」

 再び絵を見据え、「自分も描かれてるから、かなり恥ずかしいですけど」と頬をかきながら言う。

 好き。

 私はその言葉を噛みしめ、いつの間にかほっと一息が零れていた。背骨を抜かれたみたいに、がくっと猫背になってしまう。膝の上で頬杖を付き、その勢いのまま額を押さえて、地面を向く。

 絵を描く上で、好きか嫌いかなんて、結果はどちらでも良かったのかもしれない。

 そんなの人それぞれでしかないから。

 世の中のニーズで、がらりと一転してしまうものだから。

 それでも心の底では、零に好きな絵だと言って欲しい私がいた。

 たぶん、だいぶ私情をはらんでいる。

 それに何の意味があるのかは分からないけど。

 私にとっては、この先も絵を描き続けていく上で、とても大切なことだったのかもしれない。

「実は、ずっと絵を描けなくて悩んでたの」

 スケッチブックに乗る、渇いたアクリル絵の具に手を当てる。そうしていると、自然と言葉が零れていた。

「だけど零に会ってから、描けるようになってて。

 その時から、私にとって零は特別で、大切になっていたのかもしれない」

 上目で零を見る。

 ゆるりと、彼の視線と重なる。彼の瞳は、渇いた風で横薙ぎに揺れる前髪から、見え隠れしていた。それを邪魔そうに横に流すと、夜色の瞳が姿を現す。

 きらりと、流れ星みたいに輝く。

 そうだった。

 あの時も、私はこの冬の星空みたいに澄んだ瞳に、気づけば惹かれていたんだ。

「描きたいと思えるきっかけをくれて、ありがとう」

 私は立ち上がり、くるりと彼の方を向く。前かがみになって、私もその絵の両端を掴んだ。

「だから、この絵は零にあげたい」

 照れくさくて半笑いになりながら、「いらないかもしれないけど」と保険をかけるように付け加える。

 でも、実際のところいらないかもしれない。

 これは、ただの私の絵。

 素人が頑張って描いただけの、ほとんど価値のない絵だから。

 絵を好んで触れない彼にとっては、特に必要のないもの。知り合いの絵をもらって喜んでくれる人のほうが、ごく稀なことだった。

 やっぱり、もらっても邪魔になるよね。

 そんなふうに卑屈になるけど。

 本当は、分かっている。

「うれしい、ありがと」

 零は、きっと喜んでくれるはずだと。

 たとえいらなかったとしても、彼は笑顔で喜んでくれるはず。

 時に、それは残酷なことなのかもしれないけど。

 私にとっては、心が救われてしまうような、優しい嘘になるんだろう。

「僕も、前を向かないと」

 私の絵を見据え、澄んだ夜風に消え入るような声で囁く。きゅっと口角が上がり、目元は山なりに優しく笑んでいた。

 そっと、零は夜空を見上げる。その瞳はきらびやかに輝いていた。でもそれは、星々が反射しているだけではないのかもしれない。

 私も、同じように空を見据える。

 私にはまだ話してくれたことはないけど、彼は何かに悩んでいるんだろう。ここ最近、その片鱗を見ていたように思えた。

 いつかは、話してくれる時が来るのかもしれない。

 ただ、それは零がまだ。

 私といっしょにいたいと思ってくれていたらだけど。

 石ころを蹴る。その後になって神社の石を蹴るのはどうなのだろうかと思い、心の中で神様? に謝っておく。

 月明かりに灯る影は、薄っすらとしていた。真昼と比べると自信がなさそうで、今にも光に埋もれてしまいそう。

 その隣に、もう一つの影が並ぶ。

「さっきは、ごめんなさい」

 頭が下がるのが影越しに見え、私はとっさに横を向き、左右に手を振った。たぶん私が泣いてしまった時のことを謝っているのだと思う。それに関しては、勘違いさせてしまうのもしょうがないと思うから。

 そういえば、その時のことをまだ話していなかったことを思い出す。

 東さんと会ったのは、彼からの誘いを断るためだった。

 直接、告白されたわけじゃない。

 でも東さんはその先を考えて、会おうとしてくれた。それなのにいつまでも、なあなあにしてはおけない。

 私は今、誰とも付き合う気はないのだから。

「私、また絵の関係した仕事をしようと思う」

 彼の方へと振り向き、しっかりと彼の目を見る。彼はやや目を丸くした。けどすぐに目元は柔らかく笑みを浮かべ、頷いた。

「だから、今は誰とも付き合う気はなくて、あの時に男の人と会ってたのも、断るためだったんだよね」

 息を吐き、少し目線が下を向いてしまう。思い出すだけで、胸が苦しくなる。振られる経験は少しだけしたことがある。辛さも、初恋で体験した。

 けど、こんなにも気持ちを断ることが、やるせない想いに駆られるなんて、私は三十歳を目前にして初めて知れた。

 改めて思うけど、この時の私の行動力には驚いている。

 ここ最近だってそう。

 零に会いたくて、わざわざ出待ちしてしまうなんて。

 昔の私なら、考えられない。

 ……そうだ。

 私は、零とこの先も一緒にいたくて、その気持ちと向き合って、私から彼に会いに行っていた。

 それなら。

「これからも、私と会ってくれる?」

 こうして、私から気持ちを示せば良いだけなのかもしれない。

 零は手にある絵を見つめてから、私と目が合う。頬が緩み、目じりはいつも以上に細く、めいっぱい山なりになっていく。

「はい、こちらこそお願いします」

 いつもの、きれいに彩られた笑みではなく。

 無邪気な微笑み。

 もしかしたら、これが本来の彼の笑顔なのかな。

 零は絵を上げてから、何度も見てくれる。懐に抱えて、両手で支えてくれている。それが私には、無意識に大切にしてくれているような気がしていた。

 嘘でも良いから、喜んでくれるのが嬉しいと思った。

 だけど、それ以上に。

 心の底から喜んでくれているといいな、と願っている私がいた。

 こうして、私と零は再び会うようになった。

 金曜日はもちろんのこと、それ以外の日も、少しずつ。

 絵が完成した時は、たまに見てもらったり。彼の存在が、私の中で絵を描く気力にもなっていた。

 幸せなひと時を過ごしているなって、思うけど。

 たまに、ふと考えさせられる。

 初恋の、あの人とも。

 零との時みたいに向き合っていれば、今とは違う状況になっていたのかなと。

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