四季
「清二、見て。」
華那ちゃんが僕に携帯電話の画像を保存するフォルダから、一枚の写真を見せてくれた。まだ彼女が日本で暮らしていた頃訪れたという、向日葵畑の風景だった。
「へえ、すごいね。サンフワラーイエローって、本当に向日葵そっくりの色なんだ。」
僕はありきたりな感想を述べたと思っていたのだけれど、彼女は言葉を聞くと目をまんまるにして口をポカンと開いた。たしかに、言われてみればそうかも。なんて、ポンと片方の手を丸め、空いた手のひらに打ち付けた。古典的なバラエティの反応に僕は、華那ちゃんへの愛を深めた。こういうところが、好きでもあるんだ。
彼女との出会いは、運命だった。何度振り返ってみても、彼女しかいないと思ってしまう。
「これはね、専門時代に行ったんだ。」
一面に咲き誇る向日葵を二人で見つめた。彼女がずいと距離を詰めて、ぴったりと僕の身体に寄り添ってくるものだからくすっぐたい気持ちになる。応えたくて、そうっと肩へ腕を回した。
僕と彼女が帰る家がいつか同じ場所になったら、こうして四六時中、ときめくことを欠かさずに暮らしていきたい。華那ちゃんと居る時の僕は冷静に温厚で居られたんだ。
「ちなみに女友達だから、心配しないでね。」
「過去にまでああだこうだ言わないよ、僕は。」
友達が呼んだともだち。食事の席で、緊張するわけでもなく自然体に談笑していた彼女の姿は、はっきりと覚えていた。帰り際、連絡先を交換して、僕は積極的な彼女へのアプローチを怠らなかった。こんばんは、今日は本当にありがとう。一番最初は長文ではなく短文で、必要最低限度の挨拶と一言を。レスポンスが続くようであれば、相手も僕のことを少なからず嫌いではないと判断出来る。次は今度食事でもどう、だ。オーケー、僕はガッツポーズをして、ジョンに電話を掛けた。彼女とごはんに行く約束をしたよ。ジョンは音が割れるほどの雄叫びをあげて、僕以上に喜んでくれた。最高のベストフレンドだった。
「ここね、キャンプの途中で行ったの。」
「キャンプか、いいね。」
「でしょ!私、幼馴染がいるの。あ、よく話題に出てくる例の玲ちゃんね。」
例の玲ちゃん。彼女の幼馴染であり友達の、間中玲さんという方。華那ちゃんの日本の思い出の話になると必ずといっていいほど、玲さんの名前が挙がってくるのですっかり覚えてしまった。日本語でいうとおやじギャグみたいなニュアンス。けれど彼女は茶化している素振りもなかった。
「私の家と、玲の家族でキャンプに行こうって話になって。行きがけに向日葵畑があるのを玲が見つけてくれたの。それじゃ折角だし、ってことで。でも本当大正解だった。私、向日葵の花好きなんだよね。」
「見てるとポジティブな気持ちになれるもんね。華那ちゃん好きそうだ。」
「え、すご。清二に私の思ってること言われちゃったんだけど。そう、そうなの。向日葵の花ってエネルギッシュで、色もハッキリとしてて、好き。元気になるんだ。くよくよしてる自分が馬鹿らしくおもえちゃうの。」
こんなところで立ち止まっていられないよね。
当たって砕けろ、精神で。頑張りたいな。
「夢、叶えようね。」
向日葵の花を、一輪挿しに生けた。彼女がエネルギッシュで元気になれると言っていたサンフラワーイエローの花弁が、凛と佇んでいた。
「華那ちゃん。行ってきます。」
二人で同じ家に暮らすことは叶わなかった。日本にいる彼女のご両親に、華那ちゃんとの将来を考えていることを笑顔で伝えることも叶わなかった。
往路の飛行機内では、想像もしていなかった。華那ちゃんにもう一生をかけても会えなくなってしまうだなんて。今でも、朝起きたら僕が眠る隣に彼女があどけない寝顔で休んでいるのではないかと期待してしまう。空間だけが広がって、シーツを撫でてみても擦れる音だけがしみったれて部屋に響いていくんだ。
色んなものを失って、愛する人さえ喪っても、さっさと僕を置いて過ぎ去る時間。それが悔しくて、くじけそうになっても、僕はひたすらに立ち上がる。
この美しい向日葵の花のように。
僕の薬指にはお守りが輝く。太陽の光を受けて、きらり。諦めないよ。僕は、君が遺してくれた夢を繋いでいくんだ。たとえそれが僕のエゴイズムで形成されている願望だとしても、構わない。君は怒るかもしれないけれど、僕の生きる理由は、華那ちゃんとの日々なんだ。だから前を向いて、頑張れる。何度だって。
「当たって砕けろ、だよね。」
花瓶の隣に飾られたフォトフレームの中に、満面の笑みを浮かべる、いとおしいはながいる。向日葵が、風にそよいだ。
「ねっ、健一郎さん。」
紅葉に囲まれた彼女が美しくて俺は見惚れていた。どうかしたの、そう小首を傾げる。胸下のあたりまで伸びた髪が、動作に合わせ躍った。
「いいや、なんでもないよ。」
カメラを構えようとした手の動きが勝手に止まってしまった。我ながら、俺は彼女に逐一惚れ直してばかりで呆れてしまう。
「健一郎さん?」
彼女が俺の元へと歩み寄る。陶器のように滑らかな肌、華奢なつくりをした肉体、長い睫毛に水晶のような瞳。俺は、はあ、と間抜けた面を晒してしまう。逃れられない、失いたくない。欲望と本能が物語る唯一無二のかけがえないという感情。
「ぼうっとしてどうかしたの。もしかして具合が悪いとか、かしら。それならすぐに車に戻って、帰りは私が運転をするわ。」
ふるふると力なく首を横に振り否定をしたのだが、納得しきれないのか、彼女の不安げな表情は変わらなかった。こんなに心優しくて、美しい人が、俺の恋人だなんて夢みたいだ。
「その、笑われてしまうと思うんだけれど。」
「笑わない。教えて、健一郎さん。」
「その、君に見惚れていたんだ。」
「…、ふ、ふふっ。」
「あ、笑わないと言ってくれたじゃないか!」
口元を手で覆いながら、彼女が鈴の音で笑った。俺の言葉に、はっとした表情をして眉を八の字にした。ごめんなさい、つい。
「いいや、構わない。」
責めたくせに直ぐに許すのならば、最初から言わなければよかった。どうにも彼女の前では、俺の感情が幼稚化していってしまう節がある。彼女は僕の一連の受け答えに満足したのか、そうっと離れて行ってしまった。昨晩降った雨のせいで、地面には所々に水たまりが出来ていた。彼女のクリーム色をしたパンプスが、ぱしゃぱしゃとわざとそれらを踏んでいく。小さく水しぶきが上がって、そのたびに冷や汗をかいた。
「星香、汚れてしまうよ。」
「平気よ。」
くるりと振り向いた彼女が、髪を耳にかけ、口元を綻ばせた。ざあ、と風が吹きすさび辺り一面を包んでいく。赤、橙、山吹。鮮やかに色彩を宿した葉達は彼女を守るヴェールのようだった。踏み込んではいけない、ここは俺が立ち入っていい場所ではない。戒められている気分に陥りながらも、俺は手を伸ばさずにはいられなかった。
「健一郎さん。見て。」
身を屈めて、一枚の楓の葉を彼女が摘まみ取った。それを天高く持ち、瞳へ向けて翳す。雲一つない快晴の青、降り注ぐ陽光に照られた紅色。彼女がちらりと俺を見遣り、笑顔を深めた。それが恐ろしいほど、うつくしかった。
「綺麗。」
「ああ、綺麗だね。」
カメラを構える。チャンスは腐るほどあるのに、いつまで経ってもシャッターのボタンを押せない。レンズ越し、彼女は美しい被写体のまま。俺が撮影しようとしているのを察知したのか、気恥ずかしそうに、目尻に皺をよせた。今だ!
パシャッ、とシャッターをきった電子音が鳴った。
「撮ったのね。もう。」
「うん。すごく美しく写ってる。」
自分が撮影した写真のデータを確認して、自然と笑みが浮かんでしまった。俺が好きな彼女が、きちんと記録されていくことが、とても嬉しかった。
彼女は、説明がしにくいほどの儚さやどことない憂いを帯びているように感じてしまって、時折無性に不安に駆られることがあった。もしかしたら、明日目が覚めたら、彼女はこの世界中のどこからもいなくなってしまうのではないかと。一度だけ、冗談めかして、ずっと共に居てくれるかと問うたことがあった。
「…なあ、星香。」
俺と結婚して幸せだったろうか。
「っ。」
今更になって彼女との日々を回想するなど、思いもしなかった。
俺は鞄の中から、手帳を取り出す。スケジュールは、きちんと手書きで書き留めておかないとスッキリしない性質が抜けきらなかった。
手帳に挟んだままの、二枚の写真。俺は、カメラで写真を撮影することが非常に好きだった。出先ではいつも愛機を持ち込み、記録として残しておくのが趣味の一つだったのだ。彼女はというと、写真をアルバムに貼り、思い出を愛でるのが好きだった。
「やっぱり、何年経っても美しいままだね。君は。」
君を守れなかった。君が遺してくれた命にすらまともに向き合ってこれずに、生きてきてしまっている自分に嫌気が差していた。
忘れもしない、十一月九日。俺は、どれほどの年数を掛けても未だに彼女を想い続けて生きている。
アメリカに来て、一緒に暮らそう。あの子に、澪に伝えても、答えはノーだった。
一軒家に一人だけを残して、自分だけがアメリカでの生活を続けるのは間違いなのではないか、そう自問自答をしてきたが、結局は澪の意思をくみ取るかたちを装って、俺は対峙することを延々と後回しにしてきただけだった。
受験を控える息子の手伝いもろくすっぽしなかった。試験当日に電話をして、合否発表の日は結果のメッセージを待つだけだった。進学する高校が決まり、準備が必要だった時も、入学式、卒業式、授業参観、進路の話。全てが事後報告となり、いつしか澪とのつながりは殆ど無くなってしまった。
俺は父親として最低で、人間性も終わっているんだと思う。恥じだらけの人生で、それでも彼女を手放せない。家に戻れば、安堵感に包まれる。記憶だけに生きる彼女を、今でも尚愛している。そう、愛に捕まっているのだ。執着をしている。
「澪くんのことは私に任せて、健一郎さんは、向こうで頑張ってくれたら大丈夫。」
あの日、貫けば良かったのだ。快く送り出してくれた君に、反論をすればあんなことは起こらずに済んだ可能性だってあるんだ。俺は、愛に溺れながら、最愛の人の命を助けてあげられない。荒唐無稽の塊。
「健一郎さん、私をあなたのお嫁さんにしてくれて、本当にありがとう。」
彼女が亡くなる前日の夜、電話をしていたらふと言われた。俺は嬉しくてたまらなくなって、俺の方こそ、と切り返した。
「俺の方こそ、こんな俺のお嫁さんになってくれてありがとう。」
二人して笑いあった。
愛してるよ。
愛してるわ。
そのあとだって話は弾んでいて、でも、何か違和感を覚えた。
無理をしているような、空元気だったような。
それでも気のせいかと思ってしまえば、簡単に疑問は無くなってしまうようなものだった。
彼女を死に追いやる、なにかは絶対に存在していたはずなのに。
今も尚、不明なまま。
時は巡る。
季節は移ろい、俺も、あの子も、どんどん違う道を歩んでいった。
大丈夫、大丈夫だから。
だいじょうぶ、だいじょうぶじゃなかったじゃないか。
十一月九日で俺の心は止まってる。
それはこの先も、きっと変われない。
記憶の中、君が笑う。三日月似て弧を描き、瞳はゆっくりと細められた。
紅色の、楓の葉。美しさの中に眠った君の、うつくしさ。
「澪くん。健一郎さん。写真、撮りましょうよ。」
「ああ、構わないよ。」
「澪くん、お写真を撮るわよ。」
パシャッ。電子音と共に切り取られた三人の写真。
笑顔は過去に閉じ込められたまま、未来を感じさせてはくれなかった。
俺は二枚の写真をじっと見つめ、手帳を閉じた。
「玲、学校は楽しいの?」
娘には干渉しない。それが私の考え方だった。
もちろん、コミュニケーションはマメにとりたいし、出来れば娘に甘えん坊になって、色んなところに一緒に出掛けたりもしたいと思う。それでも、彼女が一人の人間であり、血のつながりがあれど束縛する権利はどこにもなかった。彼女にだって考えがある。生活がある。同じ屋根の下に暮らしていようが、仲の良い友達も、仕事場も違うのだ。
「うん。そこそこ。」
鯖の味噌煮を久しぶりに作った。煮物や煮つけは楽に済むので、我が家の献立では出現率が高い部類だった。けれど、同じテレビ番組を見ていた際に、刺身が一番好きだという玲の発言を聞いて以来、魚を煮たり焼いたりするのを避けるようになった。結局私は娘が可愛くてたまらない、ただの母親だった。
「受験勉強、根詰めてパンクしないようにね。」
味噌汁を啜り適当な注意を一つだけした。
娘の玲は、受験を控えていた。
彼女がどんな将来を歩もうとしても必要となる資金だけは確保しておこうと、決めていた。前夫との離婚が成立した際、玲はまだ二歳になったばかりだった。親権は私が持つことになった。
この子だけは絶対に何としてでも、悔いのないように生きて欲しい。がむしゃらだった。働き尽くした気がする。夜遅くに帰宅し、眠る玲の顔を覗いて、ホッと胸を撫でおろす毎日もあった。そしてごめんね、胸中で何度も謝っていた。
私、大学に行きたい。
そんな彼女が決めた進路を私は応援していくつもりだ。玲の描く、人生設計はちっとも知らないけれど、親は、子どもにとっては最後まで親のままだから。私達二人は上手い事やっていけたらいいと思っている。
「そういえば、あんた数学とか大丈夫なの。一年生の時とか、結構やばそうだったじゃない。」
「…。」
ぴたり、玲の箸の動きが止まった。
娘の言葉をじっと待った。急かしたり、畳みかけるように追求してもまともな答えは返ってこないと分かっていた。そもそも、玲は素直な子だった。嘘も下手くそだし、感情が透けて見えてしまう部分もある。純朴に育った我が子が、とても眩しく思えた。
「それは大丈夫。」
真っ直ぐに私を見て、力強く言い切った彼女。眼力の強さに、娘の成長を思い知った。何年か後には、子離れをしなくてはいけなくなるかもしれない。ふと、寂しさが湧き起こった。生まれてから今日まで、生活の主軸はいつだって子どもだった。自分の身なりや、生活の円満さよりも、やっぱり娘のことを優先していた。
「そう。それならいいけど。」
玲の頬が心なしか赤らんでいて、ああ、と私は一つの可能性に思い至った。
土日の昼間、誰かと電話をしているような話し声が部屋の外まで聞こえてくることがあった。明らかに相手は華那ちゃんではないと思っていたが、いつの間にか、恋をしていただなんて。ほほえましくもあり、艶を帯びていく娘に、もうちょっと赤ん坊のままで居てくれてもよったのに、なんて思う私が居た。親バカなのだ。
「お母さん、テレビつけてもいい?」
「いいわよ。」
食事を終え、のんびりとテレビを二人で見る。付けた瞬間はバラエティ番組が流れていたが、すかさず玲がチャンネルを変えてしまった。
「それでは明日の天気予報です。」
ニュースを読み上げていたキャスターから変わって、天気予報士へとバトンタッチ。
「明日、雪マークついてる。」
玲が顔を顰めて呟いた。本当だ、雪だるまのマークがついていた。天気予報士が公共交通機関の遅延等にお気を付けくださいと勧告してくれるのをぼんやりと聞きながら、私は冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。
今年で四十二歳、仕事の疲れを労わってくれるのは美味しいお酒とごはんにシフトチェンジされつつあった。若いころは、仲の良い友人らと集まって愚痴大会や飲み歩いたりもしたものだが、各々が家庭を持ったり人生を進んでいけばいくほど、友情の在り方にも一定の距離感が生まれたりもする。それに家の居心地の良さに慣れてしまうと、誰かを誘うよりもさっさと帰宅して、のんびりしながらアルコール摂取をした方が和やかな気分になれた。ストレスだって、緩和されていくものなのだ。
玲がこの楽しみを理解してくれるまでに、あと何十年が必要だろうか。
「お母さん平気なの、仕事。」
「あんた明日は土曜日。」
「あ、そうだったね。」
缶ビールのプルタブを引っ張り上げて、ぷしゅと開ける。ごく、ごく、ごく。喉を鳴らしながらアルコールを胃に流し込む。
「うん、美味しい。」
頬杖をついて、テレビを眺めた。
この子の成長をこれからも見守っていけたらいい。こんな感じの、緩さで。そのために身体を休めて、働いて、お金を稼ぐよ。あんたが私の手を取らずに幸せだって、胸を張って言ってくれる日までは頑張れる。それくらいの、命はあるはずだから。
人生、楽しんで生き抜きなさいよ。私の愛おしい、娘。
「春が来ると毎回思い出すんだよね、あの二人のこと。」
佐々木佳江、今年で三十歳になる。四年制大学を無事卒業し、衛生陶器やユニットバスを扱うメーカーに就職した。全く未経験の業界に就いたことを入社後の研修で後悔した。
「あの二人って、あのふたり?」
「そ、あの二人。」
いつもの店で集まることがお決まりのパターンとなったこの女子会の参加者は常に二人だった。私の高校時代からの友達であり親友の、折原ひなた。
カプレーゼ、エビのたっぷり入ったアヒージョ、シーザーサラダにマグロのカルパッチョ。そしてビールジョッキが二つ。
「青春ってかんじだったんだよね、澪と、間中さん。」
「間中さんって一年の時、あたしらクラス同じだった子だよね。」
「そうそう。数学の問題集解いてたイメージがすんごいあってさ。私、三年の時も同じクラスだったんだけど、初日の二人見てて、実は付き合ってるのかなって思ったもん。」
あの二人が実際にはどういった関係性なのか、私は結局知らないまま年を重ねてきた。別にどっちだってよかった。友達だろうが恋人同士だろうが。澪とは高校一年の時から仲良くなって、良好なまま友達として今も繋がりはあった。
間中さんは、正直にいうととっつきにくいところがあって、最初は苦手意識もあったけど、嫌いではなかった。会話をすればきちんとレスポンスはあって、自分から進んで何かを仕切ったりするリーダーシップや積極性は乏しくとも、生真面目な子。一年生の放課後に数学の問題集に真剣に取り組んでいた姿が、マイナスの印象を変えていった。
「ひなたは澪にキャーキャー言わなかったよね。あんだけイケメンだったのに。」
「イケメンでも好みのタイプじゃなかったから、それに恋愛対象として最初から最後まで見てなかった。いい人だったな、っていうイメージ。」
私は、澪のことは好きだ。でも、恋はしなかった。顔が良い、ってこういうことかあ。完璧に近い人って、案外身近に存在しているものなんだな、と感じていた。つまるところ冬本澪は、目の保養でありいい友達というわけだ。
「でも、私達って別段恋なんて望んでないもんね。」
「たしかに。無理しても仕方ないよね。」
ジョッキの手持ち部分を握り、ビールを飲んだ。ぷはあ、と声を漏らしこの一杯の為に生きていると歓喜した。この瞬間が、今の私達にとっての至福のひと時なのだ。
高校生だった頃は当たり前のように大人になったら結婚して家庭を持つとか想像していたけれど、三十歳を迎える年になっても、私は独身のままだし、周りが結婚していこうが恋人を作ろうが、焦りは峠を越えて無になった。親は結婚結婚と口うるさく聞いてくる。あなたはいつになったらお嫁にいくんだろうねえ、なんてグサグサと心にナイフを突き立てて、平気な顔して笑ってる。でも、どうだってよかった。
私は、わたしのペースで生きていくほかない。結婚だって恋愛だって私が望まなければしなくたって誰に責められる理由もない。
「佳江は最近仕事どうなの。」
「順調、良くも悪くも変化なし。昇給したけど、全然。」
親指と人差し指で限りなく狭い幅を作ると、ひなたは肩を竦めて笑ってくれた。
「それ変わってないのと同じじゃん。」
「でしょ。でもさ、転職するのもなんかもう気力なくって。幸い、人には恵まれてるんだよね。みんなとご飯行ったりとか、出掛けることもあるし。」
「佳江のところは仲良しだよね。羨ましい。」
「そういうひなただって。」
女子会の会話内容の八割は近況報告と、なんとなく昔を懐かしむ会と化す。お酒が進めば昔話により花が咲き、気が付けばテンションは絶頂状態。
でも今日はそういうわけにはいかなかった。明日は仕事、何をするにもほどほどが大事。
二人の間に沈黙が流れ始めると、会はお開きになる。これもまたお決まり。
「じゃあ、お会計しますか。」
「そうだね。」
割り勘をして店を出る。春めいた気候のせいで、真冬のような外の冷たさにお酒によって蕩けた意識がハッキリするという効果はなく、寧ろその逆にさらに頭の中がほんわかしていった。二人で、駅に向かった。
駅前に着くとひなたがコンビニに寄りたいというので私もついていくことになった。自動ドアが開き、一歩足を踏み入れた。飲み物とお菓子を買って帰るらしく、ひなたはペットボトル飲料のある冷蔵スペースに一直線。私は、飲み足りないような気分でお酒のコーナーへ。
「玲、これ美味しそうだよ。」
なんとなあく聞き覚えのある声がして、そっと振り返った。
「わあ、たしかに美味しそう。買って帰ろうか。」
「ん。じゃあ、二個。」
多種類のアイスクリームが入った蓋無しの冷蔵ケースを見下ろしながら、談笑している二人の男女。あれは、間違いなく、冬本澪と間中玲だ。澪は大人びているが高校時代と変わらず端正な顔立ちをしていた。間中さんの方は、とても明るい笑顔を浮かべていた。
「可愛いじゃん。」
澪の方がアイスクリームを二個持つと、彼らはそのままレジに向かい支払いを終えコンビニから出て行った。声を掛ければいいのだが、どうしてか出来ない。
ちょうど良く、ひなたがこちらへやってきた。ロイヤルミルクティとポテトチップス。
「佳江は何も買わないの。」
「あ、うん。なんかもういいかなって。」
「そう。」
ひなたが購入商品をエコバッグに入れて持つ隣をのんびりと歩いていく。先程の二人の姿はもう見当たらなかった。高校卒業から十年以上が経過して、それでもあの頃の繋がりは消えてはいない。
私だってひなたと親友と呼び合えるほど仲を深めていけたし、聞くことは叶わなかったけれど、澪や間中さんにも彼らにとってかけがえのない出来事があったはずだ。
この世界は、日常を駆け巡っていく。毎日慣れ親しんだサイクルをこなしながら、同じようで異なる一日を積んで、死へ向かっている。
一人で生まれてひとりでしんでいく。人は誰しもが、本当の意味合いでは孤独で、だからこそ温もりや愛を求める生きもの。そう考えると淋しくて、美味しいお酒と肴が欲しくなるものだ。私は、このまま一人で暮らす生活を貫くのかもしれないし、縁を感じて誰かと共に人生を謳歌するかもしれない。
まだ、なんにも分からなかった。それでも、嫌なことはトイレに流して下水管に吐き出してしまえばいい。
「来月は何日にしよっか。」
ひなたにスケジュールの先約を打診した。彼女は私を見て、うっすらと微笑んだ。
「いつでもいいよ。佳江に合わせる。」
一人で生まれて、ひとりで死んでいく。
そうだとしても命を産み落としてくれた人がいて、死を弔う人がいる。
どんな繋がり方だとしても、毎秒、私達は誰かと縁を結んで、おわかれをしていくんだ。
十字路でひなたが手を振り、私はバイバイと声を上げた。
まるで高校生の頃に戻った時みたいに、大きく手のひらを左右に動かして。
「俺は咲弥とずっと一緒にいてあげる!約束する!」
初対面の楠竜也は優しい男の子だった。親が転勤族だったおれが、この街に引っ越してきたのはまだ五歳の時だった。友達を作りたかった。ずっとそう思いながら何度も新天地に行って、未熟な知り合いばかりが増えていった。両親もおれのことを気に掛けながら精一杯毎日に取り組んでいるのが分かっていたから、一度も引っ越しに拒否なんてしてこなかった。
公園に行って一人でブランコに乗っていた。順番を待って何度ものってるおれを見て、この近所の縄張りを取り持つ子ども界のカーストナンバーワンの男の子に、からかわれた。
「ここは俺らの公園なんだから、どっか行けよ!」
子分みたいに仲間を引き連れて、五人で詰め寄られれば、おれはさっさと尻尾を巻いて逃げるほかなかった。怖くて悔しくて、うざったかった。次こそは一発殴ってやりたい。そんなガキくさい腹いせを本気で考えながら家に帰ったのを覚えてる。
母親はやたらとおれには甘くて、どっか放置したがる人だった。公園の滞在時間が短いと、友達作るんでしょうと脅迫みたいな暗示をかけて、もう一度おれを外の世界に出したんだ。
「また来てるぜ、こいつ。」
「しつけえな。さっさとママのとこ帰れよ。」
「そうだそうだ。」
口うるさい、うるさい、うっせえよ。ストレスは簡単に頂点に達して、おれは、その男の子の顔面に一発拳を叩き入れてやった。つう、と綺麗な絵コンテで描かれたアニメーションのように男の子の鼻の穴から、鮮やかな深紅が伝った。やべ、一瞬で判断が出来たが、おれはその場から一歩も動けずに立ち尽くした。
わんわん泣き喚く男の子を他所に、取り巻いていた仲間達がおれを見て冷や汗をかいている。なにしてくれてんだ、どうしよう。自分らの次の行動に困りかねている様子だった。
「わ、わるい。」
最初に意地汚いことを言われても、手をあげたのはおれの悪いことだった。反省して、頭を下げても、泣き声はやまなかった。頭をぽりぽりと掻いて、どうしたもんかと呆れ果てる。そんなおれに助け船を出してくれたのが竜也だった。
「五月蝿いから黙ってくんない?」
随分と酷い言葉を投げつけて、けれど発言とは裏腹にポケットからティッシュを取り出すと男の子に手渡して、鼻の穴にこれでもかというほど詰め込んでいた。
「さっきからこっちは楽しく木登りで遊んでたのに、本当ギャンギャンうるさいんだけど。」
満面の笑みで、何を言っているんだこいつは。そんな感想を多分その場にいた連中全員が抱いていたと思う。竜也の顔をまじまじと男の子は見て、さらに泣く声量が大きくなっていった。
「はぁ。」
どうにかこうにか男のが泣き止んで仲間に付き添われて帰っていった。
「ごめんなさい。」
「本当に申し訳御座いませんでした。」
家に帰って事の詳細を母親に説明したらこっぴどく説教を受けた。まあ当然といえばそうだが、最初に嫌なことをしてきたのは相手だとなんとなくモヤモヤとした感情も共存していた。
母親はおれを連れて、急いで公園に行った。公園には、誰もいなかった。
翌日、また同じ公園に母親と行き、男の子の仲間の一人に、彼の家を案内してもらった。母親が開口一番に謝罪の言葉を言って、おれも一緒に深々と頭を下げる。男の子の母親は、最初は訝しげにこちらを見ていたが、数秒後に事態は急展開を遂げた。
「俺が、いやなことしたんだ。」
男の子は母親には正直者だった。仔細をその場で聞いた両方の母親は、戸惑っていた。結局、相手の方が何度も頭を下げて、今回はお互い許そうということにまとまった。
帰り道、公園に立ち寄り、木を見上げた。どの木にも、おれを助けてくれた冷たい英雄はいなかった。
「また一人でブランコ乗ってるね。」
三日後くらいだったと思う。おれは一人で公園のブランコを漕いでいた。今日はただ静かで、おれしか遊んでいる子どもは居なかった。住宅街のど真ん中にある公園、子ども二人だけしかいない空間。なんだかちょっと優越感に浸った。
隣の空いているブランコに腰掛けた竜也は自分の名前を簡単に名乗った。
「おれは荒木咲弥。」
名前を交換し合ってもいつまたこの街から引っ越すか分からないから、覚えておいても仕方がないと現実を考えるおれがいた。そういう時、九割は気落ちして俯いてしまうのがおれの癖だった。砂にまみれた地面を見つめ、おれは引っ越しなんかこれ以上しなくて済むようになればいいのにと思った。
両親はおれの我儘を、なんにも知らない。いつも、従って、それで慣れて、あっという間に次の家が決まっている。これから先もこんな毎日なのかと思うと、不安でいっぱいだったし早く家を出たい気持ちがあった。友達と遊んで、また明日って言い合える暮らしを送りたかった。兎に角、友達っていうものに憧れが強くあったんだ。
「へえ、転勤族なんだ。それだと中々大変だろうね。」
「おれ、でも友達を作りたいんだ。」
「友達、かぁ。簡単に約束するなんて不快かもしれないけれど、約束する。」
「約束?」
「そう。」
「それってどういう約束だよ。」
「俺は咲弥とずっと一緒に居てあげる!約束する!」
「おれとずっと?」
「うん。だから、友達になろうよ。」
握手を求められ、為すがままにおれも手のひらを差し出していた。ぶんぶんと勢いよく腕を振って固く互いの小さな手を握り締めた。軽々しくずっと一緒だとか約束だと言う竜也に不信感もあったが、なんとなく信じてみたかったんだ。冷たいわけじゃなかったんだ。竜也は、優しい、英雄だった。
竜也とはそれから毎日公園で遊ぶようになったし、通う小学校も同じで、おまけに通学班までいっしょだった。おれは生まれて初めてできた友達という存在が本当に嬉しくて喜びに満ち満ちていた。けれど、親には友達ができたとは一回も報告しなかった。
「ごめんな。咲弥。」
小学校三年生になった頃、両親が離婚することになった。おれは母親に引き取られることになり、父親と笑顔でバイバイをした。これからは二人で頑張ろうね、と遣る瀬無く呟いた母親。
「全然、平気。おれ、友達が出来たんだ。だから淋しくないよ。」
本心だった。生まれて初めて、断言できる友達。嬉しくてたまらなかった。おれの発言を聞いた父親は、なんとも難しい顔をしたあとに無理矢理だろうが笑顔を作って、頭をポンポン撫でてくれた。
おれはそれからずっとこの街で過ごしている。不変の友情を約束してくれた、英雄と一緒に居るために。
「澪はまた彼女とか。」
「仲が良いのはいいことだろう。」
公園のベンチに座って、腕を伸ばした。夜中の二時の公園には物好きなヤツしかいなかった。つまり、ふたりっきりだ。
野郎二人でベンチに腰掛けて談笑をするなんて、ちょっとピュア過ぎないかと思いつつも、一番居心地のいい相手とつるんでいるのが気楽でおれは好きだった。
「順調そうで一安心だよなあ。」
「荒れてた頃を思えば百億倍良い状態になったよね。」
中学時代からの友達、冬本澪。竜也とおれは、澪との付き合いもかれこれ十六年くらいになる。人生の半分以上をこうして一緒に過ごしたり、遊んだりできる友達がおれにもいるんだ。あの、独りぼっちでブランコを漕いでた頃のおれは、記憶の彼方に吹っ飛んでいった。
澪は中学三年の秋に、お母さんを亡くした。原因とかは聞いたけれど、おれには夢にも思わなかった事態で、励ましの言葉なんて見つかりもしなかった。家に帰ると自分の母親はいつも通り居間でテレビを見ながらソファーで寛いでいて、澪もおれらも悪夢を見ているんじゃないかと思ったりもした。お母さんのことがあってから明らかに澪は変わった。とても、悲しい方面に。
「良い子なんだろうな。」
「みんな良い子だろ。」
「みんなって、どういうことだよ。」
「澪も、玲ちゃんも、澪の元交際相手だって全員良い子さ。ただ、澪の心に、玲ちゃん以外が誰も入り込めなかっただけで、一生懸命に好きだったと思うよ。」
「まあ、たしかに。最終的に振ってたのはいつも澪だもんな。」
中学、高校と暇さえあれば三人で遊んでいたせいもあり、集まりに澪の連れが来ることは度々あったが、一度会ったきりで二度目は決して同じ子の姿はなかった。
おれ達は心配こそすれ、口出しはしてこなかった。澪に素行を直せと言ったところで、効果がないことも分かっていた。
澪は間違いなく女の敵だったと思う。もしも自分が同じように扱われたらイケメンと名高い整った顔に、あの日みたいなパンチを一発かましてやりたくなるだろう。
澪の変化は再び訪れた。また秋の時だった。
「俺、大事にしたい子ができた。」
ファミレスで大盛のフライドポテトを貪っていた時に、カミングアウトされた。おれも竜也も待ってましたと言わんばかりに喜んで、店の中だということも忘れて、万歳と澪を叱咤激励したんだ。
澪はそれ以来、ずっと誰とも付き合うことをしなかった。集まりに女の子が来る日も無くて、不思議に感じたおれは彼に聞いた。
大事にしたい子ができた、そう言われたら少なくとも付き合いを始めているんだとばかりに決め込んでいたのだが、話を聞くと澪の一方通行であることが判明し、めちゃくちゃおれはキレた。
さっさとアタックしてこいよ、なにモタモタしてんだこの甘えん坊だとか、今思うと怖いもの知らずにもほどがあるような台詞ばかりだった。
「おれも大事にしたい子、作りてぇ。」
おれは恋愛感情がほとんど湧かない。好きな子なんて台詞、何年前に言ったきりだろうかってくらい、恋や愛には疎い人間だった。それでも人生に不都合はない。働いてりゃ金は稼げるし、娯楽だって探せばいくらでもあった。
「咲弥は会うたびに同じこと言ってるよな。」
はは、と竜也の乾いた笑みが宙を舞って暗闇に消えていった。
「そういう竜也はどうなんだよ。」
「んー、俺もいないな。」
考えるフリをしているのは一目瞭然だったが敢えておれはその辺りに触れることは無かった。
「俺考えたんだけどさ。」
「うん、何々。」
「咲弥と俺が二人とも五十歳まで独身で、パートナーもいなかったら、同居するってのはどう。」
「同居?おれと竜也が?マジで言ってんの、それ。」
「まじ。」
おれも悩むふりをして、数秒間、口を噤んだ。
「いいじゃん。」
公園のベンチに二人で座って将来の、ポジティブなんだかそうじゃないんだか判断に困る話題をへらへらとした態度で話し合う。竜也もおれも似ていて非なる、魂だから。誰も乗っていないブランコをぼんやりと眺めた。
「じゃ、竜也が家事全般ね。おれは稼いでくるわ。」
「なんで俺なんだよ。」
「だっておれ料理出来ねぇし。」
「ラーメンでいいだろ。」
「塩分過多で早死にすんだろ。」
「あ、じゃあ懐石料理。」
「極端過ぎだろうが。」
あっはははははは、あははははは。住宅街のど真ん中、夜中になって三十路手前の野郎二人がくだらないことでじゃれあって、そのうちにじいさんになって、永遠の眠りに就くまでどうか。
ずっと一緒に居てくれよな、竜也。
「華やいだ幸福が、たくさん訪れますように。」
二人で考えた名は世界で一番いとおしい命になった。
「母さん、行ってくるよ。」
「ええ、気を付けて。」
土曜日。良く晴れ渡ったいい天気だった。夫が、散歩に行くというので送り出した。いつもと変わらない風景に華那の骨壺が増えてしまったのは、去年のことだった。
華那が生まれて来てくれた日を最近やたらと思い出すようになった。痛くていたくて、もう本当に気が狂いそうなほど踏ん張って、はい、ひいひいふー、なんて言われながら、頑張れがんばれって、がんばり尽くした末に、華那はこの世に生を受けた。
「おはようございます。そちらはいかがお過ごしでしょうか。昨日、お店の場所が決まりました。宮本清二、本当に丁寧な方ね。」
骨壺の方へ視線をやりながら、零れる笑みをそのままに、私は携帯のキーボードをタップした。
今日はとてもいい天気です。お店の場所が決まったとのこと、本当に嬉しく思います。夫にも伝えておきます。どうか、くれぐれもご無理なさらぬよう。身体に気を付けてくださいね。
「華那が好きになる人だものね。」
返事のない問いかけにも、違和感を覚えなくなる。早く、お墓に入れてあげたい気持ちと、まだ私達の傍にいてほしいきもちがせめぎ合い、納骨の日取りは未だに決められずにいた。
「もう少しだけでいいの。私とお父さんのこと見守っていてくれるかしら。」
続け。
続け、絶つな。
まだ、消えないで。
止まらないで。
華那の遺体に泣き叫んだ日。火葬場の待合室で待った時間。骨だけになって我が家に帰ってきた愛おしい子。全てが私を苦しめ、そしてどれほどかけがえのない命だったのかを教えてくれた。
「華那…っ。」
平穏な日々の中に、絶対的に潜む絶望に苛まれ、最終的に到達するところはいつも涙だった。
鼻水をすすり、嗚咽を漏らし、合間に子どもの名前を呼ぶ。夫が居る前では、できないことだった。
一人になるとじっくりと考えてしまう。想いを、馳せてしまう。まだまだ、一緒にいたかった。成人式だってついこの間迎えたばかりの、私よりもずっと若い命の芽を摘み取られる慟哭は、誰も肩代わりなどできやしない。
それでも誰かに押し付けて逃げ出したくなる日もあった。
ひとしきり涙が出てしまえば、その日は楽になる。サイクルは突然やってきて、ゆっくりと引いていく。感情の波が、凪いでいくのを待つしかないのだ。
立ち上がる術は、自分自身で見つけなければいけなかった。
「母さん、これ好きだったろう。」
散歩と称して一時間程度経った頃、夫は無事に帰ってきた。
華那の件があって以来、夫の外出にもやけに心配してしまう悪癖がついてしまった。コンビニに寄ったのだろうか、行きには持っていなかった紺色の小さなサイズのエコバッグを持っていた。それは華那が、一昨年の父の日に贈った物のひとつだ。
「あら、ありがとう。」
袋の中には焼きプリンが三個入っていた。
一個だけを早速取り出して、華那の前に供えた。手を合わせ、安らかな眠りを願い、見つめた。
月日を重ねるごとにぼやけていく、聞き慣れていた声も、笑い方も、途端に全てが恋しくなる。このいとおしい呪いを解かずに、上手く付き合っていけたら、それが私の理想だった。
席に着き、夫と焼きプリンを他愛ない話を添えて、食べた。甘すぎず、しっかりとした固さがあって私の好みにぴったりだった。
「美味しいわね。」
美味しいものに、おいしいと感想を述べられる。私はまだ、この世界に生きて、息をしているのだと実感が湧いた。今日も明日も、華那を思う。会いたいと切望してしまう。どれも夢物語で叶わなくとも、灯火が消えぬように。
繋いでいけ。
つないでいけ。
つなげ。
華のように、鮮やかな生きるための希望を。
絶たないで。
繋げ。
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