日々に君
二月二十七日 日曜日 天気 晴れ
彼の家に泊まった。朝ご飯と昼ご飯を合わせるようにして、ハンバーガーをテイクアウトして食べた。フライドポテトがどっち派か論争をして、笑ってた。ちなみに私はしんなり派、彼はカリカリ派だった。昨日散々泣いたからか彼は顔が浮腫んでいると言っていたけど、全然いつもと変わらなかった。小顔で羨ましい。
午後からはお母さんの部屋に。アルバムの続きを二人で見ていった。黙々としていったから全部終わってしまって、次はどこにするかを決め、クローゼットを確認することになった。クローゼットは折戸になっていて、中には生前にお母さんが身に着けていたと思われる衣類がどっさりと収納されていた。部屋の確認は、全て終わってしまった。
二月二十八日 月曜日 天気 晴れ
「澪くん。」
意を決して彼の名前を呼んでみた。朝の三時、ベッドで後ろから抱き着く。彼のシャツを指先できゅと軽く摘まみ、勇気を閉じ込めるために息を吸い込む。これまで名前を呼ぶのを、わざと後回しにしてきたけれど、それもこれでおしまいにしたくなった。甘い衝動が全身を駆け巡った。うしないたい、弱い私を。失いたくない人を、私なりに大切にしていきたかった。
「澪くん。」
シーツが擦れる。彼が寝返りを打って、爛々とした目つきで見つめる。
真っ暗闇にも負けないあなたの格好良さが、際立った。瞳、鼻先、唇、頬、耳、指、髪の毛、肌から伝わってくる。ときめきと、熱情が同時に心を占めていった。
「不意打ち過ぎんだろ。」
「呼びたかったの。今。」
駄目だったかな。答えなんてわかり切っているのにそれでも確かめようとする私は、前に彼が言った通り小悪魔的な人間なのかもしれない。計算高く、そして正直で、お節介。振り返ってみてもずっと無意識のうちに傷つけていてばかりだった。
もっと踏み込んでいたら、もっと謙虚でいたら。過去の選択に対して、やり直したいと思うことも山ほどある。
彼が大切にしていたものを、もっとちゃんと触れる勇気を持っていればよかった。
もしもの話は誰も救わない、報われない。今、感傷に浸っていても現実は何一つ変われない。
人生そのものを私は全うしようと、必死に、呼吸をして、恋を重ねていく。明日もあさっても、あなたがお母さんを慕い孤独に怯えていても、変わらなくていいと言える。あの時と同じように、幸運を祈るだけしか出来なくとも、ずうっと傍に居たい。
「いいや。すっげぇ、幸せ。」
アニメーションやドラマみたいにスーパーヒーローにも勇者にもなれない私達はキスをする。夜に飲み込まれても、這いつくばって光を探し出す。その希望を作っていくために。
「玲。」
名前は合図だ。そうっと瞼をとじて、温もりを分け合う。
この世界にたった一人しかいないあなたと。
赤色の内履きを履いて廊下を歩いていると、佳江という子に声を掛けられた。
「間中さん。また一緒のクラスだね。よろしく。」
「あ、よろしくね。」
春がやってきた。高校生活もこの一年間で終わりを迎えてしまうと思うと、項垂れてしまいそうになる。桜の花が満開になった頃、クラス発表に怯える私がいた。自分の名前を探し当て、男子の欄を見た。冬本澪、彼が、居る。
「しかもまた澪とも同じクラスだしびっくりしちゃった。」
「うん、そうだね。」
教室まで二人で肩を並べ歩いた。雑談を積み重ね、一番最初の話題が上手く思い出せないタイミングで到着をした。黒板には、出席番号順に着席するよう指示が予め書いてあった。
窓際の後ろから三番目、そこが自分の座る場所になっていた。スクールバッグをフックに提げて、辺りをきょろきょろと見回してみたが、知り合いと呼べるのは佳江という子と、冬本くんだけだった。また一から友達作りをするのかと考えると憂欝だが、新しいコミュニティが出来ると前向きに捉えるとモチベーションは僅かに向上した。
「佳江じゃん!」
教室内の女子が一気に色めきだった。彼の、声が強調されて耳に届く。
「え、また同じかよ。残念なんだけど。」
「何が残念なのよ。てかこっちの台詞だから。」
ぎゃあぎゃあ言い合いをしている二人をぼんやりと見ていた。とても、その光景に憧れを抱いていた。あんな風に彼と和気藹々と話せる佳江という子も、彼女を名前で呼んでフランクに会話に参加している彼も、何もかもが対象となっていた。ブレザーの裾を握り、鈍痛に耐え忍ぶ。私は意気地なしそのものだ。
「はあ?俺の台詞なんだけど。まぁいいや、とりあえず今年もよろしくな。」
「はいはーい。」
彼女の席から離れ、真っ直ぐに彼が自分の席に向かって歩いてきた。どうせ私など見ていないだろうと高をくくって彼を見遣ると、すぐに目が合ってしまった。息が詰まり、とくとくとくと心臓が高鳴っていって、用もないのに机の中を確認し掛けた。
「おはよ。」
「おはよう。」
どぎまぎな挨拶をしてしまい、不審がられていないか気になったけれど、彼の顔を見ることはとてもじゃないがひどく緊張してしまい出来なかった。
椅子に座り、バッグを乱雑に机の上に置くと、くるり、いきなりこちらを振り返ってきた。少しの間だらけていた体勢が、一気に行儀良いものにすり替わった。
「またクラス一緒じゃん。」
はにかんで言ってくれた嬉しさに勢いよく頷いた。すると、言葉の代わりに彼が笑顔を深めた。周りの女子たちが、彼が笑ったあとに黄色い歓声を上げるのも、もう慣れてしまった。彼は三年生になっても、格好良い。整髪剤できちんと整えられた髪型、ハリのある肌、皺のないワイシャツ、ぷくりとした形良く締められているネクタイ。
「あ、玲。」
「っ。」
彼の指先が迷いなく私の両目をすり抜けていくと、前髪に触れた。
ぎゅ、と目を瞑る。数秒もしない内に、彼が取れたと呟いた。
今、彼はなんと言っただろうか。
私のことを、なんと言ったのか、誰かリピートして教えてほしい。
れい、って。
聞き間違いじゃなければそう、音がした。
声がした。
名が紡がれた。
今、彼は私のことを、玲と呼んでくれたんだ。
「もう目、開けてもいいけど。」
「う、うん。ありがとう。」
瞼を持ち上げ、すぐさま目を伏せたので表情を窺い知ることができなかったが、私自身はそれどころではなかった。名前を急に呼ばれ、さらには前髪に触れた。
彼の指先の感触が、消えてなくならない。そしてクラスメイト達、特に女子生徒の反応を見ることも怖かったのだ。彼は自覚があるかは別として、学校きっての王子様のような人だった。老若男女、それこそ学年や立場の違いも超えて人気があった。
まるで少女漫画に出てくる、完璧なイケメン。彼こそまさにそれそのもの。
「玲?」
遅く、おそく。出来るだけスローペースに視線を上げる。教室内は騒がしさに飲まれ、幸い誰もこちらに気を留める様子はなかった。後ろの席を確認するが、まだ座っていないのか机と椅子は整頓された状態を維持していた。
彼が、何か言いかけた。ちょうどよく、チャイムが学校中に鳴り、慌ててみんなが着席しだした。担任と思わしき先生が入室し、ホームルームを始めますと明瞭に声を張った。
新学期のスタート。三年生のはじまり、そして彼とまた前後の席順。
玲、と名前を呼んでくれた声が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
ふわり、開けっ放しになっていた窓から風が吹き込んだ。髪の毛が乱れる、瞳がブラックアウトして、次には元に戻った。桜花が、舞い踊っていた。
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