お父さん行ってらっしゃい

 二月二十四日 木曜日 天気 晴れ

 彼のお父さんと会った。まさかの展開に腰が抜けそうになった。そのまま一緒にランチをした。出掛ける前に、電話を掛けて彼に事の説明をしたら、すぐに帰ると焦った口ぶりで言われたので必死に止めた。大丈夫だから、と。彼はひどく不安げに、何度も断ってさっさと帰っていいと言ってきた。私が思うに、彼とお父さんの間には溝がある。

 なんとか説得して、彼のお父さんと出掛けた。ランチはサイコロステーキ。お父さんはハンバーグ二個を頼んでいた。ほとんど無言での食事だったけれど不思議と気まずくはなかった。

 帰宅するまで、あ、車で行ったんだけれど、彼のお父さんが楽しそうに鼻歌をうたっていた。

 なんだか娘でも出来た気分だよ、と言っていた。

 いい人、だと思う。少なくとも私が接する分には…。



「わりい、俺の不注意ってか、帰ってくるなんて思わなかったわ。」

「全然大丈夫だったよ。」

「まじで何もなかったか?」

「うん。おしゃべりしてランチして、家まで送ってもらっただけ。その、こう言ったらなんだけど楽しかったよ。」


 そっくりそのままに感想を伝えると、彼は顔を顰めた。ずずい、と瞳いっぱいに彼が映る。今日も相変わらず格好良いなあ、なんて惚けたことを考えていると、彼の両手が頬を無情にも抓る。冗談と本気が入り混じっているのか力が微妙に強く、痛かった。


「何が楽しいだよ、あほ。」

「は、はなしてくりゃさい。」


 呂律がうまいこと回らず舌っ足らずな喋り方になるが、彼はお構いなしにぐにぐにと行為を止めなかった。助けを求めようにも、竜也くんも咲弥くんもビリヤード台の方に夢中でちっともこちらに気付いていない。


「人が滅茶苦茶心配してたっつうのに、呑気に喜んでんじゃねぇよ。ったく、昨日だって帰ろうと思ったのに。」

「は、はなひれ。」

「どうしようかなぁ。」

「おーい、そこ、イチャイチャしてないでくんないかな。順番なんだから、やってよ。」

「そうそう、そういうのは二人きりの時でお願いしますわあ。」

「うるせぇ、取り込み中、っておい。」


 二人がこちらを見ながら肩を竦めている。私は、ぱっと彼からすり抜けて、ついでに頬も解放してもらってビリヤード台の傍に立った。


「はい、玲ちゃん。」


 咲弥くんからキューを渡された。狙い定めて、キューが指の間を数度行ったり来たり、それから白いボールを撞いた。カーンと軽快な衝突音が響き、跳ねるようにターゲットのボールがコーナー・ポケットへと吸い込まれていった。


「やった。」


 ひゅう、と竜也くんが口笛を吹いた。いい調子じゃん、咲弥くんがエールを送ってくれる。ちらり、彼を見た。


「はいはい。言っても聞かないね。」


 ビリヤードの次はダーツ。竜也くんと咲弥くんと冬本くん、私。このメンバーで遊ぶのは二回目だったが、随分と打ち解けた和やかなムードが広がっていた。ブルを当てた咲弥くんがガッツポーズして、そんな咲弥くんを竜也くんがやるじゃんと褒めた。


「あの二人って双子みたいだね。」

「そうか?」

「うん、息もぴったり合ってるし。それに名前の響きもそっくりだから、なんだか二人でひとつみたい。」


 感性そのままを述べたつもりだったが、声が聞こえていたのか、二人がこちらを振り返った。酷く嬉しそうに笑っている。


「流石は玲ちゃん。」

「うんうん、やっぱ出来る子は違うなあ。」

「ほんと澪に何か嫌なことされたら俺らにすぐ言ってね。」

「しっかりと懲らしめますんで。」


 不穏な発言はさておき、彼らの反応に私は安堵した。知らないのに、思ったことをそっくりそのまま勝手に言ってしまって、不愉快な気持ちにさせていたらどうしようかと、言い終えたあと後悔していた。隣の彼が、はにかんだ。


「次、俺らの番。」

「うん。」


 彼が先に立って、私の手を取った。ソファーのスプリングが鳴いた。ブルをめがけて投げたダーツを投げる。放物線を描いて、真ん中に刺さる。そういう風にイメージトレーニングしたのに、三本とも、はじっこばかりに突き刺さった。

 ダーツで何回か点数を競って遊び、時間はすっかり午前一時前となった。咲弥くんが眠いと欠伸をして、竜也くんは携帯電話の待ち受け画面を確認した。


「そろそろ解散するか。」

「そうだねえ、そうしよっか。玲ちゃんはどう?」

「私はみんなに合わせるよ。」


 じゃあ、と。みんなで手を振り合った。それぞれが車へと向かい、乗り込んでいく。私は彼の車の助手席に座り、エンジンを掛ける音が鳴るのを待った。けれどいつまで経っても、彼は動く素振りをしない。


「冬本くん?」

「…親父とどんな話、した。」


 不安げに揺れる彼の瞳。

 一瞬間だけ私を捉え、俯いてしまった。


「お母さんのお話。」

「…お母さんのことか。」


 俺のことは何か言ってたか。

 彼はきっと、そう私に聞きたいのだと思った。でも、私が聞いた言葉をそのまま彼に伝えることは、冬本くんにとっても、彼のお父さんにとってもよくない気がしたので、口を噤んだ。だんまりを決め込む私を彼がどう判断したのかは分からない。けれど、車はエンジン音を鳴らして、ゆっくりと走り始めた。

 真夜中の道路を、ライトが煌々と照らしていく。車の通りは殆どなく、建物の灯りもなかった。街灯のLEDの光が目立って映った。景色は移ろっていくのに、見慣れた街並みにどこか安心感が芽生えた。

 彼とお父さんとを繋ぐものは、もう血や家や家族そのものではないと感じる。希薄でいて、このまま放置しておけば自然と消滅してしまえるだろう。彼も、お父さんも本心は溝を埋めたくて手段を探している。だけどどうすればいいのか分からず、立ち往生して、それがまた事態を駄目にしていってしまう。

 時間が解決するのは、人の死の驚きと悲しみだけだ。遺された側の、心が回復したり、以前のような生活に戻れる保証はないのだ。

 華那ちゃんのご両親だってそうだ。彼女が居た頃の暮らしには、足掻いてもならない。喪って、うしなったまま、変えていくほかないんだ。


「お父さんがなんで日本に一時帰国したか知ってる?」


 運転の邪魔にならないよう、赤信号で停車した瞬間に問いかけた。


「さあ、知らねぇ。」

「お母さんのお墓参りに行くって仰っていた。」


 しん、と静まり返った車内。こういう日に限って、彼は音楽を流していなかった。横顔を凝視しても彼が何を思っているのか、見当もつかない。こういったことはこれからだって何度も起こり得る。そのたびに気まずさや、解決策を導き出せずに苦悩するのだろう。そうやってすれ違い、大きな穴となって、壊れていく。恋という感情はいつも不安定で、絶大だった。

 車のライトがアスファルトを無造作に照らしてる。乗り越えられる、大丈夫、私はまじないを自分に掛けていく。彼とさよならをしたくなかった。

 自宅に送り届けてもらい、車を降りると、彼は手を振って直ぐに走り去ってしまった。


「ただいま。」


 母親のいつも履いているパンプスが玄関に無くて、瞬きをした。携帯電話を開くと、今夜は華那ちゃんの家に泊まりますとメッセージが届いていた。了解、と入力し送信をタップした。


「いいのかなあ、このままで。」


 私のことも、彼との恋も、彼の家族も。堂々巡りの物事ばかりで、片付けられもしないくせに一丁前に脳ミソは思考することをやめない。真夜中の精神は、普段は中くらいの思慮が深みを帯びていく。夢、仕事、恋、家庭の事情。ただ息をしているだけなのに、どうして人生には問題や悩みは尽きないのだろうか。そのどれも、他者が関わり、一人になればまたひとりの苦しみが付きまとう。


「煩わしい。」


 お風呂に入ろう。午前二時前の孤独な討論会は呆気なく終了した。浴室へ向かい、シャワーの水で浴槽を全体的に洗う。浴槽の栓を閉め、給湯器のリモコンの自動ボタンを押すと機械がお風呂を湧きますとアナウンスした。リズムの良い音楽が流れ、少しだけ陽気になって浴室を出た。

 携帯電話を取り出し、彼にメッセージを送った。


 今日もありがとう。竜也くんと咲弥くんにもありがとうって伝えてください。それから、お父さんのこと、もし嫌に感じてたらごめんなさい。

 おやすみ。


 最後に三日月の絵文字をつけた。



 二月二十六日 金曜日 天気 晴れ時々曇り

 朝七時に家を出て、冬本くんの家に行った。インターホンを押すと、お父さんが出てくれた。彼はコンビニかなにか出掛けているようで家にはいないそうだ。

 お父さんは彼のことを必ず、あの子と呼ぶ。名前を言わないのか気になって聞いたら、なんだか気恥ずかしくてねと。私はやたらと真剣に、名前を呼んであげてくださいと返してしまった。

 機会があったらね。お父さんはすごく寂しそうにつぶやいてた。


「あの子が大きくなるたびに嬉しがってた彼女が懐かしいよ。アルバムを見ただろう。」

「アルバム、びっくりするほど沢山ありました。」

「だろう。彼女は写真が好きでね。出先では必ずと言っていいほど、カメラマンを頼まれたよ。」


 昔を懐かしむ、遠い目をしていた。私が、土足で簡単に足を踏み入れてはいけない範囲があるのだと、今までの行いを至極恥に思えてしまう。ありがた迷惑、というのはまさに私自身のことを指すのかもしれない。


「でも、君があの部屋に居てくれて助かったよ。縁もゆかりもない、君だからこそ、よかったんだ。」

「踏み荒らしてしまいませんでしたか。私、馬鹿だから、これが彼の為になるんだって思い込んでたのかもしれないと、今更ながら恥ずかしくて仕方ないです。」

「最初はもちろん抵抗があったよ。冷たいことを言うようだけど、恋人だからって家族ではまだない。そんな人を彼女の部屋に、って。」

「そうですよね、ごめんなさい。」


 お父さんの言い分はごもっともだった。理に適っている。私達は、恋をしている者同士であって、それ以上でもそれ以下でもない。ましてお父さん」から見れば、息子の恋人であって家族関係を結んでもいない他人だ。


「どうしようもないことを、君がどうにかしてくれてることに、今は感謝してるよ。それから、あまり自分を卑下することはやめた方が良い。心はそのたびに弱ってく。」


 窘めるような、ゆったりと励ますような、そんな言葉だった。


「君がこれからもあの子の傍に居てくれるなら、俺は安心できるよ。」


 諦めたくないことをあきらめている。


「俺は、君のようにあの子と笑い合うのは難しいから。」


 私が知らない、家族の思い出たちがあって、一つのピースが崩れ落ちていくたびに、整った円の形をしていたはずの日常が歪に変化していく。修復方法も分からず、きっかけを待ち続けたんだろうか。この人は、既に過去に戻りたいと願うことすら、投げうってしまったんだ。

 掛ける言葉は一個も浮かんではこなかった。この場に留まることだけで胸がいっぱいになってしまう。


「でも親であることだけはどうしても辞めたくなかったんだ。同時に俺は確実に親として失格だと自覚してる。育てているとは言えない。あの子は、俺が思うよりも逞しくなって、一人でなんでもできるようになって。今じゃ二人で上手く話すことも出来ない。」

「…。」

「最低限度、生活費を毎月振り込んで、時々家に帰ってた。いつもあの子は家に居なかった。月日を経るごとに、彼女が大切にしていたこの場所が壊れていくのは、分かってたんだ。それでも俺はずっと逃げ続けてきた。仕事にかまけて、家族を顧みなかった。」

「彼の本当の気持ちなんて分からないです。私は冬本くんじゃないから。だけど、私は、自己中でお節介が好きだから、いつか仲直りをしてほしいって思ってます。」


 じゃあ、私が拾い集めればいい。彼らが失くしたものを、捨ててしまったことを、想いを一つずつ当て嵌めていく。もしも、ハッピーエンドにはなれなかったとしても、後悔や遣る瀬無さが残っても、意味を為すはずだろう。


「当たって砕けろ、ですよ。」


 話に夢中で彼が既に家に戻ってきていると知ったのは、空港に向かう彼のお父さんを見送る時だった。

 目を合わせているのに彼もお父さんも、挨拶ひとつすらせずに、すり抜けていく。固唾をのんで見守ることしか出来ない私は、邪魔にならないように一歩後ずさった。靴を脱ぐ彼と、革靴に足先を滑り込ませる彼の父。流れる空気の温度が下がるような気配がする。


「戻ってたのか。」

「…ああ。」


 彼がじろりと、鋭い眼光で私を見据えた。どうしてこいつとお喋りなんかしてるんだ、とでもいうかのような冷えた瞳をしていた。


「また来るよ。」

「そう。」


 赤いアルバムも黄緑のアルバムも、今の彼らに救いの手を差し伸べることはない。沈黙を貫く思い出達が、彼らのことを抱き締めてあげていてほしかった。どうして、この場に居るのは自分なのだろうかとすら考えてしまった。二人が欲しているのは、星の香りをまとう、あの綺麗なひと。


「…澪。」


 あまりにも小さかった。少しでも雑音が混ざればかき消されてしまうほどの、呼び方だった。彼の身体が、ぴくりと強張り、動作が停止する。私はその瞬間を逃さなかった。


「気を付けて。」


 お父さんが私を振り向き、眉を下げて情けなくけれどとても嬉しそうに笑っていた。一歩、踏み出す。パタンと閉じたドア。彼が、吐く息。ぎし、ぎしと足音が響いて、次には抱き寄せられる。温もりが、じわりと滲んでくる。あったかいね、私が言うと彼は身体を震わせていた。


「なきむし。」



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