風に舞う
「今日は、ここを見てみようよ。」
冬本くんのお母さんの部屋。私が指した先にはチェストがあった。彼は、こくんと頷くだけで反論はしなかった。無言は肯定の意だと捉え、引き出しの一番下を確認し始める。赤、山吹、群青、黄緑。少し古びたB5サイズのアルバムが、ぎっしりと収納されていた。
「中身、見てもいいかな。」
「うん、玲なら。」
表紙をめくると、一番最初のページには三人が写る写真が貼ってあった。余白スペースには手書きでコメントが書かれている。丸っこくて、可愛らしい文字。ちらりと彼を見遣ると、多分お母さんのだろうと教えてくれた。
「健一郎さんと、澪くんと、わたし。これから幸せになろうね、澪くん。」
まだ幼い、彼がそこにはいた。あどけなくそれでいて邪まな気持ちの一切無い澄んだほほえみが、胸を突いた。眦が熱くなっていくことを抑えきれなかった。
赤色のアルバム。どのページにもいる、歳を重ね大きくなっていく彼の姿。
「自転車に初めて乗った日。補助輪無しで走れるようになったら、ママとも一緒にお出掛けしてくれるかな?澪くん、すくすく元気に。」
私達は夢中で、アルバムを捲っていった。
黄色い補助輪付きの自転車に跨って、ピースサインをしている。胡坐をかいて、写真を眺めている彼は一言も発しないけれど、必死に感情を堪えているように見えた。そうっと手を添える。するりと温もりが合わさって、視線が絡んだ。
「続けて、もっと聞かせて。」
「…はい。」
澪くんと一緒に。澪くん、六歳。今日から小学生!
大きくなったらお医者さんになると言い張って聞かないあなたがどんな大人になるのかママは今からひそかに楽しみです。
入学式と筆で書かれた看板、小学校だろう建物の正門らしき場所で写る二人。お母さんは笑顔で、冬本くんは緊張しているのか心なしか強張った微笑だった。添えられたコメントの、す、の文字に水のようなものが垂れてしまったのかじゅくりと滲んでいた。
「澪くんと一緒にアメリカに行こうと話していたのだけれど健一郎さんが帰ってきてくれました。三人で久しぶりにごはんを食べたので店員さんに撮ってもらったの。澪くんは、ナポリタンを美味しそうに食べていました。」
健一郎さんと私。カメラマン、澪くん。私達を撮ってくれてありがとう。
紅葉狩りに来ました。美しく染め上がった葉を掴んで空に透かしていたら、健一郎さんが私の手を握ってくれました。ありがとう、健一郎さん。
「この、健一郎さんという方が、冬本くんのお父さん?」
「そう。親父はずっとアメリカと日本を行き来してんだよ。小さい頃はよく帰ってきてたけど、お母さんが居なくなってからはずっとアメリカ暮らし。」
「一度も帰ってきていないの?」
「俺が覚えてる限り、殆どない。ごく稀に家で遭遇することはあるけど、会話しねぇからな。」
お父さんの話をする彼は顔をしきりに顰めていた。彼が父親へ向ける評価が、透けてみえる。ということは、少なくとも中学校三年生からの生活を彼は一人で営んできたということになる。
自分に置き換えて考えてみれば、非常事態としか言いようがなかった。
家事と学業の両立、そしてアルバイトまでしていただなんて。絶句してしまい、勝手に瞳がまんまるになってしまう。額にデコピンをして、彼がクスクス笑った。
「間抜けな顔。」
「もう、茶化さないでよ。心配してるのに。」
「平気、もう慣れたから。」
いいから、続き見よう。彼がページを初めて捲った。
「健一郎さんと二人でデート。出産後は初めて。水族館に行ったよ。ラッコが、かわいかったなあ。澪くんへのお土産にクッキーを買っていったら、ラッコがいいと言われちゃった。今度は一緒に行こうね。」
「そういえば、そんなことあったかもしんねぇ。」
「お母さんもラッコが好きだったんだ。なんかすごく嬉しい。」
澪くんへ。次のページを捲ると、写真が一枚も貼られずにびっしりと文字が書かれていた。藍色のペンで書かれた、お母さんから冬本くんに向けられたメッセージのようだった。私は、息を吸って、言葉として紡ぐ。追いかける目から、緊張が流れ身体を巡っていった。
「澪くんへ。」
冬本くんが、やんわりと唇を噛んで、離した。部屋はしんと静まり返って、私達を見届けている。なにも、だれも、言わない。遺された想いだけが確実に何かを伝えようとしていた。
れいくんへ。ままより。
「あなたが生まれてきてくれて、ママは、私は、冬本星香は本当に幸せ者になれました。出産の日、私はひどく心細かったのだけれど、お腹の中からあなたが出てきて産声をあげたとき、言葉には表せないほど泣きたくなったの。そして、強くありたいと思った。私はあなたの母親になれたでしょうか。直接聞くことが叶わないのはとても惜しいです。でも、どうしても、変われなかったママを許してください。あなたが大きくなったらお医者さんになりたいと言った日、私、泣いちゃったの。お父さんはね、私にこう言った。あの子は強くあれるなって。きっとそうなると確信出来た。私を幸せにしてくれてありがとう。数えきれない出来事も全て振り返ると、しあわせでたまらないよ。頑張れなくなってしまった私で、ごめんなさい。どうしても、だめだったの。澪くん、お父さんと、うまくやっていってね。あなたの成長を最後まで責任をもって、見守れなかった、私を、どうか…。澪くん、世界で一番に幸せになってください。ママは、とても幸せだった。自分勝手になって、ごめんなさい。…ママより。」
ぽた、ぽつ、ぽつ、ぽた。大粒の雫が、アルバムに落ちていった。双眸からつつましく流れる涙が、彼を濡らしている。私が手を伸ばして指の腹で拭おうとしても、彼はゆるやかに頭を振っておしまいになってしまう。宙ぶらりんな手が、自分の元へと戻っていった。
赤色のアルバム。あなたが、たしかに家族と生きた証。写真、丸っこい文字、ママより。
私は、鼻の奥がツンと痛んだのだけれど、天井を睨んで必死に堪えた。
二月二十二日 火曜日 天気 晴れのち曇り
彼と彼のお母さんの部屋に入った。今日は引き出しの一番下を確認した。アルバムが敷き詰められていて、一冊を取って内容を確認してみたら、すんなりとずっしりと真実が露わになった。彼のお母さんの名前が、とても美しくて素敵だと思った。星に香。真冬の空に浮かぶ白銀の煌めきを想像した。
彼は明日、竜也くんと用事があり、夕方まで家に居ないらしいのだけれど、もしよかったらまた来てアルバムとか確認する作業を進めてほしいと言われた。けれど彼が居ないのにそんなことをしてしまっていいのか、良心の呵責に答えに悩んでしまう。
彼は、一生のお願いだから、と言葉を重ねた。そう言われたらもう断ることなんて、私には出来なかった。ちょっと緊張してしまうけれど、頑張ろう。
「おじゃましまあす。」
竜也くんと待ち合わせる前に私の家までやってきて、鍵を渡して去った彼。
鍵を差し込み、回す。ガチャリと開錠された音がして、そのまま家の中へ入り込む。別段、不法侵入などではないのだが、どうしても恐れ多い気持ちが払いきれなかった。ソファーにバッグとコートを置き、洗面所を借りて手洗いとうがいをした。三面鏡に映る自分の顔をじっくりと観察する。化粧のノリはイマイチだが、マスカラが上手くいったので睫毛のボリュームと長さが綺麗に出て僅かにテンションが上がった。気合いを入れるために、よし、と声に出す。
階段を上り、真っ直ぐにお母さんの部屋に踏み入った。チェストの一番下の引き出しを開け、昨日見た赤色のアルバムをそっと離れたところに置いた。ひとまず目についた黄緑色のアルバムを手に取り、ページを捲っていく。
「冬本くんは写ってなさそう。」
ぺらぺらと中身を見進めていくが、どうやらこれは彼が生まれる前に撮影された写真たちのようで、基本的に彼のご両親だけが写真の中にいた。彼のお母さんは、芸能人にいてもおかしくないと思うほどの美人だった。はっきりとした目鼻立ち、けれど何処か憂いを帯びた淋しそうな笑顔、赤色にピンクが混ざった唇の色がラブリーで、見とれてしまう。
差し込む、太陽の光が、ちらちらとご両親の思い出をより鮮やかにしていった。
「綺麗。」
独り言が漏れた時だった、ガシャンと大きな音が階下から響いた。玄関のあたりだろうか。そういえば、施錠をしていなかったかもしれない。びくり、と全身に悪寒が走る。あたふたと辺りを見回し、だが、足音が階段を上ってきているのが分かり、私は急いで立ち上がって、お母さんのベッドのところへ腰を下ろした。膝を抱え、身を丸める。この部屋に、どうか来ませんように。と、願ったが、かなわなかった。
「誰だ。」
低く野太い声が私に向かって放たれた。視線を部屋のドアへと移す。
スーツ姿の男性が佇んでいた。
「人の家で、しかも、彼女の部屋で何をしているんだ。」
バタバタとわざと床を鳴らすように歩いて、男性は私の肩を乱暴に掴んだ。怒りに満ちた表情、この人は、彼のお父さんだ。
「けんいちろう、さん。」
「っ。」
名前を呼んでしまい、男性がハッと驚いた様子で私を見つめた。手の力が一瞬緩むのを感じる。間違いなかった。冬本健一郎、彼の父親。
「す、すみません。私は間中玲といいます。えっと、息子さんとお付き合いをさせていただいていて、それで今日は、私にアルバムを確認してほしいとお願いされていたので。」
「…そう、か。ああ、そういえばあの子が言っていたな。」
お父さんはそっと手を離すと、その場で胡坐をかいた。座り方が彼と全く同じなので、面白くなってしまいぷっと吹き出してしまった。
「あ、すみません。彼も胡坐をかいて座るので。」
こほん。居心地悪そうにお父さんが咳ばらいをした。くすくす、と笑う私をお父さんはほんのり恥ずかしそうにそっぽを向いてやり過ごす。そういうところもそっくりだ。
「悪かった。あの子の恋人とは知らずに失礼な真似をしてしまったね。」
「いえ。大丈夫ですから、気になさらないでください。」
「それで、目的の物はもう見つかったかい。」
お父さんは部屋を一瞥して、ほほ笑んだ。
「俺も、あの子も、遺品整理がどうにも出来なくてね。」
俯いた。大きな拳が二つ、足の間で形成されていく。ただ、ただ、次の言葉を待つだけだった。
「この部屋はあの時のままなんだ。あの日以来、俺は此処に入ってない。警察が、事件性があるかどうか捜査をするために、部屋に入ってきたりはしたけれどね。俺達は、一歩も踏み入ることが出来ずにいた。」
「そうだったんですね。」
「だから最初あの子から連絡を受けた時、とても驚いたよ。彼女の死と、あの子が向き合うのかと。代わりに俺はまだ、全然。」
そう言いながらもお父さんは、微動だにしなかった。本来であれば此処にいること自体が、辛く悲しいことだろうと思う。彼も最初はそうだった。あれほどに取り乱しているところを見るのは久しぶりのことだった。忘れもしない、去年の十一月九日の日。あの日よりも、苦しそうにしていた。パニック状態と呼ぶ方が正しい気もした。それほどに、この家にとって、お母さんが暮らしていた部屋は大切にされている場所なんだ。
私が此処に居ることは、光栄であり彼らの過去を踏み躙り、荒らしているようなものだ。赤の他人が、家族でも親戚関係でもない、全く関わり合いのなかった人間が、自分らの大切に思っていた人の部屋にいることを許してしまえるのだから、二人してとびきりのお人よしだ。
「ずっと日本にいらっしゃるんですか?」
「いいや。明後日にはまた戻らなくちゃいけないんだ。お墓参りに行こうと思ってね。」
「…彼とは一緒には。」
「行かないよ。俺はあの子に、干渉しない。あの子も俺のことは興味なんてないだろうから。海外で暮らしてて、淋しい思いをさせてるのも分かってる。アメリカで一緒に暮らそうと話したりもしたんだ。でもあの子には全部断られたよ。」
「冬本くんが断ったんですか。」
「うん。俺は日本に居たいってね。理想的なのは、俺が帰国して日本で働くことだった。でも、ちょっと役職があってね。そう易々と勤務先を変えられるような状況じゃなかったんだ。」
「お父様は、それでよかったんですか。」
「仕方ないさ。」
お父さんは立ち上がり、部屋を出て行こうとした。私も倣って、お父さんの後を追った。
「あの子は出掛けてるのかい。一階には居なさそうだったけど。」
「あ、今日はお友達と予定があって出掛けてます。」
「そうか。」
じゃあ、一緒にお昼食べに行かないかい。
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