青春の宝物庫


「ありがとうございます。」


 えーそれだけなの。女子に残念がられている冬本くんはそりゃもうモテモテだった。

 二年生になる前の二月、校内の女子生徒達が色めき立ち、男子生徒は浮かれるイベント。それがヴァレンタインデーだった。友チョコと称して、女子生徒は仲の良い友達同士でお菓子を交換するのが流行っていて、例に漏れず私もそのうちの一人だった。

 全部のお菓子を渡したい子に配り終えて、教室に戻る途中、偶然冬本くんと女子生徒を見かけた。

 私達の通っていた高校は、学年カラーというテーマカラーみたいなものが存在していて、一年生は紺色、二年生は緑色、三年生は赤色と決まっていた。今思えば、あの制度は親泣かせだったろうなと思う。内履きと、体操着を毎年必ず新調しなければならない。

 あれは、緑色だから二年生だ。ちらっと女子生徒の内履きの色を確認した。それだけだった。触らぬ神に祟りなし。上級生に変に目を付けられたくはなかった。でも、羨ましかった。


「あ、すみません。俺、用事あるんで。」

「あー、ちょっと!澪!」


 後方で何やら不穏な会話が聞こえてきたので、歩くスピードを上げていった。自分の教室まで、あと数メートル。


「間中。」


 彼が私の肩を軽く叩いて、呼んだ。嬉しい、でも、振り返るのが怖くなった。だってまだそこには先輩がいるはずだろうから。彼女達は、完全に冬本くんをそういう目線で見ている。恋愛、対象として。


「え、おい。」


 華麗にスルーをして教室に走って逃げ込んだ。まだ残っていた女子二人がびくりと肩を震わせ、私を見た。


「大丈夫、間中さん。何かあった?」


 あんまり親しくはないけれど話したことのある子が、声を掛けてくれた。


「大丈夫。ありがとう。」


 すらすらと半分嘘を吐いた。

 ちょうどそのタイミングで彼が教室に戻ってきた。私はいそいそと自分の机に座った。スクールバッグから数学の問題集を取り出し、広げた。


「まな。」

「間中さん、自習してるの?」


 彼が私のことを呼ぶ数秒前、ほんのわずかな先行。先程心配してくれたクラスメイトが、自習について触れてきた。うん、そう。淡々と返事をしていく私は、AIみたいだ。


「すごーい。私も見習わなきゃ。」


 問題集なんて、わざわざ買ったのかと聞かれて、それにも、うん、そうと同じ言葉を返した。大体のことは、うんかそうで片が付いてしまう。


「佳江、そろそろ帰ろ。」

「あ、そっか。じゃあ、またね、間中さん。」

「じゃね。」


 佳江と呼ばれた子は、もう一人の女子生徒に言われて、私の机からそそくさと離れるとスクールバッグを肩にかけた。二人が私に手を振って短く別れの挨拶をして教室を出て行った。


「うん、じゃあね。」


 彼女達の背中に追いつくように声を張って言う。


「間中。」


 ドスン、と前の席に彼が座った。といってもその席は、本来の彼の定位置なので退かしようがなかった。


「私を先輩達との間に巻き込まないでってば。」


 頬杖をついてクレームを入れると、なんだあと彼は溜息混じりに肩の力を抜いた。


「なんだあ、って結構大事なんだからね。」


 高校生活はグループ行動とカーストで成り立っている部分がある。冬本くんが絡まれていた生徒は二年生で、来年度になってもこの学校に在籍しているのだ。それなのに敵対視されて、最悪嫌がらせを受けたら溜まったものではない。

 私はなるべく高校生活を平穏に過ごしていたかった。既に学業の方面では、危機的状況ではあるけれども。


「怒ってんのかと思った。」

「おこってます。」

「え、怒ってんの。まじ?」

「まじ。」


 つーんと撥ね退けるような物言いをわざとすると、明らかに凹んだ態度で項垂れてしまった。飼い主に叱られた犬みたいで、不覚にも可愛いと思ってしまった。きゅん、と。胸が高鳴ってしまう。SMの趣味は無い。


「…怒ってないよ。」


 これ以上、注意する気持ちも失せてしまって、観念するのは私の方だった。

 私の言葉に、今度は嬉しそうに顔を上げて、笑顔になった。彼の表情はころころと変わるから面白い。ここ最近、冬本くんはよく笑ってくれるようになった気がする。声を掛けてきたばかりの頃はちょっと暗い表情を見る方が多かった。泣いてる、とか、不機嫌、とかではない。ただ、なんとなく寂しそうにしているようだった。笑顔にも、温もりが感じられなかったのだ。


「で、俺には?」

「え?」

「今日、ヴァレンタインデーじゃん。いつも数学教えてやってるしさ、感謝の気持ち的な感じであるんじゃないの。」

「無い。」


 一刀両断。彼は、むくれた。頬をパンパンに膨らませていた。


「ふふっ、リスみたい。」

「は。」

「可愛いね、冬本くん。」


 私が笑ってそう言うと、彼は照れくさそうに明後日の方を向いて、うるせぇよと全然怖くも痛くもない棘のあるような台詞をつぶやいた。


「ていうか、可愛いって言われてもちっとも嬉しくねぇんだけど。」

「だって、本当に可愛かったんだもん。」


 結局、そのやり取りは暫く続いた。可愛いか、可愛くないか。世界で一番くだらなくて、世界で一番しょうもなかった。だけど、すごく甘い思い出だったように感じる。

 懐かしい。

 彼も同じことを記憶しているのだろうか。

 気になって、聞いてみた。


「俺はリスじゃねぇし、ヴァレンタインデー結局三年間くれなかったよな。」


 出来ないことの方が多かった、高校生の二人。成長して成人して、大人と呼ばれる年齢になった。出来ることも増えたけれど、失うことの方が多くなってしまった。学生の頃は、そこまで考えなかった将来のことを、私は漠然と不安に感じるようになった。

 不安は消えないけれど、寝て起きて生きていける力が今はある。

 デパートに行ってよかった。

 あの日、デパートに行かなければ、今の私達は絶対になかった。

 案外近くに住んでいて、卒業後一度も会わなかったのも、あの日偶然再会したことも、運命だったのかもしれない。

 そうだったらいいな。



 二月十五日 火曜日 天気 雨

 彼の家へ夜ご飯を作りに行った。

 またごはん作ってほしい。

 そんなメッセージが届いたから。彼はすっかり甘え上手になったと思う。今日のリクエストは、肉じゃがとナポリタンだった。和と洋がごちゃ混ぜになっているので、肉じゃがを採用した。ナポリタンはまた後日でもいいかと聞くと、また作ってくれるのかと喜んでいた。

 冬本くんの新たな発見。

 彼は好き嫌いが特にない。ピーマン、トマト、ナス、ネギ。よく聞く嫌いな食べ物をあげてみても、嫌いじゃないと言う。それでは好きな食べ物はなにかと聞くと、少し思案して首を傾げるのみだった。思い浮かばないな。

 これから好きな食べ物が出来ればいいな。


 肉じゃがと味噌汁と小松菜のおひたし、鰆の西京焼きを作った。炊き立てのごはんを茶碗一杯についで、彼の前に並べていく。使った調理器具を洗っていると、手伝おうかと彼が言ってくれた。でも、温かい内に食べてほしくて断った。彼は、どの料理も美味しいと平らげてしまった。ごはんなんておかわりをして。

 そのまま、一緒に、はじめてお風呂に入った。

 ずっと避けてきた。だって自分の裸を見られるのは羞恥心に耐えきれないから。彼が、私の身体を後ろから抱きすくめてくれた時、幸せを感じた。素肌が触れ合う、なんとも言えない気恥ずかしさを隠すように、頭の先までお湯に突っ込んで、ぷはと酸素が欲しくなるまでもぐった。

 お風呂のあとに、冷凍庫にあったアイスクリームを食べた。二人で恋愛モノの洋画を見て、寄り添った。だんだん迫る睡魔に負けて、もう寝ようかと言い、彼の部屋のベッドに横たわった。彼が腕枕をしてくれて、おやすみとキスを贈ってくれる。

 幸せばかりが、きらめいていた。おやすみなさい、あと、もうすこし。

 もうすこしで、あなたの名前が呼べそうに思えた。



 二月十六日 水曜日 天気 曇り

 家に一人で居るのも暇なので、彼から預かったままの日記帳を読もうとした。でも、電話が掛かってきて駄目になった。

 写真館からだった。あんなにおじさんが何度も撮り直してくれたというのに、現像された写真を受け取ることをすっかり忘れてしまっていたのだ。受取期限が明日までだというので、急いで取りに行った。おじさん、ありがとう。小さな紙袋に五枚ほど自分の顔写真が入っていた。

 無地の青色の背景に、私の顔が中央に写っていた。前を見据えているようで、空虚を眺めているかのようだった。瞳には光が宿っておらず、希望などちっとも垣間見えない。ぼんやりとした真顔は、私に転職活動をする意欲を削ぎ落していった。もっと口角をあげて、せめて唇くらいにこやかに居てくれればよかった。

 写真館の帰り、遠回りをして駅前の花屋に行った。ピンク色の薔薇を一輪買って、久しぶりに華那ちゃんの家に行った。華那ちゃんのお母さんに、薔薇を渡した。

 華那ちゃんの髪の色にそっくりだったから、と伝えたら、お母さんはそうねと笑っていた。骨壺のままの友達がいた。もうそろそろお墓に納骨してあげたいんだけれど、中々踏ん切りがつかなくて。華那ちゃんのお母さんの気持ちは、すごくよく分かる。

 お墓に入ってしまったら、華那ちゃんが本当に死んじゃったことを、嫌というほど実感してしまう気がした。それでも、華那ちゃんを喪ったことを、忘れずに、お母さんは着実に前へ進もうとしている様子だった。

 納骨の日取りが決まったらすぐに連絡をするので、そうしたら清二くんにも伝えてほしいとお願いをされた。もちろん伝える。つたえなかったら、華那ちゃんにきっとものすごく怒られてしまうだろう。


 みんな、みんなが明日やさらに先の将来に進んでいく。

 私も、早く次を目指さないと。

 本当にやりたいことを、見つけたい。

 世界を広げたい。

 ずっとこうしていたら、あっという間におばあちゃんになってしまう。後悔だけはしたくない。

 夢のない私が、夢みたいな楽しさを見つけられるんだろうか。

 ちょっと不安だ。



 二月十七日 木曜日 天気 曇り

 一日中、ゴロゴロしてた。本当に怠惰のかたまり。よくない。



 二月十八日 金曜日 天気 曇り

 失業保険の手続きのために、公共就業安定所に行った。どっと疲れてしまった。やる気が起きなくて、帰ってからは携帯電話を放置して、ずっとベッドに寝転がってた。見えなくなっていく。霞んでいく、何も分かんないや。私がしたいことを探せばさがすほど、魅力とデメリットを見出してしまう。そのどれもに心は爆ぜない。働かずに、億万長者になれたらいいのに、無理な話だけれど。

 なんとなく、精神が蝕まれている気がした。たぶん気のせい。

 もっと頑張れば絶対に、夢が見つかるはず!



 二月二十一日 月曜日 天気 忘れた

 寝てた。


「そんなだらだら生活してたら、駄目になるわよ。」


 母親が、夕食のきんぴらごぼうを口に運びながら警告をした。私をすっと見る目は心配と苛立ちが窺えた。


「分かってる。ちゃんと次の仕事も探すから。」

「まあ、ある程度好きにしなさい。あんたの人生なんだから。」

「でも、ちっともやりたいことが分からないの。」


 もしかすると良いアドバイスをくれるかもしれない、と期待を込めて、愚痴を言ったが、母親は適当な相槌をするだけで、明確な言葉で指し示してはくれなかった。幼いころのように教えてほしかった。

 これから私がどんなことを仕事にして生きて行けばいいのか。夢がない。なりたいことも、やりたいことも、ない。

 冬本くんも清二くんも、華那ちゃんだって、叶えたいことを実現するために奔走している。代わりに私の足元は、真っ暗闇だ。

 きんぴらごぼうはテカテカと輝いていた。甘じょっぱさが舌に広がっていく。ごぼうのシャキシャキ、人参はしんなり、白ごまは豊かに香る。


「おいしい。」

「でしょ。力作だもの。」


 夕食を終えお風呂に入り、部屋に戻った。濡れたままの髪の毛からはお湯が冷えて水となって、タオルに垂れていく。ひんやりとした室内の空気が頬や頭を通り過ぎていった。ピ、とエアコンのリモコンに運転の指示を出す。

 日記帳を手に取り、ベッドに腰掛けた。スプリングが小さな悲鳴をあげたけれど気にしない。だってもう十年以上の付き合いなのだから、お互いに余計な気遣いは不要だろう。


「十月十五日、木曜日。元恋人の連絡先を全員分削除した。夜、竜也と咲弥が俺の家にきて、三人でゲームをした。やっぱこいつらと遊んでるのは楽しいな。」


 十月十六日、金曜日。今日でもう一週間が終わっちまう。やたらとここ最近時間の流れを早く感じてしまう自分がいた。間中が数学を教えて欲しいというので、快諾した。今まで、どんな態度で彼女に接していたのか忘れてしまってめちゃくちゃ一人で意識してしまう。俺は、間中玲のことがやっぱり好きなんだろうな。


「間中玲のことが好きなんだろうな、だって。」


 足をじたばたさせ、日記帳を抱き締めた。彼の何気なく書き記した一文が、私の荒んだ心をひどく喜ばせた。ドラマの終盤、想いを通じ合わせた二人がキスをするようにときめきが溢れ返った。こんな姿の私を、母親は知らない。子どもと、親。列記とした繋がりがあっても、私達は、どこか他人行儀になっていく。それぞれが道を選び取って、進んでいく。私は、好きなように生きていく。みんな、そうだろう。


「私の人生なんだから。」


 見つけたい。揺るぎない、意義を。



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