オムライス
翌日、早速私は冬本くんの家に向かった。彼の家で立ち入ったことがあるのは、彼の部屋とリビング、そしてダイニング、お風呂場、洗面所、トイレだった。他の部屋にはもちろん一歩も入ったことはなくて、何度か来ているわりには家の間取りはさっぱり把握していなかった。
「おじゃまします。」
靴を揃えて脱いで、いつものとおりにソファーに自分のバッグとコートを置いた。
「昨日、大丈夫だったか?おまえ風邪引くんじゃねぇかって心配だったんだけど。」
「全然平気。帰ってからすぐにお風呂に入ったから。」
「そっか。」
良かった、と安堵したのか、口元をほころばせた彼に釣られて私も笑んだ。彼の大きな手のひらが私の頭をそっと撫でていく。小さな幸せが募っていくことに、途方もない歓びが生まれていった。いつまでもこうしていたいが、今は、それ以上にやるべきことがあった。
「お線香、あげてもいいかな。」
「ああ。」
ダイニングにぽつんとあった。彼のお母さんのお位牌がある。線香の煙がほんのりと部屋を彷徨っていった。
彼に案内され、二階にあがった。彼の部屋の向かいに二つの片開きドアがあった。
「親父の部屋と、お母さんの部屋。」
「そうなんだ。」
「どっちの部屋にも、俺は入ったことない。お母さんの部屋は、多分あの日のまんまなんだ。」
ドアノブを握る彼の手は小刻みに震えていた。長らく開かずの間と化してしまった。彼にとっては入りたくて、そして、どうしようもなくはいりたくない部屋となってしまった此処に、私は踏み入る資格をもらえた。特別なんだよ、竜也くんと咲弥くんが言ってくれた意味は。ああ、こういうことか。
「私で、いいの?」
最終確認をしたかった。私を本当に振り落とすのなら、これが彼にとって最初で最後となると思った。真っ直ぐに冬本くんのことを見つめる。冬本くんが私を見つめ返す。彼がドアノブをゆっくりと下に押して、ドアが開いていく。
「おまえじゃなきゃ、だめだよ。」
ふわりと甘い花の香りが鼻先を掠めていった。化粧台、ダブルサイズはありそうな大きなベッド、ベランダに繋がっている窓ガラス。三段タイプのチェスト。ベッドの横のクローゼット。調度品の全てが白で統一されていた。
一歩、いっぽ、忍んで足を進めていった。ちょうど手が、窓のクレセント錠に触れた時だった。後ろから、息が止まりそうなほどきつく抱き締められた。花の香りに混じる、彼のにおいがした。身動き一つすら出来なくなって、回された腕にぺちぺちと叩いて離してと訴えた。
「ごめ、…頼むあとちょっとでいいからっ。」
は、は、と彼の呼吸が荒くなっていた。
「くる、し…っ、ふゆもとく、んっ。」
恐くはない、けれどとても痛い、苦しくて、生理的な涙がつうと頬を伝って、彼の皮膚へと染み込んだ。ゆるりと腕が解けていき、肩口に彼が顔を埋めた。
「わるい、取り乱した。ごめん、痛かったよな。ごめん。」
彼の限りなく不安定で、放置されてきた部分。
中学三年生のまま、止まった時間がここにはあるんだ。私は赤の他人なんです。向き合うなんて大それたことはできないけれど、そもそもその資格すらないと思われるだろうけれど、私は彼のことを心の底から想っていて、好きですきでたまらないから。愛されていたかった彼を、助けてあげられなかったと啼いた彼を、支えてあげたい。
「大丈夫、だいじょうぶだよ。私は生きてる。ここにいる。どこにも置いていったりしてなんてあげないんだから。」
クレセント錠を開けた。一人でベランダに出ようとしたのだけれど、絶対に駄目だと彼が言ってきかないので、二人で一緒に風を、太陽の光を浴びた。ベランダの柵の方には近寄らないように努めた。
「お母さん、白が好きだったのかな。」
「…わかんない。」
ベランダの中央でへたり込む彼の前でしゃがみ込んで、膝立ちになった。彼の頬に両手を添えて、ゆっくりと上へ、私を見るように仕向けた。
今にも泣きそうな顔をしたあどけなさの残る苦笑。こんな時にまで格好良い冬本くんで居なくたっていいのに。私は、呆れ果てて、思い切り抱き締めてあげた。彼が飽きてもういいよって言うまで、ずっとそうしてあげたかった。
「まだスタート地点に立ったばかりじゃない。しっかりしてよ、もう。」
「ごめん。」
「泣いたっていいんだよ。私だけしか見てないもん。」
イケメンが泣くのは、私としては眼福だなあ。茶化した台詞を聞いた彼が、乾いた笑い声を上げて、それは次第に呻きと嗚咽に成り果てていった。
「おおきな子どもみたい。」
よしよしと背中を摩る。あなたが以前そうしてくれたように。あなたがここから消えてしまわないように。
私の手のひらじゃ、あなたのことを守り抜けないかもしれない。だけど最後まで頑張るから。片想いを十年超えてしてきたんだから、命以外の全部捨てる覚悟はもうとっくにあるんだよ。
冬本くんが日記に綴っていた言葉が、文字が、頭の中を翔けていった。風が吹く、ぶわりと私の髪の毛を、彼の黒髪を、巻き上げていった。
「子どもは風の子なんだから、めっちゃ無敵なんだから。」
どれくらいの時間そうしていたのか、どうだっていいか。
あなたが泣き明かす、昼間。
空は晴れ渡ってた。
風は舞っていた。
私は待っていた。
あなたが涙を枯らして、鼻水を啜りながら、私を見た。
潤んだ瞳は純真で、とっても、格好良かったよ。
手を繋いで、枠を飛び越えた。
クレセント錠を、かちりと閉めた。
一月二十九日 土曜日 天気 雨
一歩前進したのはいいけれど、それから私達は何だかんだ予定が合わずに、彼のお母さんの部屋に入ることは無かった。
今日は彼に予定があったので、私は大人しく家で過ごした。そろそろ失業保険の手続きにも行きたいのだが、生憎雨なので後日にすることにした。調べると証明写真が必要とのことだったので、今度撮ろうと思う。
写真館で撮影してもらうと彼に伝えると証明写真の機械が駅とかにあるじゃん、って言われた。でも、写真館にする。
一月三十日 日曜日 天気 曇り
今日は写真館に行ってきた。証明写真用に撮影してもらった。思えば高校受験も大学受験も、就職活動の時も、この写真館で撮った。ぱしゃん、とシャッターが切られる瞬間、フラッシュの光がチカチカとして何回も目を閉じてしまった。もう一回撮るね、おじさんのあの言葉五回は聞いたと思う。
一月三十一日 月曜日 天気 晴れ
彼の家に行った。二人で、お母さんの部屋に入った。
今日は化粧台の中を一通り見ることにした。
持っている化粧道具は全て同じブランドの物で統一されていたし、選ぶ色味は上品なカラーばかりだった。あと、ピンクの系統が好きだったのかも。見ていると心がウキウキした。でも、この化粧道具の持ち主はもうこの世のどこにもいなくって、使われることがないのだと考えると急激に空しくなった。
化粧台の上には、使いかけの化粧道具が散りばめられていた。蓋がほんの僅かに開きっぱなしのチーク。オレンジとコーラルピンクが混ざり合った可愛らしい色をしていた。
引き出しの部分があって、そこにはアクセサリーを入れている箱が幾つかあった。ハートのかたちをした小箱には、指輪が入っていた。大粒のダイヤモンドがついた指輪。内側には、刻印がされていた。
彼のお母さんと、お父さんのイニシャルのようだった。
この続きはまた今度にしようと彼が言うので従った。多分、長時間は居られないのだと思う。無理をしてもロクなことにはならないし、彼のペースに合わせるのが最優先事項だ。それからはリビングのソファーで寛いだ。すっかり居心地のいい場所になってしまって、帰りたくなくなってしまう。彼が私の肩に寄りかかって、そのまま寝ちゃった。私はぼんやりと天井を見てた。
一人で、戸建物件に住み続けることって、きっとものすごく寂しかったんじゃないだろうか。日記を読んだとおりだと、彼のお父さんは仕事の都合で、基本的にアメリカや海外で暮らしている。彼はあまりお父さんのことを良くは思っていない様子が窺えた。敢えて、そのあたりは触れていなかったけど、喧嘩になってもいいから、機会があったらちゃんと聞いてみたいと思う。
夜ご飯も一緒に食べた。ファミレス。彼はオムライスを食べてて、私はマグロの漬け丼にした。でもデザートも食べたくて、チョコレートのパフェを頼んだ。確実に太る。ダイエットもそろそろしないと、お腹のぜい肉がやばい。夏までには五キロは最低でも痩せないと…。
パフェは二人で分けて食べた。甘いものは好きらしい。生クリームは苦手みたいで、チョコレートアイスの部分とかを好んで食べてた。この分ならヴァレンタインデーのメニューには困ることが無さそう。
二月十三日 日曜日 天気 曇りのち雨
お母さんと一緒にスーパーへ行った。会社で有休休暇の消化を勧められているらしくて、今日は休みなんだって。明日がヴァレンタインデーだったので、私はお菓子作りの材料を買い出しに、お母さんは一週間分の食材を調達した。散々悩んで、ほとんど失敗しないであろうガトーショコラを作ることにした。
ラッピング用品も購入して、帰宅。そこからちょっとだらけちゃった。
夕食を食べてから、作り始めた。
結構、上手くいったんじゃないかな。
冬本くんが喜んでくれるといいなぁ。
二月十四日 月曜日 天気 晴れ
映画を観た。恋愛映画。先生と生徒のよくあるラブコメだったんだけど、ウルウルきちゃって私だけ終盤泣いてた。エンドロールが終わるまでちゃんと観てくれるタイプの人なの最高だなぁ。でも、劇場出たあとに泣いてるのを弄られたので、イラっときた。
お昼ご飯どうしようかという話になって、急に彼が私の手作り料理が食べたいって言いだした。
「何がいいの?」
「オムライス!」
スーパーに寄ってオムライスの材料を買った。彼が荷物を持ってくれていたが、鼻歌混じりに浮かれたように歩いていた。可愛い。
「作るから待っててね。」
「うん、分かった。」
やった、とガッツポーズをして帰ってきてからも彼は上機嫌のままだった。ソファーに大人しく座って携帯電話を弄っていたりした。私は、少し緊張気味にキッチンに立った。人様の家で、料理をするのは非常に慣れない。まず、包丁とまな板がどこにあるのかすら分からない。彼に収納されている場所を教えてもらい、スタート。
「はい、お待たせ。」
テーブルにオムライスの載ったお皿を置くと、彼は瞳を輝かせて、めちゃめちゃ美味そうじゃんと言ってくれた。卵の上のケチャップ、ハートマークにしようか考えたけど流石にこの年齢でそれはないかとやめておいた。彼氏に、それも好きな人に、手料理を食べてもらうなんて初めてで、彼の味の感想がひどく気になってしまった。俯きながら、不味かったらどうしようどうしようと内心焦っていたけれど、杞憂に終わったのでよかった。
「めちゃくちゃ、美味いんだけど!」
ぺろりと平らげてくれて、すごく嬉しかった。洗い物にも精が出る。あ、とそこでガトーショコラの存在を思い出した。
「ねえ、冬本くん。」
「ん?」
ソファーの端っこ、バッグとコートを私が置いているスペースがある。コートの下に隠しておいた茶色の紙袋を取り出して、はい、と彼に渡した。
「ヴァレンタイン。」
気恥ずかしくて、私はそっぽを向いてしまった。こういう時は、きちんと彼の目を見ていうべきだと頭では理解しているのだけれど、身体は正直にできているのだ。恥ずかしさの方が、勝ってしまった。
「これ、玲の手作り?」
「うん。あ、でも、不味いかもしれないから、まずかったら直ぐに捨ててくれたら…。」
「そんなこと出来るわけねぇじゃん。わぁ、まじか。すっげえ嬉しい。」
ガトーショコラも美味しいと食べてくれた。彼の口の周りに、チョコレートが着いていたから、クスクスと笑って、ティッシュで拭いてあげたら、手首を掴まれてそのままキスされた。
「真っ赤。」
まだ慣れねぇのかよ。そう言って、もういっかい。
「ありがとな。」
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