おしまいとはじまり
目が覚めると時刻は十二時近くだった。
寝ぼけ眼でソファーを降りたら、足元がおぼつかず転びそうになる。わ、と声を上げるのと、彼が私を抱きとめてくれるのはほとんど同じタイミングだった。
「髪の毛、ぼっさぼさ。」
それが寝起きの女性に対して言う台詞なのだろうか。冬本くんはデリカシーが欠落しているのではないか。イラっとしたので、手を伸ばして彼のほっぺを、強めに抓った。
「いっ、た。何すんだよ。」
「乙女心の分からず屋。」
乙女心、と言って咄嗟に思い出した。
そういえば今の私はとても駄目な状態なのではないだろうか。寝起き、髪型ボサボサ、おまけに化粧を落とさずに眠ってしまった。やばい、これは、しかも今一緒に居るのは片想いをしている人で。それで、こんな、そんな。
「終わった…。」
可愛さの欠片もなくなった姿を晒してしまったショックと、でも、態度の変わらない彼になんとない期待を寄せる自分がいる。陽光が、窓をすり抜けて私達をゆったりと照らしていた。
「もう少ししたら帰るか。」
「かえろっか。」
これ以上、一緒に居る理由はみつけられない。
唐揚げ弁当も朝食も昼食も食べ逃した。
冬本くんの家に泊まることになり、夜を明かした。
私はソファーで、彼はダイニングの椅子で寝ていたみたいだった。ベッドで寝てていいのにって言ったら、おまえがソファーで眠ってんのにそんなこと出来ないだろ、と返された。変なところで律儀だ。
家に帰ってシャワーを浴びた。携帯電話に清二くんからメッセージが届いてた。
明日の夕方の便でアメリカに戻るそうだ。私は出発する空港と、便を聞いた。すぐに返事はきたので、私はその画面をスクリーンショットしておいた。
会社を辞めてから、どたばたしっぱなしだ。こんなに私の人生、刺激まみれだっただろうか。
明日こそ、国民健康保険と国民年金。役所に行かなきゃ。そして、友達が好きな人を見送るんだ。
「以上で手続きは終了です。」
国民健康保険と国民年金への切り替え手続きは、ものの十数分で終わってしまった。
役所には大勢の人が居て、窓口が大量にあった。自分がどの課の窓口へ行けばいいのか、事前に調べておいて良かった。
てきぱきと書類を出され、必要な個所を記入して、はいでは後日保険証が届きますからねと、では後日納付書が届きます、と定型文のようなことを言われた。
一先ず、退職後に役所でするべきタスクが完了したので、ほっと胸を撫でおろした。
「まだ時間に余裕ありそうだなぁ。」
此処から空港までは二時間ほど掛かる。電車が急遽遅延したり運転見合わせになる可能性も捨てきれないので、私はそのまま空港へ向かうことにした。
がたんごとん、がたんごとん。電車に揺られて、ぼんやりと広告を眺めた。転職、転職、美容外科、整形するなら、などなど。まあまあ偏った広告内容だけれど、転職の文字がやけに気になってしまう。
次の仕事何にすればいいんだろう。夢もない、やりたい仕事もない。でも、時間は無情に過ぎ去っていく。
私アメリカに行ってネイルサロン開くんだ!
爪にたくさんの色や飾りがともると、幸せになれるじゃん。だから、ね。
彼女の将来を語らう声が、脳裏で木魂していった。
空港に着き、メッセージを送信する。清二くんが居る場所を教えてもらい一直線に歩いた。保安検査場の前にある椅子に腰かけ、こちらに手を振る清二くんの姿が見えた。
「玲さん。」
「清二くん!」
清二くんの隣に腰掛ける。わざわざすみません、見送りなんて。そんな、私がしたかっただけだから。彼の薬指には、シルバーリングが嵌ったままだった。
「僕、アメリカに戻ったらネイルサロンを開こうと思うんです。」
「…そうかあ、うん、いいね。」
静かに清二くんは喋る。それは私に向けられたというよりも、ここには、この世界にはいない誰かに宛てられた言葉に聞こえた。
「僕がしてあげられることってなんだろうって考えて。でも、それは単なるエゴだってことも分かってるんです。もしかしたら華那ちゃんはそんなことを望まないかもしれない。」
無言で耳を傾ける。それだけ、それしか、それでいいよ。
「でも、玲さん言ってましたよね。」
「私?」
「はい。もしもの話なんて、報われないだけだよって。だから僕は、僕がしたいことをする。彼女のご両親は僕を自由にしようと必死だったけれど、僕は、やっぱり彼女を想うことをやめられないから。」
「うん。」
「僕らは似てますね。」
「そうかな。」
「ええ、僕も怜さんも好きな人を全然諦められない。」
「ははっ、そうだね。」
会話が一瞬千切れた。そして、清二くんが唇を動かすことで再び繋がっていく。
「玲さん、ありがとう。」
あなたが居てくれてよかった。
清二くんは金色の髪をふわりと揺らして、頬を綻ばせた。釣られて私も笑った。
華那ちゃん、あなたの恋人は、あなたが好きになった理由が分かるような心の透き通った人だね。ビビットカラーのピンクをした髪が、青空に映えるみたいに。華那ちゃん、私にこの出会いをくれてありがとう。
「どういたしまして。」
十二月九日 木曜日 天気 快晴
午前中に役所での手続きを済ませて、そのまま空港に向かった。
出発する便まで時間はあったのに、清二くんは私が到着する時点には、既に空港のベンチに座ってた。清二くんの生活の拠点はアメリカだから、日本には、居場所がほとんどないって自嘲気味につぶやいてた。でも、これからは違うよ。否定をして、私は頷いたんだ。
私と清二くんは唯一無二の友達になった。海を越えた友情なんて、エネルギッシュでいて嬉しい。心が躍っていく。
それからは二人して雑談を繰り返した。アメリカに戻ったら清二くんは、華那ちゃんの夢を花開かせていく。清二くんがすべきことは山ほどあるんだろうな。私では想像にもつかない。いつかアメリカに行って、ネイルをしてもらおう。約束はしなかった。会いに行くねとも言わなかった。それでも、私達は笑い合ってた。
保安検査場の中に吸い込まれていく清二くんの背中をじっと見つめて、豆粒になっても目を凝らしていた。完全に見えなくなってしまって、帰ろうと決断をした。メッセージに、また会いましょうと来ていたので、私は、また会おうねと返事をした。
シルバーリングが煌めいた。
私は一瞬間だけ目を閉じた。
開けたら、最後。
走馬灯のように彼女との記憶がぶわっと溢れかえって、喉の辺りがつっかえる。
苦しいのに、どう処理すればいいのかが分からなかった。
空港のガラス張り、飛ぶ機体。
遠いとおい向こう側。
清二くん。
華那ちゃん。
どうか、報われますように。
「八月五日、夏休み突入。宿題は楽に終わったけど、夏休みのほとんどがバイトになりそう。そういや間中はおわったのかな。あいつのことだから、躓いてそう。」
彼の日記を読み始めると時間はあっという間に流れていった。朝から晩まで、寝る間を惜しんで声に出して読んだ。
冬本くんが過ごして、何かを感じていた日々を、私は追いかけて、なぞっていく。必死に対峙していく。この行為に意味や価値があるかも分からずに。それでも、古い思い出に、新たな色が差し込まれていくようだった。
私と彼。彼と私。決して相容れない細胞らは共鳴して、沈んで、浮遊していった。
「八月十五日、お母さんのお墓参りに行った。俺だけでいった。親父は、親でもお母さんの旦那でもどんどんなくなっていく。俺は呆れて、ムカついて、キレそうだった。お母さんが死んでから親父は変わっていった。俺に会うことを避けてる。お母さんと、会うことすら拒んで、逃げるようにアメリカに引っ込んでった。お墓には花を供えた。線香も。からっぽの家で、俺ひとり生きてる。」
八月三十一日、書くのを随分忘れてたわ。今日で夏休みも終わり。咲弥と竜也と夏祭り行ったり、キャンプしたりした。海とプールも行った。日焼けしちまったけど、ま、放置しとけば元に戻るだろ。あー楽しかった。明日から学校、だるいけど、家にずっといるよりいいや。
九月
文化祭でやることを決めた。俺らのクラスは、ホットドッグを売るらしい。俺は当日呼び込み係になった。
十月
文化祭もあっという間に終わった。なんか、こういうのやるとやっぱ高校生になったんだなって実感湧くかも。ホットドッグは結構序盤に完売してた。教室の内装とか女子はすごく拘ってたし、当日の気合の入れ様はすさまじかったな。間中は、あんま変わんなかったけど。
文化祭でカップル成立してるとこ、まあまあいて、青春だなーって思った。
俺には、まぶしいや。正直、誰かを特別に思うことはすげえ怖い。
十月十四日 水曜日 天気 晴れのち雨
放課後。帰るときに雨が降ってた。
俺は傘を差して駐輪場まで歩いてたけど、間中のやつは傘差さないであるいてた。わあ、って声出しながら、あいつのスカートとかローファーとかブレザーとか、ぜんぶ濡れてった。
俺は止めたんだ。傘差せよって大声で警告したのに全然聞く耳を持たなかった。
俺の方を、振り返って、笑うあいつが、すごく、すげえ生き生きしてたんだ。俺は泣きたくなってたまらなかった。
おもわず手を伸ばしたくなった。
俺の過去を全部吐き散らして、受け止めてほしいって初めて思った。
どうして間中なのか、分からないんだ。
だけど望んだ。
髪の毛の先まで濡らして、それでも大丈夫って言い切るおまえが。
いいなあ、って思った。
あいつは俺の家の事情なんて知らないから、ただの興味本位で聞いてきたんだろうけど、好きな食べ物の話はしんどかった。
鶏の唐揚げ、美味しいよなって同意したかったのに、それはとても口にはできなかったんだ。
俺もよく小さいころお母さんに作ってもらった。お母さんの作る鶏のから揚げはめちゃくちゃ美味くて、ごはんおかわりして、美味いって素直に伝えるたんびに、笑って喜んでくれてた、あの光景がまざまざと甦った。
お母さんが、生き返るみたいに、感じて、吐き気がするんだ。
死んでる人に生き返って欲しいってなって、不老不死の研究やアンドロイドを生み出す架空の科学者の気持ちに今なら励ましさえ言える。俺だって喪いたくなんかなかった。
なんで飛んだんだよ。なんで、死んじまったんだよ。
俺は今日もコンビニ飯を、美味いような感覚で食べる。だって食べなきゃ死んじゃう。俺はまだ、まだ、生きていたい。
「とりのからあげ、たべてぇなあっ、…っ。」
無意識に彼を傷つけていたことを、今になって知る。やはり、そうだったのかと自分の浅はかさを責め立てる。
私は無邪気さを振りかざして、自分の当たり前を相手に押し付けていたんだ。首筋に刃をそっと当てがって、喜んでいる、鬼のようだと思えた。
両親が揃っていること。家族が生きていること。家族が一緒だから幸せだなんて保証はどこにもないんだ。
一般、普通。
言葉では説明し難い枠組みを作って、そこに大勢の該当者を当て込んでいる。
幻想を抱いてはいけない。誰だって喪う痛みを抱えて、なにか秘密を背負っている。血肉を蝕むように競り上がる慟哭に怯えている。人間関係に悩んでいる。
高校生だって、若いって、だからって、関係ない。
私は今すぐに冬本くんに謝罪をしたくなって、居ても経ってもいられずに躊躇なく電話を掛けた。
数回コール音が鳴って、彼が応答してくれた。よかった。よかったあ。
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、わあああああん。」
「え、どうした。」
開口一番の謝罪と嗚咽は、彼を非常に困惑させた。今何処にいるんだよ、家だよ、すぐ行くから待ってろ。わかった、の途中で電話はぷつりと切れた。
それから時間が経って私の携帯電話が着信音を部屋に流し出した。慌てて、通話ボタンをタップする。受話器に耳を押し当て、はい、と一言。
「着いた。」
それはそれはドラマチックな展開、瞬間。階段をバタバタ。盛大に床を軋ませながら駆けた。サンダルに、裸足で突っ込んで、玄関ドアを開けて、まっすぐに、ただ走った。
彼にしがみつくように抱き着いた。走り幅跳びをして身体ごとクッションに沈んでいくような感覚だった。逞しい腕が私だけを抱き締めてくれた。
鼻水もたれてるし涙で顔はきっとぐちゃぐちゃ。メイクもしてない、適当な部屋着を着てるのに、そんなことはもう気にも留めなかった。彼は赤ちゃんをあやすように、背中をゆっくりと摩ってくれた。
「ごめんなさい。」
「…日記?」
「うん。」
「どこまで読んでくれたんだ。」
「私が、唐揚げのはなしした日のこと。っ、なんにも知らなくて、だからって許されるなんて思わない。だから、ほんとうに。」
「やだ。」
「っ、じゃあ、どうすればいい。」
どうしたら許してくれる?
懇願するように、彼を見上げた。映る、格好良い顔。彼が瞳を狭め、ほほ笑んだ。
「狡いこと言う。それでも、いいか?」
「いいよ。冬本くんだから、いい。」
私は相当この恋に、ほだされている。
「今から俺が言うことをただ聞いてほしい。」
俺が、玲に近付いたこと。最初はただの本当にお節介で善意のつもりだったんだ。
最初は本当にただのクラスメイト、友達くらいかなって思ってた。
放課後の数学教えることだってしゃべるのだって俺はすげえ楽しかったよ。
小テストで、おまえが良い点数取れたのは俺のおかげだって言ってくれたときは嬉しかった。
俺、でも、あの日、おまえが今謝ってくれた好きな食べ物の話をした日、雨にずぶぬれになってたとき、気が付いたんだ。
俺は、もしかしたら玲のことが好きなんじゃないか、って。
そう思ったら、こわくなった。不安で、上手く感情のコントロールが効かなくなった。
離れたいしはなれたくない。
俺は、好きになってた、確実に。
だから卒業式の日、おまえが俺に告白してきてくれた時は心の底から嬉しかったんだ。
でも、でも受け取れなかった。返せなかった。俺も好きだって。
「怖かった。うしなうのが怖くて仕方ないんだ。手にしたら、ずっと手放せなくなるし俺はきっと玲に寄りかかっちゃう。玲が、死んじゃうかもしれないって、お母さんみたいに遠い会えないとこまで行っちゃうんじゃねぇかって。考えたら、言えなかった。逃げようってガキだから俺は、おまえから背を向けた。」
だから本当に謝るべきなのは俺の方だ。
ごめん。
ごめん、玲。
ごめんなさい。
「いいよ。」
自然と私は笑顔になっていた。彼も釣られるように笑みを深くしていった。私は、すう、と息を吸い込んで、吐息に変えていくように紡いだ。もう一度、今からなら、始められると思った。
「冬本くん、あなたのことが好きです。」
「俺も、玲のことが好きだ。」
私達は好きと恋を分け合えた。
夢みたい、嬉しくてうれしくって、喜びが身体中を突き抜けていった。
十二月十四日、冬本くんに告白をした。
冬本くんも、私のことを好きだって言ってくれたよ。
ぎゅうって抱き締めて、だきしめられた。
幸せになっていこうね。
うれしいから、キスはできなかった。溢れかえってしまって、もう無理だよってつぶやいたら、彼は、なんだそれって笑い飛ばしてくれた。
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