金色の稲穂


 十二月五日 日曜日 天気 晴れ

 十二月四日、幼馴染で友達の華那ちゃんが死んだ。こんなことを書く日が来るだなんて思いもしなかった。なんて言えばいいのか分からない。喪服を着て、斎場に向かった。焼香が済んでから、通夜振舞を。帰る前に清二くんが来ていないことを不思議に思って、お母さんに伝えたら、華那ちゃんのご両親が凄い形相で食いついてきた。怖かった。

 聞けば、華那ちゃんは、交通事故に巻き込まれて死んじゃったらしい。車同士の追突事故だそうだ。華那ちゃんが運転をしていて、事故の原因となったのは相手側の運転によるものだった。救助する際には既に心肺停止が確認された。話を聞いていて、目の前がくらくらした。携帯電話に残されたやり取り、メッセージの一番最後には、華那ちゃんが清二くんに宛てたものがあった。あと五分で着くからねー!

 清二くんはこのことを、知っているのだろうか。華那ちゃんが死んじゃったって。



「ん…。」


 明け方、自室の窓をこつんこつんと何かが叩くような音がした。

 恐る恐る、窓辺に近付くと、不定期の間隔ではあるが丸っこくて硬い物がガラスに当たっている。それは自然が呼び起こすものではなく、人為的なものと直ぐに察した。


「誰よ!」


 不審者を警戒する番犬の気持ちで勢いよく、窓を全開にして、外へ向かって怒鳴った。

 金色の髪が、まだ暗い空の中に、よく映えていた。


「…っ、清二くん?」


 清二くんがこちらを見上げ、手を振っていた。

 ダウンジャケットを羽織って、玄関を飛び出た。裸足にサンダル、足先からどんどん冷えていくのも、前に朝のゴミ出しで散々経験していたくせに、同じ間違いを繰り返していた。


「お久しぶりです。」


 ずび、ずびっ。清二くんが鼻を啜って震える声音でつぶやいた。私は、出来得る限りの優しさを持って、言葉を選んだ。


「大丈夫?」


 背伸びをして、清二くんの頭を撫でた。道に迷った幼子のように、心細そうな顔をしていたからどうしても放っておけなかった。くしゃっ、くしゃ。金色の髪が明けの色を潜めた藍に飛び散った。実り切った稲穂のようだ。星屑にそっくり。


「玲さん、僕、ぼく…!」


 せいじくん、名前を呼んだ直後だった。清二くんは私を抱き締めたのだ。興奮した様子で、力強く抱いた手は私から一切離れようとしなかった。せいじくん、くるしいよ。肺が圧し潰されそうだった。ぎち、ぎちと、身体から変な効果音が鳴っている。気のせいにしておこうかと思ったけど、無理だった。息が、出来ない。


「っ、ごめ、ごめんなさい。」


 ばっと清二くんが退いた。私達には数歩分の空間が出来上がった。生理的に流れた涙を拭って、ううん、平気だよと嘘を吐いた。


「…華那ちゃんが死んじゃった、って。」


 清二くんは事実確認に来たのだ。私に、彼女が亡くなったことを聞きにきてくれた。

 精一杯に平常を装っているつもりなのだろうが、清二くんの言葉には生気が感じられなかった。

 まだ夜が蔓延っているせいではなく、顔が、青白かった。ちゃんとごはんを食べて寝ているんだろうか。不安になり、近寄った。でもその分、清二くんは後ろに下がる。


「本当だよ、清二くん。」

「迎えに来てもらってたんです。待ち合わせは駅で、あと五分で着くっていうメッセージからいつまで経っても、華那ちゃんから連絡が無くて。いつの間にか携帯の電源切れてるみたいで、電話も通じないし、メールも何通送っても返事来なかったんです。救急車のサイレンがけたたましく鳴ってて、パトカーも集まってきてた。道行く人が、近くで事故だってさと言ってて。途端に、予感みたいなものが背筋を這っていって、怖くなって不安でたまらなくなって急いで華那ちゃんの家に向かいました。でも、家は真っ暗だった。僕、華那ちゃんが予約してくれたビジネスホテルに泊まってるんです。だけどその日はチェックアウトをして、アメリカに帰るのはまだ先だけど、それまでの間は、華那ちゃんの家に泊まる話になってた。将来のことを、ご両親にお話ししなきゃって…。」

「うん、うん。」

「華那ちゃんから連絡があったんです。華那は亡くなりました、あなたとお話がしたいです、って。それは華那ちゃんの携帯からご両親が送った僕へのメッセージでした。僕、ぼく、返せなかった。だって、前日だって、キスもしたしハグもした。華那ちゃんと、アウトレットに出掛けたんです、お揃いのキャップ買って。はなちゃん、はしゃいでた。」

「清二くん。」

「玲さん、本当に、ほんとうにほんとうにほんとうに、華那ちゃんは。」

「死んじゃったんだよ、華那ちゃんは。」


 清二くんに死という言葉を言わせたくなかった。

 私も、目一杯のいつもどおりを作り上げたが、清二くんよりもひどい有様だったと思う。かなり引き攣った笑顔、掠れた声、手のひらをこれでもかと握り締めている。私は、演技が下手くそだ。


「華那ちゃんのご両親が、清二くんを探してるみたいだった。」

「っ。」

「会いに行ってあげないと、いけないんじゃないかな。」


 ぶるぶると首を横に振った清二くんは、会わせる顔が無いと嘆いている。


「じゃあ、このままアメリカに帰っちゃうの?」


 もう一度、彼はおんなじことをした。


「それじゃあ。」


 会話を続けようとするけど、清二くんは、俯いたままちっともとこちらを見ようとしなかった。

 恋人を喪うという絶望を、私は分けてもらえない。分けてもらったところで、清二くんを助けてあげられなかった。

 解決策が思い浮かばず、立ち尽くす。とっぽけな私達の存在。それでも生きていることが、摩訶不思議で奇跡的のようだった。


 太陽は無惨にも、昇った。



 十二月六日 月曜日 天気 晴れ

 明け方、多分四時過ぎくらいだったとおもう。窓に当たる音が何回もして起きた。ホラーゲームを実体験してる気分。廃墟とか以前は人が住んでいた屋敷に言って探索するような、よくあるホラーゲーム。

 窓を開けたら、って変な妄想が働いて眉を潜めた。こつん、こつん。ばっ。

 怒鳴り散らしちゃった人は、清二くんだった。申し訳ない…。

 私に会いに来た。

 事情を聞いたけどやっぱり一度、ちゃんと華那ちゃんのご両親に会いに行くべきだと思う。だけどあの状態の清二くんでは今すぐには難しいかもしれない。

 我が家に泊まってもらうのも手だけど、お母さんに相談したら駄目だと言われた。何があるか、分からないでしょう、って。付き合っていて相手のことを良く知っているなら別だけど、と。お母さんにしては、すごく力の篭った理由だった。

 殆どのことにあっさりとした答えだったから、いいんじゃないって言われるかと思っていた。でも、安心もした。頼りがいのある母親だな。この人は、家を守ろうとしているんだ。親なんだ、って実感した。

 ビジネスホテルの予約はもう満杯だったので、清二くんは、今日は適当にネットカフェで過ごすことになった。私達は連絡先を交換してバイバイした。

 太陽の光が非情だった。だから、私はミルクココアを作って一気に飲み干した。



 十二月七日 火曜日 天気 晴れ

 清二くんと駅で待ち合わせをして、華那ちゃんの家に向かった。

 歩いている最中、何度か清二くんが足を止めてしまうので、行こうとその都度促した。それでも進まなくなってしまったとき、清二くんが怖いと言った。アスファルトに垂れ流された、こわい、をしっかり拾い上げて掴んだ。


「大丈夫。」


 清二くんの手をぎゅっと握った。このまま、此処で蹲っていても事態は好転することはなかった。

 今は、突き進んでいくことしかできない。私達は英雄でも勇者でもない。ただの一般庶民だ。世界の端っこで、今日も息をして、死に怯える、そういう人でしかいられないんだ。

 清二くんの気持ちは、十分に伝わってきた。

 私が清二くんの立場であったなら、同じように感じるだろう。恋人の両親に会うだけなら大したことはない。でもそれはお互いが生きていて、前向きな状況だったらという場合だけ。華那ちゃんは死んで、彼は遺った。死という壮大で、陳腐で、虚無な世界にぽつんと独りで佇む彼は、自責の念に飲み込まれていく。私の好きな人が、助けてあげられなかったと嘆いたように。

 私達は英雄にも勇者にも、なれない。


「僕があの日、華那ちゃんに迎えに来てもらわなければ、彼女はまだ生きていられたんだ。」

「清二くん。」

「僕が、ぼくが、華那ちゃんに…っ。」

「もしもの話は、報われないよ。」


 手を繋いで、歩いて、なんとか華那ちゃんの家に到着した。

 華那ちゃんのご両親は快く迎え入れてくれた。骨壺の姿に成り代わってしまった彼女へ、手を合わせた。清二くんも、合掌をし、嗚咽を漏らしていた。


「宮本清二です。」


 華那さんとは交際をさせていただいていました。

 華那さんと共通の友人がいて、食事会の時にたまたま出会ったんです。初対面でも彼女はとてもフランクに接してくれました。それから二人で出掛けるようになって、気が付いたら、その、僕は恋をしていました。

 僕は、華那さんのことが好きです。

 たまらなく、っ、すきなんです。

 ごめんなさい。

 ごめんなさいっ、ごめ、っ、ごめんなさいっ。


「僕が、っ、ぼくがあのひ、はなちゃんに迎えに来てもらうことがなかったらっ、ぼくが…。」


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 清二くんは真剣に泣いていた。清二くんの言葉を聞き届けながら、華那ちゃんのご両親は無言のままだった。暫くの間、家全体は清二くんの涙する声だけが響き渡っていた。


「君が、華那と付き合ってくれただけで、私達はもう十分だよ。」

「ずっとあなたとお話したいと思っていました。華那のこと、ありがとうね。」

「っ、は、い。」

「あなたに、伝えたかったの。直ぐに、どうしてもこれだけは、きちんと言わなきゃと思って。」

「ちゃんと前に進んでいこう、宮本君。私達も、娘のことを、想い続ける。だけど、君は進んで、人生を歩んでいってほしい。」

「そんな…。」

「君が悪いなんてちっとも私達は思っていないんだよ。ただ、華那が亡くなったことに、君が囚われてしまわないように。」


 それだけだ。

 華那ちゃんのお父さんは、双眸に涙を溜めながら朗らかに微笑んだ。そうね、そうよ。同意をしたのは華那ちゃんのお母さんだ。私は三人のことをじっと見届けるだけだった。ちらりと彼女のお母さんが私に目を遣って、玲ちゃんもありがとうねと感謝をしてくれた。でも、ちがうよ、華那ちゃんのお母さん。


「私の方こそ。…華那ちゃんを産んでくれて、ありがとうございます。」


 清二くんはご両親にお願いをして華那ちゃんの部屋を見せてもらうことになった。私は、彼の行動を邪魔したくなかったので、そのままただ椅子に座って待った。

 その間に、ご両親と色々な話をした。華那ちゃんとの思い出を並べて、笑い合った。

 キャンプ、地元のお祭り、プール、海、釣り、遊園地に動物園。水族館に行ったことも。


「玲ちゃん、お通夜の時は取り乱しちゃってごめんね。」

「あ、いえ。仕方ないことだと思いますから。」

「宮本くんと、すごく会いたかったんだ。私達じゃ、連絡先を知らないから。華那の携帯からメッセージを送ってみたんだが、返信がこなくって。」

「玲ちゃん、彼と面識があったのね。」

「華那ちゃんが、初めて彼氏を紹介してきてくれたんです。私とてもびっくりしちゃいました。きっと、好きだったんですね。清二くんのことが。」


 華那ちゃんの死に、ご両親はこれから先も寄り添っていくのだろうか。時は、追い越していくばかりで、親切に止まってはくれない。何度も季節を巡らせて、華那ちゃんが生きていた日々を遠ざけていってしまうものだ。もう、私も、華那ちゃんと話すことすら出来ない。今まであった当たり前の存在が、過去になった。


「本当に、死んじゃったんだ。」


 骨壺を凝視し、独り言をぼやいた。

 本当に死んでしまったんだね、華那ちゃん。



「長時間、お邪魔しました。」


 すっかり元の状態に戻った清二くんは、ご両親に深々とお辞儀をしていた。ありがとうございます。感謝を添えていた。

 帰る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。清二くんは、駅までの道が分からないと言うので送ることになった。二人で華那ちゃんのことをずらずらと喋った。

 清二くんが知らない華那ちゃんのこと、私が知らない華那ちゃんのことを、自慢大会みたいに話していった。寂しくはあったけれど、不思議と悲しくはなかった。最終的に二人して頷き合うのは、彼女の笑顔は最高だってこと。ただ、それだけ。


「そういえば、どうなったんですか。」

「どう、っていうと。」

「好きな人のこと。華那ちゃんもすごく心配してましたよ。」

「分からない、ぜんっぜん。」


 空を見上げて答えると、清二くんはつまらなそうにそうですかと言った。今、つまんないなあって思ったでしょ、指摘すると、さあ、と清二くんは意味深に口の端を持ち上げた。


「意外と、小悪魔だなあ。」


 クスクスと笑っていると、急に清二くんが真面目な顔をした。瞳が僅かに開かれ、清二くんの金色の髪がふわりと風に靡く。どうしたの。問い掛ける。ゆっくりと清二くんが手を差し向けた。くるり。振り返る、彼が居た。


「人の家の前でなにくっちゃっべってんだ、おまえら。」



「意外と小悪魔なんだな、おまえ。」


 十二月八日、水曜日。天気は晴れ、だと思う。でもまだ分からない。だって今は日付が変わったばかりで、空は紺碧と欠けた月が浮かんでいるだけだった。偶然だった。正真正銘、たまたまだった。

 清二くんを駅まで送る道で、冬本くんと遭遇した。漫画みたいで、どきどきしてしまった。冬本くんの手には真っ白な紙袋がぶら下がっている。出掛けた帰りなのだろうか。

 何故か彼と、駅まで清二くんを送り、ごはんを食べる話になった。近くのコンビニで適当に唐揚げ弁当を買って、冬本くんの家に行く。かれこれ、家の中に入るのは三回目だった。


「何か勘違いしてる。」


 清二くんと別れた後、冬本くんは無言のままだった。どうしてここまでついてきたのか聞くと、そんなん別にいいだろと返された。何にもいいわけがない。反論しようしたけれど喧嘩なんてしたくなかったのでやめた。口は災いの元とはまさにこのことだ。

 微妙にぎくしゃくとした雰囲気をコンビニの袋に詰め込んで、持ち帰ってきてしまった。私達はテーブルの対岸同士。先程から睨めっこをしていた。


「あれ、彼氏か。」

「…。」


 はあ?

 急に何を言い出すんだ。馬鹿者。ビンタでもしてやりたくなった。いつから私は彼に対して攻撃的な態度をとれるようになったんだろう。心が疲弊しているせいだろうか。


「違う。」


 たしかに抱き締められた。でも、私も、清二くんも惹かれ合ってはいない。お互いを恋愛対象として見ていないと言い切れる。

 清二くんは、華那ちゃんの死に向き合い続けている。きっと、今だって、一人で泣いているかもしれない。

 私は、清二くんを、愛で抱き締めてあげることはできないんだ。

 友情、もしくはそれに似た情け。それらでしか、心配し励ます手段はない。華那ちゃんがあげたであろう心を、私は清二くんにはあげられない。


「あの子は、私の友達の…。」

「ふぅん。」

「こいびと。」


 きゅっと唇を噛み締めた。痛い、鈍くて淡い、いたい。


「私ね、幼馴染が居たの。その子が、この前、死んじゃったんだ。」


 彼は、口を噤んだ。


「交通事故だった。救急が来た時には、心臓が止まってたんだって。」


 私は、華那ちゃんの死を理解したが未だに受け入れることは不可能に思えた。

 彼も、こんな気持ちだったんだろうか。

 お母様を亡くした日、その次の日、火葬の日。どうおもっていたのかすごく知りたい。泣きたいような、でもなけないような。怠くて、鬱陶しい。姿の見えない悲しみに心はどんどん冷えていく。寄り添ってはくれない、時を、それでも生きていかなきゃいけないんだった。


「しんどいな。」


 冬本くんが立ち上がった。瞬間、身体が異常なほど強張る。こわい。でも、彼は私を痛めつけるような真似は絶対にしないと確信してもいた。打ったり、殴ったり、蹴ったり、そういった肉体的暴力。彼は、本当の意味で誰かを傷つけるようなことはしない。どれほど冷たくされようが刺々しい物言いをしようが、そうだって、信じたかった。

 私が知る全てが、そう証明してくれるって、思いたかった。

 この後、何をされるのだろうかと予測はまるでできなかった。私は目を瞑った。一か八かの賭けにほど近い。これで例えば暴力や私の芯を壊す発言があったなら、わたしは離れよう。揺るぎない決意が定まった頃、つよく、つよく。

 彼の香りが揺蕩って、大きな手のひらが頭を撫でていった。


「ごめん。」


 言いたくないこといわせた。ごめん。無神経に、疑って、ごめん。

 冬本くんは私の隣に胡坐をかいて、暫くの間ぽんぽんと数度頭を撫でてくれた。私は私自身の疑心や彼への未曾有の恐怖に勝った。また、恋が逞しくなって、引き戻せなくなっていく。

 安心してしまうとだんだん、瞼が重たくなってきた。ここ数日の日常が、私の平穏を崩し、激動の渦の中に巻き込んでいった。

 一つひとつ、這い上がっていくには今は、大きすぎる。手を伸ばして引っ張り上げてほしかった。他の誰でもない、冬本くんに。私の願望は、妄想ではなくなっていた。大きな手のひら、ぬくもり、安心感。このままずっとこうしていたい。

 明日には私達、恋人同士だったらよかった。


「寝るか。」

「ううん、大丈夫。」

「説得力ねぇな。」


 私の顔を覗き込み、冬本くんが淋しそうに笑った。


「ソファーとベッド、どっちがいい。」


 それから私は床を言い張ったが、根負けしソファーで寝ることになった。彼が毛布を持ってきてくれて、かけてくれた。もこもこでもふもふで、あったかいね。睡魔に飲まれながら呟くと、彼は囁いた。


「おやすみ、玲。」



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