風花とねむる

 十一月九日 天気 晴れ

 お母さんが死んだ。警察から電話があったんだ。

 俺が学校から帰ってきてもお母さんの姿がなくて、買い物かなんかかなとか思った。親父はまだアメリカにいるはずだから、連絡したって無駄。

 受話器を取った時、変な緊張感に襲われて吐きそうになった。俺、何か犯したか。気が付かない内に、何か悪いことをしてしまったんだろうか。警察署の名前を言われたんだ。電話は刑事の人からだった。

 親父に代わってくれと言われたが、海外出張で不在だと伝えた。でも親父と連絡を取りたいらしい。正直に俺は親父の携帯電話の番号を教えた。

 三十分後くらいに親父から電話が掛かってきた。母さんが亡くなった。

 俺は、何にも言えなかった。

 死んだなんて、変なこと言うなよ。


 夜中、警察が家に来た。事情聴取を受けた。サスペンスドラマみたいな状況って現実でも起こり得るんだと初めて感じた。お母さんのこと、諸々詮索された。警察が来るそのちょっとくらい前に、急遽親父はアメリカから帰ってきた。



 十一月十日 天気 晴れ

 親父と一緒に警察署へ行った。人生で初めて、警察の中に入った。ごくりと生唾を飲んだ。電話をくれた刑事の人が来るまで、受付前の長椅子に座って待った。親父は一言も、発さなかった。俺は、きょろきょろと辺りを見回したあと、ぼうっと床を眺めてた。

 刑事の人がやってきて、別室に案内された。

 お母さんは、ビルから飛び降りた。

 発見者は、通行人で、その人が救急車を呼んでくれたらしい。

 でも、死んじまった。

 顔は見せられるが首から下は、損傷があり見せられないということだった。警察の人が撮ってくれたお母さんの顔の写真を見た。血の気が全く感じられず、髪型はもうくしゃくしゃで、目蓋は閉じていた。

 開かないんだ。

 あんなに美しい人が、こんな無惨な姿になるなんて信じられなかった。

 監察医の方から、説明があるというので、そのまま待つことになった。すぐに書類を持ってやってきた。親父よりもずっと年上に見えた。白髪で人の好さそうな、ひとだった。死因を説明された。即死だったらしい。死体検案書には該当する箇所に丸がしてあった。俺はその丸と文字に、延々と目を凝らしていた。



 十一月十一日 天気 晴れ

 火葬をした。

 骨壺を家に持って帰った。



 十一月十二日 天気 くもり

 やる気出ない。受験勉強にも身が入らない。でもやらなきゃ。



 十一月十三日 天気 くもり

 親父がアメリカに戻った。仕事があるから行かなきゃいけないんだとさ。

 逃げるように出て行った。

 なぁ、俺はもっとここに居てほしかったよ。


 お母さんも、独りぼっちだったのかな。

 もう聞いても答えは一生返ってこないけど。



 四月十三日 天気 

 クラスメイトの間中玲に声を掛けていた。気が付いたら、大丈夫かって聞いてたんだ。いつも一人で放課後の教室で、勉強に励んでいるようだった。近付いても、ちっとも俺の存在に気が付かないから、少し天然か鈍いのかもとか思った。数学の問題集と必死に睨めっこしてるけど、全然解けてなかった。なんか、あれ、ラッコに似てる。ごはんに夢中になってる、ラッコ。

 女子と話すのってそれなりに気を遣うけど、この子は違った。自然体でいられるから不思議だ。もっと早く声掛けてればよかったかも。


 え、いいの?

 いいよ。困った時はお互い様だし。

 ありがとう、冬本くん。


 一言一句覚えてるって俺きもくね?

 でも、間中が、ありがとうって笑ってくれたときの顔、すんげえ、綺麗だったな。



 四月十四日 天気

 間中の数学の出来なさは天下一品かもしれない。放課後、俺のアルバイトが無い日は、ちゃんと教えることを約束した。これじゃ最悪赤点まみれで留年の可能性だって出てくる。一度乗り掛かった舟だし、見捨てるわけにもいかないか。

 来週の月曜日には小テストもあるし。



 四月二十日 天気

 間中が小テストの結果を、じゃじゃーんってよくある漫画の効果音を言いながら、俺に見せてきた。満点だったよって興奮気味に言われた。

 良かったじゃんって返事したら、めちゃくちゃ嬉しそうな笑顔になってた。

 俺はバイトがあったから、今日は数学教えなかったけど、あんなにうれしそうにしてくれんのなら、教えてよかったかもって思えた。


 ありがとう、冬本くん。


 お礼言われてちょっと恥ずかった。



 四月三十日 天気

 久しぶりに仏壇に線香をあげた。位牌を見る度に遣る瀬無くなる。

 土曜日だけど今日は一日予定無し。ファミレスのバイトも、そろそろ変えたいかも。時給安いし、帰りはやっぱ食べ物臭がすごいつくし。

 土曜日にバイトないの珍しくて、でも友達を誘う気にもならなかったから、一日中ゴロゴロしてゲームしてた。サバイバルゲーム、オンライン対戦はやっぱ面白い。

 夜、間中から連絡があった。びびった。

 数学じゃなくて、今度は英語で分からないところがあったらしい。

 そういえばあいつの得意科目ってなんなんだろ。



「これ、冬本くんの日記。」

「そう、俺がずっと書いてた。中学三年の頃からつい最近まで、飛び飛びだけどな。」


 年季の入ったA4のノートは、特別な仕様のものではなくて、よくコンビニエンスストアや文具店なんかに売っているのを目にする市販品だった。

 最初のページは恐らく彼が中学生の頃だろう。お母様が亡くなった事の経緯が、詳細に記されていた。

 どんな、気持ちだったんだろうか。その疑問はきっとこれを読み進めていけば、全て分かってしまう。だけど人の心を勝手に盗み見ているような気になり、私はそっとノートを閉じた。


「読んでほしい、全部。」


 彼が望んだのは、それだけだった。ただ全部の文字を読んでいけばいいだけの作業だったのなら、簡単なことだ。でも、この日記帳には、彼の過去がありありと書き記されている。

 私は、彼の喜怒哀楽全てに、真摯に向き合うことが出来るのだろうか。

 あの甘酸っぱいような青春の日々に、濃い藍色が差し込まれていく。私だけが鮮やかに彩っていた記憶に、彼の、想いが押し寄せてこようとしていた。

 雨だ、土砂降りの雨が、容赦なく脳天から爪先までをずぶ濡れにしていった。逃げたい、今すぐにでも逃げたい。でも、彼を諦めたくはないと心は欲している。


「分かった。」


 彼とまたねを言い合った。日記帳をバッグの中へ仕舞い、私は自宅へと帰った。

 日記帳を読み終えたら必ず彼に連絡をすると指切りまでした。

 私は一人で抱えきれる自信がなくて、帰り道の途中で道路の端っこに立ち止まり、華那ちゃんへ電話をかけた。けれどいつまで経っても彼女は出てくれなかった。清二くんと何処かへ出かけているのだろうか。

 そういえば、二人はいつまで日本で過ごすのか聞いていなかった。しばらくしたらアメリカに戻るとは言っていたけれど。


「五月六日、今日はゴールデンウィーク最終日だった。」


 帰宅後、夕食を終えお風呂に入った。お母さんからショートメールが届いていたけれど、未開封のままにしておいた。いつも夜の二十時を過ぎると、その日の帰宅時間を知らせてくれる。でも、いつものことだから、私は放置した。

 自室に戻り、正座をして預かった日記帳の続きを読み始めた。

 わざわざ声に出す必要なんてないのに、音読をしてしまう。

 目で追っても、十分に理解していけないと思えたからだ。彼の思い出をなぞっていくこの行為は、とても労力のいることだった。


「といっても俺はバイトをしていたから、全然休みの気分なんて味わえなかったけど。竜也や咲弥から遊ばないかって連絡が入ってたけど、バイトって返したらそれでおしまい。朝から晩までバイトだった。ゴールデンウィークの九割をバイトにしちまった。でも、家に一人でいるよりはいい。余計なこと考えないで済む。」


 ここにきて、初めて登場する人物が現れた。竜也と咲弥って一体、誰だろうか。友達のようだが、私は知らない人達だ。りゅうや、さくや。どっちもヤが付くんだ。まるで双子みたい。


「五月七日、今日から学校。バイトなかった。ゴールデンウィーク明け初っ端から間中に数学指導。もう個別塾に通った方が、話が速い気がする。まあ、でも、いいけど。」


 五月から六月の中旬までを読み終えた頃、母親が帰ってきた。玄関のドアがガシャンと大きく音を立て、床を踏む度に、鼓膜が嫌に足音を捉えていく。


「玲、大変!」


 バタバタと階段を駆け上がりノックもせずに母親が部屋に飛び入ってきた。一体何事かと思い、急いで日記帳を閉じ、ベッドの上に置いた。


「あんた、ショートメール見た?」

「え、見てないけど。」

「ばか!」


 母親が怒声を上げるとは思わなかった。これは絶対に何かあったんだと、思った。多分良い報告ではない。母親の顔には、喜びや楽しいといった表情は一切刻まれていなかった。ぜえぜえと肩で息をしている様子を見ると、急いで来たことが見て取れた。


「華那ちゃん、死んじゃったって。」

「え…、嘘…。」


 はなちゃん、しんじゃったって。母親の言葉が脳内を右往左往して、でも、分かるわけがなかった。死んじゃったって、そんな。受け入れるまでに至らず、悲しみも痛みも起こらない。


「こんなこと冗談で言えるわけが無いでしょう。」


 切迫した焦りと苛立ちを宿した母親を遮るように、拳を握った。

 だって普通に話してファミレスにも行ってごはんを食べた。リングを嵌めて恋人と一緒にアメリカから帰ってきたばかりじゃない。


「とにかく、あんた明日は予定空けておきなさいよ。お通夜、行くでしょ。」

「う、うん…。」

「香典袋、買いに行かなきゃ。」

「あ、わ、私の分もお願いしていいかな。」

「いいわよ。じゃ、ちょっとコンビニ行ってくるから。留守番よろしくね。」


 流れるように消え去った母親の背中を、ロクに見送ることもできない。

 一体どうしたらいいのか、お手上げ状態だった。だって自分の友達が、こんなに早く死んでしまうことなんて想像もしてこなかった。私がおばあちゃんになるまでみんな同じように年老いていくものだとばかりに決め込んでいた。


「どうしよう。」


 私は、思い立ったように、華那ちゃんから貰ったヘアバンドを部屋中隈なく探し回った。ない、無い、どこにもない。最後に使ったのは今朝の話なのに、どうして、いなくなっちゃったんだろう。探さなきゃ、見つけないといけない。あれが、最後の華那ちゃんから貰った遺る物。


「華那ちゃん。」


 階段を急いでも変わらないのに駆け下りた。床板が軋む度に、心の内で謝った。ごめんなさい。いつの間にか私は謝罪することが上手になったように思う。抵抗感がまるでなかった。大人になるって、こんな風に、喪うばかりなのだろうか。


「はなちゃん。」


 ヘアバンドは洗面所にあった。


「あ、あった!」


 洗面台の端っこに置かれたままだった。

 そっと壊れ物を扱う時と同じく、慎重にヘアバンドを手に取り、自身の心臓の辺りへ押し当てた。温もりのないヘアバンドは、贈り主の命の灯火がもう消えていったことを想起させた。

 それからはあれよあれよと時間が流れていった。納戸に仕舞い込まれた喪服を取り出して、消臭スプレーをふりかけた。母親が買ってきてくれた香典袋に、薄い墨の筆ペンで中包みに金額と、外包みに自分のフルネームを書いた。

 通夜に参列し、斎場の中央辺りに華那ちゃんの遺影があることに、違和感しか覚えなかった。何故、彼女が此処にいなければいけないのか。どうして、彼女は写真の中で満面の笑みを浮かべているのに、周りのみんなは憂いた顔をしているのか。生と死が、混沌と斎場には広がっていた。


「華那ちゃん、どうして…。」


 名も知らぬ一人の女性が、華那ちゃんの遺影に向かって嘆いたけれど、そんなこと彼女が一番知りたいだろうと思ってしまった。とても卑劣な思考に、嫌気が差す。それでも無性に、苛立ちは募った。死への手向け方など、人それぞれ違うことを、心が拒絶していった。

 焼香を終え、斎場のスタッフが二階へどうぞと案内をしてくれた。二階にはお寿司とお酒が振舞われており、母親と私はそれらを食した。そろそろ帰ろうという話になり、出口へ向かう。


「間中さん!」


 華那ちゃんのご両親が母親に声を掛けた。お互いに、苦しそうな表情で話を始めていた。私も、深くお辞儀をした。少し離れ、一通り、斎場を見回してみたが清二くんの姿はどこにもなかった。


「玲、どうしたの。」


 訝しげに母親に尋ねられ、素直に答えた。


「あ、ううん。華那ちゃんの、彼氏が来ているんじゃないのかなと思って。」


 ぽつりと小さく言ったのだが、私の言葉に華那ちゃんのご両親がはっとした顔をした。

 恐怖がじわりと内側から競り上がった。縋るように、二人が私へ駆け寄ってくる。


「宮本清二を知ってるのか!」

「彼の連絡先、玲ちゃん知らないっ?」


 喪服を掴まれ、只事ではない空気が一帯に流れた。母親も目を丸くしていて、私も似たような表情をしていたと思う。首を横に振り、華那ちゃんのお母さんの肩を掴みそっと引き剥がした。


「ごめんなさい、私は彼の居場所を知らないんです…。」



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