冬の帳
十二月一日 水曜日 天気 曇り時々晴れ
冬本くんと連絡を取らなくなった。私が最後に送ったメッセージに返事が来ないまま、十二月になってしまった。
息が白くなるようになった。母親に頼まれて、今朝は燃えるゴミを指定の場所に出しに行った。裸足にサンダルでいってしまったから、足の先が凍えるように冷えた。
会社を、十一月三十日付で退社した。健康保険・厚生年金保険 資格等取得(喪失)連絡票が家に郵送されてきた。あとは、これを役所に持って行って、国民健康保険と国民年金への切り替えの手続きをしなければならない。
転職先、全く決めてないや。働くことに、あまりやる気が湧かないようになっちゃった。貯金はそれなりにある。この前自分で計算してみたけれど、一年間は働かなくとも暮らしていけると思う。
どうして返事が来ないのか。分からない。彼がどんなことを考えているのかさっぱり分からない。だけど、見捨てることは絶対に出来ない。見捨てるなんて、偉そうな言い方だけど、彼を放ってはおけない。だって私は、彼のことが好きだから。
十二月二日 木曜日 天気 晴れ
朝七時に自宅のインターホンが鳴った。お母さんが階下から私を呼んで、起こされた。こんな早くから一体誰だろうと玄関のドアを開けたら、そこには華那ちゃんが立っていた。巨大なキャリーケースを二個も両脇に抱えている。
久しぶり、玲、元気にしてたの、と快活な笑顔と共に挨拶をしてくれた。ビビットカラーのピンクに染まったウェーブのかかった長髪。両耳には何個もピアスがついてる。そのうちの四箇所くらい、私がピアッサーで開けてあげたような記憶があった。
華那ちゃんの数歩後ろには、金髪の男性がいた。
初めて見る人物に、不思議と目線がいった。お互い、会釈をしてみたりした。(ぺこぺこしてて、ペンギンみたいだったよ。)
その人は、宮本清二といって、なんと華那ちゃんの彼氏だった。私達よりも二歳、年下だそうだ。まさか彼女が、恋人を連れて日本に帰ってくるとは想像もしていなかった。
聞けば今回は一時帰国らしかった。また一ヶ月程度したらアメリカに戻って、念願だったネイルサロンの開店準備を始めるそうだ。
着実に夢を叶えていく華那ちゃん。まだ空高く昇っている太陽の光と合わさって、非常に、残酷なほど眩かった。良かったね、よかったね。私が言うと、華那ちゃんはありがとうと答えて、ハグをしてくれた。
今日も彼の連絡はない。
「それじゃあ、冬本くんと最近は全然連絡取り合ってないんだ。」
華那ちゃんと、彼女の恋人である清二くんと三人でファミレスに入った。華那ちゃんの隣に清二くんが座り、私は彼女達の向かいの席を選んだ。
たらこスパゲティに唐辛子の粉末を大量にかけて食べる私に、華那ちゃんは胃が悪くなりそうとしかめっ面をしていた。
「うん。」
「玲は本当にいいの?」
折角、進展あったのに。華那ちゃんは両手で頬を支えながら、テーブルに肘をついた。右手の薬指にシルバーのリングをつけていた。清二くんも全く同じ位置にリングを嵌めていた。昨日は華那ちゃんと清二くんのいきなりの来訪に驚くばかりで気が付かなかった。ペアリングか、いいなぁ。そんなことを感じながら、辛さにまみれたスパゲティを食べた。
美味しい。
たらこの塩っ辛さとプチプチした触感に、舌を熱くさせる唐辛子特有の辛味が、私の食の欲を満たしていった。
「もう家に突撃しちゃえばいいのに。」
「駄目だよ、そんなことしたら迷惑になるもん。」
「でも向こうは、自分が会いたくなったら来たわけでしょ。ほら、十一月の時だっけ。」
「…、私には理由がないから、だめだよ。」
クルクルとスパゲティをフォークに懸命に巻き付ける作業に徹した。私の恋愛話をしても、二人を幸福な気持ちにはしてあげられない。何か別の話題を探さなければ、脳内でいくつかの候補を捻りだした。
「あ、そういえば、華那ちゃん。」
「会いに行く理由なら、あるじゃないですか。」
私の言葉とぴったり重なるようにして、清二くんが放った。華那ちゃんは清二くんを見遣って、口の端をゆっくりと持ち上げた。ああ、二人には通じない。話をはぐらかすことはどうにもできない状況になってしまった。
「玲、駄目だよ。誤魔化したって、顔に書いてあるんだから。」
「ええ、ハッキリと書いてありますよ。」
「自分に嘘吐いたって意味ないじゃん。自分のこと、一番に助けてあげられるのは玲自身なんだよ。当たって砕けろ、ね。」
既に砕け散ってるのにという私のぼやきを、華那ちゃんはスルーして、頼んでいたチーズ入りハンバーグとライスとサラダのセットを頬張り始めた。彼女の隣に座る清二くんは、とんかつ定食のごはん大盛。
「二人とも、肉食だ。」
十二月三日 金曜日 天気 曇り
華那ちゃんと、華那ちゃんの彼氏の清二くんとファミレスに行った。恋愛話を聞いてもらった。二人と別れて、カフェに行った。再会した時のお店。懲りずにアイスティーを頼んだ。華那ちゃんと清二くんは、忘れ物をしちゃったらしく華那ちゃんの家に寄ってから、そのままアウトレットに買い物へ行くと言っていた。二人には背中を押してもらった。ありがとうの気持ちを、きちんと返したい。
勇気を出して、冬本くんにメッセージを送ってみた。
明日十時、会いに行ってもいいですか。
返事は、なかった。
朝九時、前夜にセットしておいたアラームが鳴った。携帯電話の画面をタップして、停止。起き上がって、だらしなく欠伸を一つした。
ベッドから降りて、部屋を出た。洗面所に一直線。ヘアバンドを持ってくることを思い出して、自室へ舞い戻る。
数年前、華那ちゃんから誕生日プレゼントとして貰ったローズ色をしたヘアバンドをつけて、再び、洗面所に行き、水栓の蛇口を捻った。冷たい水が、ざあざあと流れ出した。両手で掬い、顔面に浴びせた。
寝ている間に溜まった汚れを洗い流す。
「おはよう。」
リビングで朝の挨拶をしても、返してくれる人は、もういなかった。母親はとっくに仕事へ向かった様子だ。我が家に、父親の役割を果たす人はいない。私が生まれて間もなく、両親は既に離婚をしてる。
冷蔵庫を開けて食パン一枚。オーブントースターに入れた。こんがりと焼き目がつく頃に、チンと軽快な音がする。あちち、声を漏らしながらトーストになった食パンをお皿に載せた。
バターをたっぷりと塗って、食べた。飲み物は水道水。
「やっぱり、やめておいた方がいいのかな。」
彼と色んな出来事を、ここ最近共有出来ているから、私は、前向きに物事を捉えがちになっているだけなのかもしれない。迷惑だったかな、結局、今朝になっても冬本くんからの返事はきていなかった。
トーストの最後の一口が、中々、食べられない。
ごくりと生唾を飲み込んで、震える手で、放り込んだ。喉を通って胃に落とされて、かたちもなくなる。
水道水が並々に注がれたグラスを持って、飲んだ。口の端から零れ落ちる。肌を伝い、首筋に垂れていった。なんとなく気持ちが悪い感触。顔を顰め、でも飲み干した。
ヘアバンドを取って、今の取得済みスキルを使い、メイクを頑張った。お気に入りのコーラルピンクの口紅を唇に塗った。
服装はいたってカジュアルにしようとしたのだけれど、久しぶりに彼に会えるのだと思うと、過剰に身なりを意識してしまって、花柄のワンピースを選んでいた。髪の毛までコテで巻いて、くるくるにしちゃった。
ヒールが八センチある白いショートブーツを履いて、アウターにはアイボリーのロングダウン。バッグと、タッパーの入った紙袋を持つ。一通りの戸締りを最終確認して、家を出た。玄関の鍵、閉めた。窓も施錠してある。ガスの元栓も閉めてある。電気も消してある。うん、うん、大丈夫。
足早に彼の家を目指した。道順はあやふやだったけれど、辿り着けると確信があった。根拠のない自信に基づく行動も高校生の頃から変わらない、私。
インターホンを鳴らした。数秒後に、はい、と冬本くんの声がする。
「間中です。」
ガチャ、とインターホンが切られた。音の冷たさにどくりと心臓が嫌に脈打って、紙袋を持つ手に力が籠った。
「玲。」
玄関のドアが開いて、ゆらりと冬本くんが姿を見せてくれた。それだけで胸がいっぱいになって、返事をくれなかったことに追及する気持ちなど、一瞬の内に吹き飛んでしまった。一歩、いっぽ、ショートブーツが地面を蹴るようにして喜びを奏でている。
「返事できてなくてごめん。」
「ううん、大丈夫。きっと何か理由があるんだろうなって、そう思ってるから。」
ううん、本音はすごく気になってた。全く返事がないと不安になって、一人で落ち込んでた。嫌われちゃったのかな、って。もう何をしても駄目なのかもしれないな、と。そんな思いを本人に向けても、冬本くんは嫌に思うだろうから、言わないよ。だって私は、あなたのことが好きだから。すきだ、から。嫌われたくない。遠ざけられたくなかった。
「っ。」
ずっと一方通行で、優しさに絆されていく私は馬鹿なんだ。
「玲、どうした。」
ずっと善意で放課後に付き合ってくれた冬本くんに恋をした。
彼の優しさを、私の青春に宛がった。彼と過ごす時間が積み重なる度に、膨大な夢が生まれていった。彼とこうしたい、ここに行きたい、ずっと一緒に居て、お伽話に出てくる王子様とお姫様のように永遠に愛を誓い合う。ラブラブで、楽しくて、幸せだけの毎日を、過ごす。そんな、利己的な未来を描いては、勝手に好きになった。
「ごめんっ、ごめんね…っ。ごめんなさい、ふゆもとくんっ。うぅ、っ…、ひっ。」
大粒の涙がはらはらと零れて、地面にシミを作っていった。ごめんなさい、謝り続け、年甲斐もなく声を上げて泣いた。
ぎょっとした顔をして、慌てる彼。困らせていることが嫌で、泣き止みたいのに、術が分からなくて、パニック状態に陥っていく。落ち着きたい願望を置いて、どんどん感情は昂ぶっていった。
「玲。ごめん、俺のせいだよな。ごめん。」
冬本くんが、私を包むようにだきしめた。彼のつけている香水だろうか、かおりが鼻腔を占めていった。彼の洋服に私の涙が滲んでいってしまう。申し訳なくて、はなしてと呟いた。
「無理。」
彼は、やっぱり、大馬鹿者で、賢く。
「狡いよ。」
紙袋とバッグが、落ちていった。紙袋からタッパーが飛び出たけれど、気にしてなんかいられなかった。ぎゅう、と彼が苦しむほどに抱き返した。私達のこの関係性には、まだ名前はつけてもらえないのですか、かみさま。
「玲。」
はい、ティッシュ。チーンと鼻の頭が赤くなるまで、私は彼の部屋で鼻をかんでいた。とても情けない話だ。
「ありがとうございます。」
不甲斐ない姿を晒してしまったことに、詫びる気持ちと情けなさに襲われ、思わず敬語で感謝を口にした。すると、彼はクスクスと楽しそうに笑う。こっちは、全然笑い事じゃすまない気分だというのに。
全ての元凶は、あなたなのに。でも私にこれほど熱の籠る想いをくれたのも、あなたなのに。
「玲からのメッセージ返事できてなくて悪かった。」
「…やだ。」
改めて謝る彼に、許したくないを言っちゃった。本音を、言ってしまった。しまった、と我に返った。彼を見る。瞳が大きく見開かれた。ああ、もう、駄目だ。こんな私を見せる為に、会いにきたかったわけじゃないのに。どうしてこういつも、彼の前では、一つも上手くいかないんだろう。
「ふ、はっ。変わんねぇな、やっぱり。」
ぷははは。冬本くんがお腹を手で押さえて、わらった。どうしてか、またわらってくれた。
「うん、そうだよな。ごめん。返せなかった理由、聞いてくれるか。」
そう言うと彼は立ち上がり、物を仕舞っているのだろう棚の一番下の引き出しを開けた。一冊のノートを手に取ると、迷うことなく、私に差し出した。
「玲に、読んでほしい。」
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