十一月九日


「玲、電話よ。」


 母親に朝八時に叩き起こされた。なんでも自宅の固定電話に電話があるのだという。とても珍しい事態に、謎の緊張感を覚えた。

 友人らであれば携帯電話に連絡を寄越してくるはずなのに、何故、わざわざ固定電話なのだろうか。不安と警戒心を半分ずつに受話器を取り、外線のボタンを押した。


「本社の野田です。おはようございます」

「おはようございます。お疲れ様です。」

「えぇ、お疲れ様です。早朝に電話をしてしまってすみません。」


 電話は、勤め先の会社の総務部の方からだった。正確には、もう職場に通い働いてはいない。私は今月、十一月二十日付で会社を退社することが決まっていた。

 現在は有給休暇の消化中で、出勤はもう先月の二十日以降からしていなかった。

 野田さんの用件は、退職金に関する書類を郵送したので、届いたら必要箇所に記入と捺印をして返送してくださいというものだった。返送用封筒と切手も入っていますから、と。

 正直、その程度のことでわざわざ電話をする必要はないのではないかと感じたのだが、文句を言っても、現に電話は掛かってきていて、私は、こうして会話に参加済みなので時すでに遅し。


「間中さん、お元気でいらっしゃいますか。」

「え、あ、はい。」

「そうですか。それならば良かったです。最後の出勤日、あまり元気が無さそうに感じたものですから。私、少々気になっていまして。」


 野田さんとは、所属する部署も違う人ではあったが、私の担当する業務上関わることが多かった。紳士的で、自分が退職を決める際にもいろいろと話を聞いてもらった人でもあった。


「ご心配おかけしてしまい、申し訳ありません。お気遣いありがとうございます。」

「これからどうなさるんですか?」

「それがまだ、お恥ずかしい話で何も決まっていなくて。」


 新入社員から勤続七年間。私は、自分なりに努力をして働いてきた。だが、いつの間にか、人間関係に思い悩むことが多くなった。そして仕事そのものに対してやり甲斐も楽しさも見いだせなくなった時、潮時という単語が頭の中に浮かび上がった。

 それからは、半ば衝動的に近かったと思う。退職したい旨を上司に伝え、個人面談の時間と割いてもらい、考え直さないかと異動の打診をされた。断り、一言。

 もう、辞めたいんです。

 何をしても決断は変わらない自信があった。辞めるって案外簡単なことだった。手順だけをみれば、とんとん拍子で話は進んでいったし、サイコロを振らなくともゴールに辿り着ける双六みたいなものだった。必要になるのは、辞めることを伝える行動力と、上司に言葉を発する時の勇気だけだった。

 私はわたしを休ませるために、一度全てをリセットするために辞めた。そして誰一人、辞めることを止める人はいなかった。こういうものなのか、と思うと、また仕事に対しての情熱は冷めていった。あれほど思い悩んだ人間関係は終わりが見えていれば我慢も憂欝ではなかった。こういうものなんだ。

 退職届にサインをして、最後の出勤日まできちんと務めを果たした。帰り際、全員に挨拶をした後に、在職者の人達から、花束と寄せ書きを貰った。一連の光景が、卒業式のようだった。

 玲。

 思い出してしまった。彼のことを。冬本れい高校の卒業証書授与式の日を。

 瞬間、眉間に皺が寄って、身体の中からこみ上げるものがあった。寂しさだとか悲しさだとか、そういった得体の知れないマイナスなものたちだ。

 きっとその場面を、野田さんは見てしまったのだろう。


「無理をなさらず。何かあったら、気軽に連絡ください。」

「はい。」

「お役に立てることがあれば、私なりに尽力しますので。」


 ある一定の距離を保ったまま電話は終了した。受話器を置き、自室へ戻ろうとした。最中、母親に電話の内容を聞かれた。

 会社の人から退職のことで、それだけで母親は納得した様子だった。


「そういえば、玲。水族館とか興味ある?」

「まあ、好きだけど。」

「会社から優待券貰ったのよ。今度、行かない?」

「うん、いいよ。」


 母親との会話はいつも簡潔に終わってしまう。どちらとも長引かせる気が無かった。水族館なんてもう何年行っていないだろう。最後に行ったのは、高校生か大学生の頃だったと思う。社会人になってからは一度も行ったことが無かった。


「急で悪いんだけど、明日とか行けないかしら。」

「私は予定無いから行けるよ。」

「じゃあ、決まり。明日よろしくね。」


 母親からの誘いもまた久しぶりのことだった。高校生くらいまでは、よく二人で出掛けていたが、大学へ進学してからはあまり何処かへ外出した記憶がなかった。

 別段、仲が悪いというわけではない。よく話す方ではあると思うし、お互いの仕事が終わる時間帯が合えば、ご飯に行くこともあった。

 母親は良い意味で子どもにあまり干渉しないのだと思う。

 必要以上に執着をせず、口うるさく注意をすることもない。対して、私がやりたいこと言ったことは進んで受けさせてくれたし、私生活に首を突っ込む真似はしなかった。その代わり間違ったことをすれば、とても厳しく叱られた。何故いけないのか、どうすればいいのか。母親は、呆れることもなく、私という人間と真摯に向き合ってくれているのだと思えた。

 そんな母親に、退職すると伝えた時は、ほんのちょっとだけ恐かった。流石に何か言われてしまうだろうか。変な心配を掛けてしまったら申し訳ないなという、不安もあった。

 けれど、至って淡白な反応で、文字数にすると二文字のみだった。そう。え、それだけ、と焦り、聞き返してしまうほどにあっさりとしていた。私の母親はある種、無敵だ。


「玲。」

「うん。」

「あんた国保と国民年金の手続きだけはちゃんとしておきなさいよ。あと失業保険。」

「え、あ、うん。」

「それじゃあ、私は会社行ってくるから。出掛けるんだったら、戸締りだけはよろしくね。」

「はぁい。」


 家に居てもやることがないので、カフェへ向かった。

 昨日、彼とお茶をしたあのお店だった。彼がもうこのお店を利用する可能性は限りなく低いと予測するも、もしも、もしかしたら会えるのではないかと変に期待を持って入店した。テラス席を案内してもらい、辺りを見回したが、冬本くんらしき人物は見当たらなかった。

 高校生の頃に二人で出掛けることがあれば、さっさと区切りをつけられたのだろうか。デートをしたい、という願望が強いあまり、その目標が達成されなかったことに後悔をしているだけなのではないかと、諦めきれない原因を考える時期があった。

 言ってしまえば彼以外とも恋は出来る筈だ。なのに、それができないのには、巨大な悔いがあるんじゃないかと思えていた。


「ホットのアールグレイと、チョコレートケーキを一つお願いします。」


 店員にオーダーを伝え、紅茶とケーキが運ばれるのを待つ。彼とデートをするならどこがいいのだろうか。私は彼のことをあまり詳しく知らなかった。誕生日は五月三日、家が戸建物件であること、父親が単身赴任中であること、兄弟は一人もいないこと。聞いたのはその四つくらいだった。


「そういえば、お母さんの話って聞いたことがないかもしれない。」


 冬本くんのお母さんはどんな人だろうか。一瞬、そんなことを考えたが、やめた。

 思い描けば、そうするほどに、現実は色を濃くしていくだけだった。


「…お母さんみたいにサッパリとした人間になれたらよかったな。」


 いつまでも片思いを続けている私は、傍から見れば憐れでしかないだろう。同情する余地もないほどのしつこくて重たい女の認定をされるかもしれない。でも、胸の奥に芽生えた感情がどうしても消えない。

 蠟燭に灯った火を何度吹き消しても、彼を想うことをやめらない。

 冷たい態度を取られて凹んでも、嫌いにはなれなかった。もう、あの告白をした日から、十余年ほども過ぎているのに。

 久しぶりに会った彼は、ひどく格好良かった。イケメンは人生を積み重ねても、イケメンのままなんだと実感した。さながら気分は、ドラマのヒロイン役。これから運命が動き出して、二人は永遠の愛で結ばれていく。数々の苦難を乗り越えて、なんて。


「バカみたい。」


 カフェを後にして、遠回りをして家に向かった。十八時を過ぎた頃、空は紺碧色に包まれていった。浮かぶ白銀の星々。私は冬へと深まっていく、季節の移ろいに、寂しさを覚える。

 とぼとぼと覇気のない歩調でアスファルトを辿っていった。あと、もう十分も歩けば、ゴール。


「…。」


 次の曲がり角を、右に、行こうとした。視界の端に写った人に、反射的に息を飲み込んで、立ち止まった。


「っ。」


 ああ、どうして私は彼を想ってしまうんだろう。

 神様はいじわるだ。ジンクスもおまもりも、もう私の手元にはない。

 憐れにも片恋だけを続けて棺桶にぶち込んでくれればよかった。それだけならずっと苛まれる恋心に、時折夢想をしていれば済んだというのに。目の前に現れた人も、倣うように足を止めた。


「…、ふゆ、も…。」


 ふゆもとくん。彼の名前を呼ぶよりも先に、彼が私に向かって歩み寄ってきた。

 え、と声を上げるよりもはやく、彼が、私の身体を抱き締めた。


「玲っ。」


 震えていた。



 十一月九日 火曜日 天気 晴れ

 朝八時に本社の総務部の野田さんから電話があった。退職金関連のことと、私自身のことを少しだけ聞かれた。お母さんからは水族館に誘われた。久しぶりに二人で出掛けるので楽しみだ。

 家に居ても暇人だから、カフェに行った。彼にはお店では会えなかった。

 でも、奇跡がまた起こったの!

 帰り道、冬本くんに会った。突然抱き締められて、びっくりしちゃった。身動き一つとれないほど、つよくだきしめてくれた。

 彼はごめんと繰り返して言うから、訳が分からなくて、でも何かきっとあったんだと思ったから、ぎゅうって抱き締めて、大丈夫だよと伝えた。何度もなんども。道端で抱き締め合うなんて凄まじくドラマチックだった。


「コーヒーでいい?」

「…あ、うん。」


 驚きが渋滞していた私は反応が遅れた。

 彼は、先程とは打って変わって落ち着き払った様子だった。今度こそ会えないと思っていた相手に道端でいきなり抱き締められた。

 ごめん。

 何かあったのか、問うこともままならない。言葉は、届かないと思えた。

 迷うことなく、彼をだきしめかえした。応えたかった。初めて、冬本くんの心に触れるような気がしたから。大丈夫だよ。だいじょうぶ、だいじょうぶだよ。

 彼の身体は、私が想像するよりもはるかに逞しかった。

 見た目に反してがっしりとした肉体、背に手を回して出来る限りの優しさを持ちながらもぎゅうっと抱いた。

 ドラマチックだね、頭の片隅が他人事のように、その状況に感想を添えた。私も激しく同意する。ドラマチックだ。

 暫く経ってから、悪いと震える声で冬本くんが声を発した。

 そっと私達の間には、距離が出来た。彼が、私の顔を覗き込む。首を傾げると、彼が、ふにゃりと笑ってくれた。特別好きだった笑顔をみた見られた。それだけでなんかもう満足しちゃって、このまま棺桶にぶち込まれても、いいやって思えた。それくらい、嬉しかった。


「あ、もしかしてコーヒー苦手とかだったりするか。」


 私は今、彼の家にいる。

 彼はまだ実家暮らしのようだった。

 通されたのはリビングだった。近くにはキッチン、ダイニングスペースもあった。

 ダイニングスペースには、食卓を囲むのであろう脚長のテーブルと椅子。椅子は四席。後ろ手にチェストがあり、そこの右端には仏壇があった。

 リビングにはソファーとテーブル、それからテレビ台と思われる家具の上にテレビがあった。窓際には観葉植物がある。目線の置き場に困り、名前の分からない緑色を眺めた。

 家には冬本くんしかいないと、玄関前で言われた。ここにくるまでの道順はさっぱり覚えていない。帰りはタクシーでも適当に拾おうか。どうしようか。


「玲、聞いてるの。」


 ずい、と窺うように彼の整った顔が瞳いっぱいに映り込んできた。


「へ…っ!」


 思わず座っていたソファーから飛び上がりそうになってしまった。反応を見た彼は愉快そうにケラケラと小さく笑った。


「何か考え事でもしてたのか。」

「いや、どう帰ろうかなあって。」

「…そ。」


 てん、てん、てん。沈黙が通過していく。


「それでコーヒーは飲めんのか。」

「の、飲めません。」


 お子ちゃまだな。彼がいたずらなことを言うので頬を膨らませると、そういうところだよと指摘された。何もかも、弄ばれているような気がしてくる。彼の手のひらの上で、おどるマリオネットみたいだった。

 でも、なんでも構わなかった。チャンスが巡っている。強欲さはこれを手放したら、私達のつながりは完全に千切れてしまうと武士のように勝鬨を上げたがっていた。


「冬本くん、実家で暮らしてるんだね。」

「…ああ。」


 ソファーに深く腰掛け、近くにあったクッションを膝の上に置いた。キッチンの方を見遣ると、視線がかち合う。思いがけもしないことに、瞳が大きくなっていく。びりりと電流のような含羞が走った。心臓が活力を取り戻したように、飛び跳ねた。この正体がときめきだと、唇を噛んだ。


「っ。」

「んだよ。」


 喧嘩を売る不良に似た物言いなのに、痛くもかゆくもなかった。けれど見つめ合える度胸はなくて私から視線を逸らす。追いつけない喜怒哀楽が、体内で綯い交ぜとなって、混沌と化していく。期待と不安。相対する心理が、昨日までの絶望感を粉々に千切って吹き飛ばしてくれた。次に疑問が肥大していった。

 どうしてあの道に彼がいたんだろう。どうして私を抱き締めたんだろう。どうしてごめんと謝ったんだろう。どうして此処に私が居るんだろう。


「どうして、私にしたの。」


 一、二、三。


「…ごめん。」


 ソファーの前に設置されたテーブル。ガラス製なのか透明だった。コトンと音を立てて、無機質な白いマグカップに茶色い飲み物が注がれていた。


「ごめんじゃわからないよ。」


 彼と私の会話はちぐはぐで、縫い合わせる方法が分からないまま購入された布の切れ端のようだった。針と糸を上手くつかいこなせない私達は、近付いても、バラバラになって乱暴に放置してしまう。答えを聞きたい思いだけが先走って、どちらの心にも寄りかかれないままだった。


「冬本くん。」


 私は彼のことをちっとも知らないから、とことんしりたかった。

 彼が望まない私だった筈なのに、抱擁を受ければ勘違いしてしまいそうになる。

 本当はあなたも私のことを、想っていてくれているのではないか、って。

 思い込みたい。

 戸建物件に住んでいて兄弟はいない、父親は単身赴任中。

 五月三日生まれ、二十九歳。

 知りたい、しりたい、要らないことまで知り尽くしたい。


「身勝手だって分かってる。」


 もうあの日の約束を、破ろうよ。



 今日はお母さんの命日なんだ。

 冬本くんが言った言葉に、私は何も反応することが出来なかった。

 詳しく話を聞けば、彼のお母さんは、中学三年生の年の十一月九日に亡くなったそうだ。


「通行人が見つけてくれたんだ。」


 ビルの屋上。それだけを言って、彼は黙り込んでしまった。

 自分でじぶんの命を絶つことは、どれほどに、苦しいことなのだろう。

 私にはとても想像出来ない。

 しようと思ったことすらなかった。

 私と彼のアバンチュールな妄想だけは一丁前にできていたくせに、死に対して共感することはできなかったのだ。けれど、彼のお母さんを責めるようなことは言えなかった。きっと、その結論に至るほどの経験や苦しみがあって、本人にしか分かり得ないことだから。生きていてほしかったとしても、願いは重々しくその人を傷つけるかもしれなかった。


「助けてあげられなかったなあ。」


 静寂の中、一つだけ零れた本心は痛々しいものだった。同時に生命力に満ちた人の発言に思えた。彼は今も、実母の死を抱えて、けれども生きることを決して諦めていない。


「すごくひどい言葉かもしれないけれど、誰かを救うなんて大それたこと絶対に出来る訳がないよ。救われたって思うのは、そう感じた相手だけ。だから、冬本くんがどれだけお母さんに優しい言葉を掛けて、必死に止めて助けてあげようとしても、お母さんの受け取り次第では逆効果になったかもしれない。」

「だけど。」

「仮に、その場で助けてあげられても、お母さんは救われたと思うか、わからない。」

「っ、だけど!」


 彼のしょぼくれた姿を見るのは初めてだった。項垂れて、正座をして、腿の上で拳を握る。大人になった彼の背中がやけに小さく見えた。


「辛かったね。」


 他人行儀で辛辣な、言葉。ううん凶器だ。

 誰かを苦しめる。痛めつける。


「悲しかったね。」

「苦しかったね。」

「しんどかったよね。」


 憶測でしか物事を言えない。非力な私。

 馬鹿げた、妄想が腐って朽ちていく。


「そういうの、全部が合わさって、だけど、どれにも当てはまらねぇんだ。言いたいことは山ほどあるのに、なのに最後に出てくるのは、なんで死んじゃったんだろう、なんで助けてあげられなかったんだろうって。考えればかんがえるほど生きてるのが億劫になる。」


 私は彼の言葉に耳を傾けることにシフトチェンジした。持論を述べたところで、彼の思いは報われない気がした。どんな言葉も、彼の心にへばりつく泥になってしまう。


「つらかった。」

「くるしかった。」

「かなしかった。」

「今でもずっとそうだ。囚われてる、ずっと。でも消したくないんだ。生きていてくれてありがとうって、胸を張って言えるまで。俺は多分、変われない。報われない妄想ばっか反芻して、本当にバカみたいだろ。」


 置いていた手元のクッションを投げ飛ばした。ばふっと重厚感のある音がしたと同時に、それは冬本くんの顔面にクリティカルヒットした。

 彼は驚いた、怒った顔をして、私を睨んだ。うん、こうじゃなくっちゃ。そんなことを思った。不謹慎でも、こうでなくっちゃ。

 冬本澪は意地悪で、口が悪くて、だけど眉目秀麗で文武両道、そして格好良い。


「変わらなくていいんだよ。」

「変わらなくたっていいじゃん。誰もあなたに、こうなってほしいだとか、ああなってほしいだとか、指示してない。」

「立ち止まったまんまでも、いいよ。」


 親指を立て、上にむけた。

 グッドラック。おまけに願いも言っちゃった。

 少女漫画みたいだ、それよりも恋愛映画だろうか。

 ドラマチックだった。

 これから先、私達は重なり合う時間を持てるだろうか。今日で、おしまいだろうか。

 そうだとしてもいいやって割り切れるほどの爽快なシーンだった。

 私は、彼と、彼のお母さんの幸運を願う。祈ることだけしかできれないけれど。

 助けてあげられなかったと憂いた、悲しんで、苦悩するあなたを。

 それでも願うよ。

 幸せを。


「んだよ、それ。」


 クッションを床に置いて、彼は呆れたのか溜息を盛大に吐いて、ついでに笑った。眉を八の字にして、わらった。生気が満タンの、いい笑顔だった。私が特別好きな彼のわらったかお。


「やっぱりおまえ、馬鹿だよな。」


 数学最低点数二点をたたき出した私と、頭の良い冬本くん。

 会社を辞める私と、生きることを諦めない冬本くん。


「たしかに、そうかも。」


 あなたを想い続けている私と、私に弱さを見せた冬本くん。


「でも、どっちも、きっと大馬鹿者だよ。」


 私は彼が作ってくれた飲み物を一口含んで、喉奥へ流し込んだ。熱くて、甘ったるい。ミルクココア。美味しいね、精一杯の笑顔で言うと、彼はそうだなと短く答えた。


「おまえに会いたくなったんだ、無性に。」

「急に、なぁに。」

「あそこでばったりあったのは偶然じゃない。俺が作ったんだ、状況を。」

「意地悪だなぁ、って思った。」

「本当、そうだよな。」


 ごめん。

 嘘だよ。そんなの聞きたかったわけじゃないのに。


「我儘で傲慢だって分かってる。理解してるんだ。それでも会いたくて仕方がなかった。」


 ごめん。

 本当は嬉しかった。舞い上がっちゃうほど浮かれてた。


「本当にごめん。」

「いいよ、別に。」

「おまえと連絡取る手段なんてないから、記憶だけ頼りに、家に行ったんだ。まあ、だけど誰も居なかった。そんで帰ろうとした時に、玲の姿が見えたんだ。」

「うん。」

「おれって、本当にクソ野郎だよな。あんなこと言っておいて、玲に甘えてる。自分でも分かってるんだ。」


 ごめん。

 分かってて、どうしてそんなことを。でも、もう、なにも音は唇から出てこなかった。


 私は、生まれて初めて、人の死の孕む虚しさを突き付けられた。

 そして自分のちっぽけさに恥を知った。

 片想いに苛まれて、そこにばかり意識を集中させていた。けれど、独り善がりな恋愛ごっこに身を燃やしている中でも、こうして長年告げられずにいる事実を抱えている人がいること。吐き出したいなにかを、何年経とうとその死に苦しんでいる人がいること。いつだって私は私のことだけを無我夢中で考えている、自己中心的な人間。そうだったんだ、と感じた。

 誰かを、大切な人にすら、思いやる気持ちが欠如していた。私は、見返りばかりを求めてしまっていたんだ。

 ああ、正解だ。冬本くんはとても賢い。大馬鹿者だけど、あなたは頭がいい。


 できることなんて無いに等しい。今から私が彼に差し出せるのは傍にいる時間だけだった。

 もう二度と会えないと思いながらも、奇跡的に再会を果たして、そしてまた切り捨てられたとすら考えていた。恥ずかしかった。あまりにも、エゴスティックな私は、気色悪いエイリアンだった。

 それでも彼が、私を望んでくれるのなら、きちんと、どうなったって、一緒に居たい。


 夜寝る前、彼のお母さんの安らかな眠りを、祈った。

 別れ際、彼から携帯電話の番号が書かれたメモを渡された。ラッコのイラストが描いてあった。ラッコだ、可愛いね。そう言ったら、そうかもなと言っていた。



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