【完結】 純文学になれないわたしたち

くもの すみれ

十一月八日

 変われないまま、生きてる。

 中学生の頃は、校則で白色のソックスを指定されていた。スケートの丈だって膝下と決まっていた。通学用バッグも学校側が判断した物を使わなければいけなかった。

 染髪やピアスなんてもちろん厳禁とされていたし、それらの制約は当時の私にとってはごく自然のありふれた世界線だった。


「道行く高校生を見る度に自分と年齢そこまで変わらないのに、高校生はやけに大人に見えていて、すごく羨ましかった。だってスカートの丈は膝上にしていたし、スクールバッグには、キーホルダーとか付けたりしててさ。学校帰りにカフェでテイクアウトした飲み物を優雅に飲んでて、あぁ、私も早く高校生になりたいって、いっつも高校生に夢見てた。しかも、高校生になれば紺色のハイソックスだよ。今は、ハイソックス、流行ってないみたいだけど。めちゃめちゃ羨ましかった!青春、懐かしい。」


 十年以上前の感受性をあっけからんと吐露すると、対角線上に座る冬本くんは面白そうに声を上げた。目尻に皺を寄せ、相変わらずだなと言葉を漏らす。私は、彼の笑顔を見るのが特別好きだった。

 二十九歳、私は今、奇跡を体験している。


「しかし、おまえ、いい子ちゃんに見えて成績不良だったけどな。高校時代。」

「うっ…!」

「俺がよく面倒見てやったよなぁ、数学。三年間、赤点取らずに済んだのは、どこの誰のおかげだっけ。」


 ニタニタと笑顔に邪気が滲んだ。意地の悪い言葉だが真実であった。

 私は俗にいう、大人しそうな子だった。決して目立つわけでもなく、地味な方。

 地味というジャンル分けをされると、大体が、真面目で成績は悪くないというイメージが勝手に付与されるが、全員がそうということは無い。

 高校生活の中で、不良な行為をしたことはなかった。けれど、理数系の成績は壊滅的だった。数学なんて最低点数二点を叩き出し、顔面蒼白になった覚えがある。


「その節は大変お世話になりました。」


 深々と頭を下げると、どういたしましてと満足げな返事があった。

 ちらりと見上げた先にいる彼は、やけに真っ直ぐに私を捉えていた。変に心臓の辺りがゾクゾクとして、頬がほんのりと熱を帯びていった。見られたくないという思いが勝り、俯く私に、彼はお構いなしといった様子で言葉を続けた。


「玲は今、どんな仕事してんの。」

「営業事務!」

「へぇ。仕事、楽しいか。」

「あ、それが辞めるから、有給休暇の消化中なんだ。」

「へぇ。」


 ゆっくりと顔を上げる。私を見る、眼差しには読み取れない感情が宿っていた。私は、息の仕方を一瞬の内に忘れかけてしまった。ぎゅう、と胸の前で手を握り締める。だってそうでもしなければ、この状況に耐えられなかった。さっさとこんな会話終わらせてしまいたいと言われてるような気さえした。


「卒業してから一度も会わなかったけど、ちっとも変わらなくて安心したわ。なぁ、玲。おまえさ、覚えてるか?」


 桜の花が散っていった。私も彼もまだ高校三年生だった。忘れたいと願った日はないが、あまり思い返したくはない記憶が、走馬灯のように瞼の裏を過ぎ去っていった。


「…お、覚えてるよ。」

「卒業式の日、約束しただろ。今後、一切俺達は会わないで生きて行こうって。お互いの連絡先は消して、縁を切ろうって話したのに。また、こうやって会っちまうんだから、怖いわ。」


 浮かれていた心は、一瞬にしゅんと萎んでいった。こんな雰囲気にするつもりじゃなかった。もっと、もっと二人で昔を懐かしむ、穏やかな時間を過ごしたかった。楽しい話を笑い合って会話したい。なのに、彼は望まない。

 カフェの店内にはどこかで聞き覚えがあるようなチルが流れ、亀裂の入った私達の関係性を、和やかさのみで誤魔化そうと奮闘しているようだった。


「おまえが。」


 きゅっと目を閉じて、頭を垂れる。現実に耐える萎縮する心は、惨めさに沈んでいった。


「ごめんなさい。」


 彼は何も言ってはくれなかった。ごめんなさい、相手の目を見ずに謝ることは逃げだろうか。


「で、でも私は会えて、嬉しかった。」


 言い返したいわけではなく、ただ伝えたかった。どんなかたちであれ、二度と会えないのだと諦めていた相手に再会出来た喜びを純粋に言葉に表したつもりだった。でも、彼には逆効果だったようだ。


「じゃあな、玲。」


 彼、冬本澪。高校時代、私に数学を教えてくれた人。

 高校一年から三年まで同じクラスだった、私の、想い人。

 そして、決して私を愛してはくれないひと。

 二人で入店したカフェ。テラス席、目の前に置かれたアイスティーの入ったグラスは汗をかいていた。氷は水になって、紅茶の色味を薄めていた。千円札一枚を置いて、彼は私の元を去る。


「ふ、冬本くん。」


 待って。たった三文字すら口から飛び出ずに、引き留めることすら満足に叶わない。そもそも行動に移したところで、意味がないと分かっているからだった。響かない。

 彼は、私には会いたくなかった。その事実だけで、私はこの場に取り残されていくことは決まっていた。昇華しきれない想いといっしょに。




 高校一年生の私は、数学に取り憑かれていた。数学という文字が時間割に掛かれているだけで頭を抱えたくなっていた。必死に、どうしようか考える辺り、あれも一種の恋に近い執着心だった。

 赤点という大きな壁にぶち当たることだけは、何としてでも避けて通らなければならないという強迫観念があった。ほとんど毎日、教室で一人放課後に残って勉強をしていた。でも、数学の担当教師が懇切丁寧に説明しながら進める授業の内容をまともに理解出来ていない自分が、いくら頑張ろうが、解けるようになるはずもなく、復習という名のノートを読み返す作業と化していった。

 そんなある日、放課後の教室でいつものように一人で習った授業の内容を確認していると、声を掛けられた。大丈夫、疑問符を語尾につけて。それが冬本くんとまともに会話をするきっかけの、言葉だった。

 冬本くんは同じクラスの生徒で、性別や年齢を問わずに人気があった。

 理由は、顔は誰もが納得するほどのイケメン、高身長、成績優秀、運動神経も良し。

 眉目秀麗と文武両道とはまさに彼に使う熟語だと、先生達が話していたのを聞いたことがある。まさにそうなのだろうなと私も思っていた。

 それから彼はアルバイトが無い日は、私に数学を教えてくれるようになった。気まぐれにしては、やけに私に構ってくれるから、日に日に妙な勘ぐりさえするようになった。放課後の教室に居残る生徒は基本的にはいない。みんな部活動か、所属していなければ遊びに行ったり、アルバイトに勤しんでいた。


「冬本くんってめっちゃ懐かしい。玲ずっと好きだったよねぇ。」

「うん、そう。」

「どんな話したのよ。」

「ちょっとした近況報告かなぁ。」

「そうなんだ。でもまた会えてよかったじゃん。これで、少しは気持ち的にもスッキリしたんじゃない。片想いしてきたんだしさ。」

「…う、ん。」

「もしかして、玲、まだ彼のことが好きなの?」


 電話口の華那ちゃんは、僅かに窺うように問いかけた。言葉に思わず詰まってしまったが、ここで嘘を吐くのは、友達である彼女にも、彼に対しても失礼だと感じた。


「うん。好きだなって今もおもってる。」

「そうかぁ。」


 そこでぷつりと会話は一旦止まってしまった。華那ちゃんと私は、幼馴染同士だった。お互いの家が近所だったこともあり、幼少期は二人で公園によく遊びに出かけたりした。家族ぐるみの付き合いで、華那ちゃんの家族とキャンプや旅行をしたこともある。そんな華那ちゃんは、就職と共に実家を出て、なんと海外へ渡った。アメリカでネイルサロンを開くことが彼女の目標なのだそうだ。とても、とっても素敵だと感じた。

 夢を追いかける彼女の姿は、キラキラときらめいて映った。


「じゃあさ、連絡してみたら?」

「連絡先は卒業式の日に消しちゃったから、もう知らないんだ。それに最後の日、約束したの。」

「もう縁を切るってやつ?」

「うん。彼の迷惑になるようなことしても、逆にもっと嫌われるだけだから、今日偶然会えたことだけでいい。そう思うことにしようと、おもう。」


 私達は仲の良いクラスメイト。放課後、一緒に時間を共有することはあっても、その関係性が変わることはない筈だった。たまに冬本くんの携帯電話へ連絡をすることもあった。アルバイトが無い日は、土曜日の夜や日曜日の昼間なんかにも、数学を教えてもらっていた。

 でもいつも不思議だった。彼が何故こんなにも私によくしてくれるのだろうか、と。聞くたびに、彼は答えをはぐらかした。結局今も、その解答は貰えていないままだ。

 歪で、それでも精一杯に大事にしてきた青春は、簡単に砕け散った。

 自分の中に作り出される淡い期待がどんどん膨らんでいき、これはもしかしたら両想いの可能性もあり得るのではないかと妄想した日もあった。授業中、前の席に座る彼。出席番号順が前後しているのも、偶然ではなくて運命的なつながりがあったんじゃないかなんて、勝手に運命論を語った。

 数学の問題集を広げても一問目で躓く私に、彼はカラカラと喉を鳴らし、この前教えたじゃん、爽やかで甘い笑顔を浮かべていた。

 好きだ、気が付いた時にはそう思っていた。鳴りやまなかった、心臓の鼓動が。

 廊下ですれ違うとき、おはようとまたねを繰り返した。

 こうすれば両想いになるジンクス、縁結びの神様のおまもり。信じて、しんじた。

 少しでも彼と長く話していたくて、問題の公式を分からないふりしたこともあった。

 無言でも居心地の良い二人、という当時購読していたファッション雑誌の恋愛に関する記事を読んで、自分と彼に当て嵌めて納得して、都合よく希望を見出していた。

 声を掛けるだけで、心は、絆されていって、瞳の奥で感情がスパークしていった。

 好きだ、すき。すきなんだ。

 どこが、全部が。どこが、ぜんぶが。どこが、私に、大丈夫って聞いてくれたあの瞬間から。私は直ぐに青春の虜となった。そうして三年の間に募りにつのった想いを、卒業式の日に告白した。


「ごめん。…俺は玲のこと恋愛対象に見てない。」


 呆気なく散った。桜の花が、茶色に染まって地面の塵になるよりも先に、恋心は終止符を打たれる羽目になった。


「期待させたなら、ごめん。」

「ううん。」

「数学教えたのも、玲が困り果ててたからそうしただけで、他意は、ない。」


 ああ、そうか。眉目秀麗で文武両道だから。先生の言う通りでした。成績優秀、運動神経良し、性格は世話焼きで優しい人だったんだ。

 最初から善意だけだったんだ。

 彼は、私に対してそれ以上でもそれ以下でもなかった。

 私が望むようなしたいことは、彼の中には無かった。必要以上にスキンシップを取ることもない。単なる友達、それかクラスメイトでいられれば彼の気持ちは満たされてしまう。程度、価値、意義。向上することは無い。


「玲の気持ちは有難いけど、悪い。ていうか、俺がそういう風に思わせてたんだよな。本当に、ごめん。」

「大丈夫。」


 大丈夫で始まって、だいじょうぶで終わった恋、青い春。

 その日、彼は幾つかの約束を交わそうと持ち掛けた。一つ、お互いに連絡先を削除すること。二つ、今後一切会おうとせず生きていくこと。最後に、私は決して彼の名前を呼ばないということ。


「玲、それでもいいの。今のまま、このまま、一生報われないじゃん。」

「…それでも私は冬本くんのことが好きなんだから、しょうがないよ。」


 華那ちゃんはそれ以降、冬本くんとのことに触れなかった。

 意識的に、彼女の現在へと話題の焦点を当てたからだった。途端に口早になり、楽しそうにアメリカでの生活を語る華那ちゃんは、生き生きとしていた。

 彼女の感情に同調した私は、彼と再会したことを電話の間だけ忘れて笑顔になれた。



 十一月八日 月曜日 天気 晴れ

 高校卒業ぶりに、冬本くんに会った。有給休暇消化期間中なので、平日に出かけたけれど、バッタリ会うとは思わなかった。駅前のデパートで、会った。思わず、彼の名字を口にしてしまったから、冬本くんも無視が出来なかったんだと思う。

 カフェで少しお茶をした。けど、進展なんてちっともなかった。それでも、会えたことが嬉しくてたまらなかった。やっぱり格好良かったなぁ。髪、黒いまんまだった。でもピアスの穴はあけたみたい。シルバーの色をしたピアスをしていた。わっかになってるタイプのやつ。睫毛長いし、笑顔やっぱり、かっこよかったよ。

 もう二度と会えないかと思ってた。でも、会えた喜びを伝える術も、許可も無い。

 去り際に、結構酷いこと言われちゃったけど、でも不思議と言葉に棘がなかった。そう解釈したいだけかもしれないけれど。私、やっぱりまだ、彼のことが好き。会ったら確信した。

 帰ってから華那ちゃんと電話をした。アメリカ生活謳歌しているみたいで一安心。私も、夢があったら、なあ。良かったのに。


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