第31話

 雨が降りそそぐ中、山岡鉄太郎は倒れた月ノ輪紅之丞つきのわこうのじょうを見下ろしてたたずんでいた。

 紅之丞の顔は中央を断ち割られた赤い線に沿って引攣ひきつれていた。

 左目に巻きつけてあったさらしも剥がれている。

 しばらく壊れた笛のような音を立てて細い息をしていたが、やがて止んだ。

 いつの間にか妖剣士ともいうべき壮絶な気配は消え、昨日、金嶽剛斎かなだけごうさいとともに現れた時の優しげな青年の顔になっている。

 ――勝てたのはまったくの偶然だ。

 鉄太郎は良く言えば無の境地で、悪く言えば策もなく、おもむろに紅之丞に近づいて行った。

 何が起きたかもほとんど自覚がない。

 改めて、立ち会いの経緯を思い起こしてみる。

 鉄太郎の間合いの外から紅之丞は忍法で血飛沫を飛ばした。

 飛来する血飛沫は空中で突然消えた。

 それは背後から迫り、あっという間に鉄太郎の目の前まで広がった激しい雨のせいであったろう。

 血飛沫は雨によって空中で洗い落とされた――。

 なんたる偶然。

 いや、これも正雪と亜門の兵法ひょうほうのおかげだろうか。

 あそこで出発を遅らせていなければ、鉄太郎は血飛沫に斬られていたかもしれない。

 ――何かひとつでも違っていたら。

 そう考えると背筋が凍る。

「どちらが勝っていてもおかしくない立ち会いであった。いや、尋常に立ち会っていたらおれが負けていたかもしれぬ」

 ぎりぎりの命のやり取りに生き残った。

 剣士としてのたかぶりを感じずにはいられない。

 この立ち合いに感謝――。

 ――月ノ輪紅之丞。敵ながら見事であった。

 鉄太郎は紅之丞の亡骸を見下ろしながらしばらく瞑目した。


 雨は小降りになってきた。濡れた土の匂いが漂っている。

 鉄太郎は山道の脇の森に入って、木の根本に横たわるお満に駆け寄った。

 しゃがんで頭に被さられている柿色の頭巾を取る。

 猿ぐつわをされたお満の顔が現れた。大きな瞳を見開いて鉄太郎を見つめている。

 小柄こづかを抜いて、猿ぐつわを切って捨てた。

 続いて手足の縛めも解いた。

「山岡さま!」

 お満は鉄太郎の胸に飛び込んできた。

 鉄太郎の肩に顔を擦りつけ、嗚咽おえつしている様子が伝わってくる。

 とっさに抱きとめようとした両の腕を途中で止めた格好でなんとかこらえた。

 鉄太郎は天を見上げた。お満につられて涙が零れないように。

「怪我はないか」

 なんとかそれだけ言うことができた。

 お満は首を横に振る。

「どうして助けに来たのですか」

 なぜ助けたのか。

 正直なところ鉄太郎自身もよくわかっていない。

 月ノ輪紅之丞と雌雄を決したいという剣士としての戦いへの興奮が確かにあった。

 だが、それだけではない。

 ――おれもお満の魔性に墜ちたか。

 苦笑せざるを得ない。

「あれだ。おぬしがおらぬと、箱根の関所が越えられぬからな」

 鉄太郎はおどけてみせる。

 お満はふてくされたような顔を見せてから、声をあげて笑った。

「それにな。先だっても言ったが、おぬしの本当の顔をまだ見ていないからな」

 悪戯いたずらっぽく言ってみると、お満の顔にふと寂しげな色が浮かんだ。

「地の龍……」

「何か言ったか」

「昨日囚われた時に、太田垣蓮月がわたしに言ったのです。地の龍を知っているかと」

「そなたは知っているのか」

「いいえ。ですが、その言葉を聞かれたあとの記憶がありません」

「ふむ」

 鉄太郎は黙って考え込んだ。

「なぜ蓮月がそなたにそれを聞いたのか。勝さんの家でも聞いたが、そなたがなぜ立会人に指名されたかにも関わるのかもしれぬな」

「私には心当たりはありませんが」

「この闘争。単に江戸を火の海から守るための旧幕府と薩摩藩の争いだけではないかもしれぬ。他にも隠された目的があるのか……」

 お満が土の上に座ったまま見上げている姿に改めて気づいた。

「すまぬ、歩けるか――」

 鉄太郎は手を差し伸べた。

「正雪たちが首を長くして待っているぞ」

 うなずくお満が伸ばした手をとって立たせてやる。

 長い時間の縛めからすぐに回復しているとは、さすがは薩摩隠密と言ったところだ。

 山道に出ると、紅之丞の亡骸がある。

「これで四対二」

 お満は呟いた。


 鉄太郎とお満は箱根山を下って行った。

 山道を抜けると、鉛色の雲間から陽光が幾筋も小田原宿に降り注いでいる。

 小田原城も荘厳に照らし出されていた。

 東海道を歩いていると、前方から小さな生き物が飛び跳ねながら近づいて来る。

 狐の亜門であった。

 亜門はそのままお満の身体を螺旋を描くように昇って行く。

「まあ、亜門たら」

 小さな狐は嬉しそうにお満の首の周りを回った。

 お満はくすぐったそうに微笑んでいる。

「先生ー。お満どのー」

「せ、せ、せ」

 飛び跳ねながら手を振って正雪が駆けてくる。

 石松も地面を揺らさんばかりに巨体を揺すって近づいてくる。その童子のような顔は泣きべそをかいていた。

 その背後では市がうすく笑みを浮かべて頭を下げていた。

 ――この者たちの笑顔をもう失いたくない。

 鉄太郎は強く思った。


 一行はゆっくりと休む間もなく、小田原宿を発った。

 お満の計らいで無事に箱根の関所を越えたのであった。

 あと一日半もかからぬうちに駿府手前までにたどり着かねばならない。

 残る鬼童衆は二人。

 依然厳しい道中であることには変わりはない。

 だが、山岡鉄太郎は前だけ見つめて一歩一歩、大地を踏みしめて歩いた。

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