第32話

 時は少し遡り、決闘の舞台から山岡鉄太郎とお満が去った少しあと。

 月ノ輪紅之丞つきのわこうのじょうの亡骸のそばに太田垣蓮月おおたがきれんげつ中村半次郎なかむらはんじろうが立っていた。

「まさか山岡鉄太郎が勝つとはな」

 しばらく半次郎は目を見張っていた。

「あるいは、とは思っていましたが。山岡鉄太郎は底が知れぬお方です」

「いや、あいつはこん闘争ん中でどんどん強うなっちょっ」

 半次郎は恐れてはいない。

 むしろ鉄太郎との対決の時がますます楽しみになっている。

 それより気になることがある。

 紅之丞が決闘の前に放った一言だ。

牙刀院狂念がとういんきょうねんちゅう男がまだ生きちょっとはどげんこっだ」

「あの男は不死身です」

「なんじゃと」

「首を斬られようが、心の臓を刺されようが、死にはしませぬ」

 半次郎は息を飲む。

「すでに山岡鉄太郎たちの命を断つための支度をしているはず」

「ちゅうこっはおいがおぬしらに味方すっと、六対五になる。約定に背いてしまうではないか」

「それはご心配ないかと」

「なぜじゃ」

「中村さまが山岡鉄太郎と決着をつけるのは、わたしたち八瀬鬼童衆がことごとく敗れたあとでございましょう」

「そんつもりじゃ」

「そうでありましたら、駿府でお待ちなされませ。山岡鉄太郎が無事に駿府にお着きになってお勤めを果したあとに。そこで勝負をすればよろしいかと」

 半次郎は腕を組んでしばらく考えてから。

「おぬしの言う通りじゃな。では、おいは薩摩側の影の立会人としてこん闘争を見届けさせてもらう」

 中村半次郎は蓮月と別れて、山道を歩み去った。


 山岡鉄太郎一行は夕暮れ頃に原宿に到着した。

 原宿は東海道五十三次の中でも最も小さな宿場町のひとつである。

 原という地名はかつてこの一帯を覆っていた、「浮島が原」と呼ばれた広大な湿地帯に由来する。

 この湿地帯は農業に不向きであり、洪水や海水の逆流も多く、地元住民をしばし苦しめた。

 一方で、広大な湿地帯の向こうにそびえる富士の姿は旅人たちを喜ばせた。

 残念ながら鉄太郎たちが到着した時刻では拝むことはできないが。

 今夜の宿とする旅籠に荷を下ろした。

「明日には駿府手前の府中まで行かねばなりませんな」

 正雪が首をほぐすように左右に曲げながら鉄太郎に告げる。

「やはりぎりぎりの旅になったな」

「しかもまだ鬼童衆は二人残っています」

「うむ」

 依然、厳しい道中に変わりはない。

「もし」

 部屋の外の廊下から声がする。

 正雪がふすまを開くと、人の良さそうな旅籠の主人が笑顔で座っていた。

「この宿の裏手に岩風呂いわぶろがございます。ぜひ旅の疲れを流してくださいませ」

 それだけ言うと、頭を下げてさがって行った。


 夕餉ゆうげのあと、鉄太郎は主人に薦められた岩風呂に浸かっていた。

 周りを岩に囲まれた大きな池のようであった。

 湯気の底に月光がうすく揺らめいていた。

 鉄太郎は湯煙が立ち上る満天の星空を眺めていた。

 熱い湯の中に身体を浮かべると、疲れが溶け出していくようで心地よかった。

 ――英子ふさこ義兄あに上は息災そくさいであろうか。

 江戸で己の帰りを待つ妻と、高橋精一郎たかはしせいいちろうのことを思い浮かべた。

 岩風呂への一本道を誰かが近づいてくる音が聞こえた。

 ――他の客人か。

 鉄太郎は風呂の端の方へ流れるように移動した。

 着物を脱ぐ衣擦れの音が耳に入る。

 しばらくすると、そっと足を湯に入れる音。

 鉄太郎は何気なくそちらの方に目をやった。

 市であった。

 細い裸身が月光で青白く発光していた。

 湯で濡れぬように、長い黒髪を上げて結っている。

 小ぶりだが形の良い乳房。

 滑らかな足の付け根の淡いかげり。

 若いおなごの美しさに溢れていた。

 鉄太郎は見とれていたのも束の間、我に返って目を背けた。

 市は鉄太郎に気づかぬ様子で湯に浸かる。

 鉄太郎はそのままでいるのも気まずいと思い、軽く咳払いをひとつした。

「先生ですか」

 市がたずねる。

「ああ、市か。おれはすぐに上がるのでゆっくり漬かって疲れをとるがよい」

「邪魔をしてしまいましたか。先生もゆっくりしていってください」

「月ノ輪紅之丞との戦いで怪我をしたであろう」

「数か所。薄皮を斬られただけです」

「主人がこの湯は刀傷に効くと言っていた。おなごの肌に傷が残るのはまずいからな」

 湯の音から市がこちらに近づいて来るのが分かる。

「先生。あたしの身体、見ました」

「いや、湯煙が濃くてな。そばにいても見えぬ。安心するがよい」

「よかった……」

 悪いと思いながらも、市の目が見えないのをいいことに、鉄太郎は嘘をついた。

 市の手が鉄太郎の背に触れた。

 さするように肩や腕に触れていく。

「ご立派な身体ですね。先生がお強いはずです」

 普段は寡黙な市がよくしゃべる。野外で裸身になっていることで解放的になっているのか。

「お顔を触ってもよろしいでしょうか」

「……うむ」

 市の両手が包みこむように鉄太郎の顔を触る。

「冴えない顔で興冷めしたであろう」

 鉄太郎は笑った。

「いえ、凛々しいお顔です」

「それは嬉しいな」

「江戸の遊女たちが放っておかないのも頷けます」

「こら」

 今度は二人して笑った。


「市は年はいくつだ」

「十九です」

「なぜ次郎長一家に入ったのだ」

「幼い頃は清水湊しみずみなとの近くで母と二人で暮らしていました。母には男がいて、やくざ者でしたがあたしには優しかった」

 二人は身の上話ができるほどには打ち解けていた。

「目の見えないあたしに熱心に剣術を教えてくれたのもその男です。ただ……」

「何かあったのだな」

「博打好きで、酒癖がわるいところがあって」

「そうであったか」

「ある日、博打に負けて帰って来て。ひどく酔ってもいました。母に金を貸せと大声を上げていました」

 市の声はだんだんと昏くなっていく。

「そしてあいつは母を斬ったのです」

「なんと」

「気が付いたらあたしはあの男を斬っていた。それが初めての殺し」

 壮絶な過去であった。鉄太郎は声を出すことができなかった。

「そのあとに捕り方がたくさん集まって来ましたが、清水次郎長しみずのじろちょう親分が口を聞いてくれて、あたしは親分に連れられて行きました」

「そうであったか。つらいことをよくぞ話してくれたな」

「いいんです。つらくなんかありません」

 市が湯を肩にかける音がした。

「あたしは生まれながらのやくざ者なんです」

 市は泳ぐように着物を置いた岩の方に向かって行った。

 鉄太郎はその姿を目で追う。

 市は着物の中から小さな袋を取り出した。さらにその中から平べったくまるいものを手に取った。

 手鏡であった。

「お満さまに藤沢宿で買ってもらったのです」

 そういえば二人で買い物をしていたのを鉄太郎は思い出した。

 市は大切そうに鏡を持って顔に向けていた。目の焦点があまり合っていないのでぎこちない仕草に見える。

「市さんはきれいだから、いつか自分の姿が見れるように、とお満さまが言ってくださって」

 鉄太郎は派手に音を立てて、湯で顔を洗った。

 零れてきた涙も一緒に洗い流していた。

 ――この者たちの命を散らしてはならない。

 鉄太郎は固く決心していた。

「ねえ、先生」

「なんだ」

「あたしの身体きれいですか」

「ああ、きれいだ」

「……見ましたね」

 市は悪戯っぽく笑った。


 翌三月九日、朝早く。

 鉄太郎はお満と二人だけで原宿を発った。

 旅籠の主人には正雪たちへの書置きを渡しておいた。

 これから先は鉄太郎一人で行く。ついて来なくてよい。と書いてある。

 鉄太郎はこの闘争でこれ以上の犠牲は出したくなかった。

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