第30話

 太陽が頭上に位置している。

 月ノ輪紅之丞つきのわこうのじょうが定めた刻限である昼九ツ(十二時)が近づきつつある。

 山岡鉄太郎は箱根宿に向かって歩く。

 箱根山の手前で山道に入った辺りから森が広がっており、その中にひと際高い三本の杉の木が立っているのを認めた。

「あれが三本杉か。少し山道を登ることになるな」

 鉄太郎は考える。

 山道で月ノ輪紅之丞とまみえた場合、自然と紅之丞が高い位置から待ち構えるかたちになるであろう。

 紅之丞に有利な立ち合いになることは否めない。

 そして、紅之丞の忍法。刀から飛ばした血が刃と化す。

 相手はかなり広い間合いを持つことになる。

 鉄太郎が近づくことさえ至難のわざとなるであろう。

 ――飛んでくる血をかわすことができるか。

 刀のように太刀筋を読むことができれば、紙一重で避けることはできる。

 だが、液体の動きを読むことは難しい。

 恐らく、かわすことができるのは一度きり。

 しかも大きく体勢が崩れることを覚悟せねばならない。

 せんは無理であろう。

 ならば、なんとか先手をとる方法はあるか。

 忍法を抜きにしても、月ノ輪紅之丞はおそるべき剣士だ。

 たとえ近づくことができたとして、尋常な立ち合いでも鉄太郎の北辰一刀流ほくしんいっとうりゅうおよぶかは分からない。

「いずれにせよ。勝負は一瞬」

 鉄太郎はいつの間にかゆるやかな登りになっている道を進んだ。


「遅いな」

 月ノ輪紅之丞は箱根山の山道の真ん中に立って、こちらに登って来る者を見ていた。

 お満は、道を囲む森の中の大木の根本に縛めをして寝転がされていた。

 頭には柿色の袋を被されて、外れないように首のところを紐で絞めてある。

 旅人がまばらに通り過ぎる。

 その者たちは紅之丞の方に少し目をやってから、すぐに目を逸らしてそそくさと歩き去って行った。

 なぜなら、紅之丞の足元には男がうずくまっていたからだ。

 しかも身体のあちこちが傷ついており、瀕死と言ってもよい有り様であった。

 瀕死の男はよく見ると凶状持きょうじょうもちともとれる面構えをしている。

 まさに異様な光景であった。

「かつて巌流島がんりゅうじまの決闘では、宮本武蔵みやもとむさしがわざと遅参ちさんして、待ちくたびれてしびれを切らせた佐々木小次郎ささきこじろうを斬ったという兵法ひょうほうを使ったというが――」

 紅之丞の隻眼が不敵に光る。

「このおれにそのような兵法は通用せぬぞ。山岡鉄太郎よ、早く来い」


 山岡鉄太郎はゆるやかな登り坂を歩いて行く。

 森の葉擦れの音がする。

 ――風が冷たくなってきたな。

 背後の空がごろごろと鳴っているのは気のせいか。

 木々の影からのぞく空を見上げると青く晴れ渡っている。

 目線を落とすと、前方に忽然こつねんと男が立っていた。

 果せるかな、紅之丞は鉄太郎より高い位置にいる。

 左目にさらしを巻いている

 鉄太郎は被っていた菅笠を捨てる。

「月ノ輪紅之丞」

「待ちかねたぞ」

「約定どおりひとりで参った」

「まずは褒めておこう」

 紅之丞はうっすらと笑みを浮かべて見下ろした。

「目は大丈夫なのか」

「心配無用。両の目の時よりもよう見えるわ」

 右の三白眼が射貫くように見つめる。

「お満……、益満休之助は」

「あそこだ」

 紅之丞は右手をあげて指さす。

 山道の脇の森に入ったところの木の根本に横たわっている女がいた。頭に柿色の袋を被せられている。

「それは」

 鉄太郎は紅之丞の足元に倒れている男に目をやった。

「ああ。おぬしが気にする必要はない。ここに来る道中に山の中で旅の女を犯そうとしていた男でな。少しいさめてやった。おれの肉鞘にくさや、いや血鞘ちざやにするにはちょうどよいのでな」

 言うや、おもむろに紅之丞は刀を抜いて男を刺した。

 男の絶叫が山中に響く。

 紅之丞が刀をゆっくり引き抜く。その刀身は深紅に濡れ光っていた。

 ――忍法の仕込みをしたか。これで容易には近づけぬ。

「さあ、来い。山岡鉄太郎」

 紅之丞は息絶えた男を脇に投げ捨てた。

 鉄太郎は深く息を吸う。

 ――雑念を捨てよ。己の剣を信じよ。

 丹田たんでんに力をこめてからゆっくりと息を吐き出した。

「いざ」

 鉄太郎は再び歩み出した。


 月ノ輪紅之丞は近づいてくる山岡鉄太郎を見下ろしていた。

 お互いの距離はまだ五間(九メートル)はある。

 鉄太郎は何も気にする様子もなく歩を進めて来る。

 紅之丞は鉄太郎が近づいてくるのを待つ態勢だ。

 山岡鉄太郎は見れば見るほどに敵として、剣士として申し分がない。

 紅之丞は八瀬童子としてより剣士として、数秒後にはどちらの剣が勝るか決するその瞬間に心が踊っていた。

 昨日、剣を交えた時、紅之丞は鉄太郎の刀を弾き飛ばしたつもりだった。

 だが、鉄太郎はその打込みに耐えた。

 鉄太郎の歩く様子を見ると、忍法紅落花くれないらっかのことは知らないようだ。

 よし、紅落花で斬ってやろう。もっと近づいて来い。

 ――紅落花の間合いは二間(三・六メートル)。

 紅之丞は向かってくる鉄太郎の歩みにのみ集中していた。

 自然と目に見えるもの、耳に聞こえる音、鼻に入る臭いさえ一切の事象を遮断している。

 鉄太郎との距離が三間(五・四メートル)を切った。

 喜悦の笑みがこぼれぬように、紅之丞は刀を構えた。


 紅之丞との距離は三間。

 鉄太郎は、紅之丞が早くも刀を構えるのを見た。

 それでも歩みを止めない。

 背後からさらに冷たくなった風が吹きあがってくる。

 何かが細かく葉を叩く音が聞こえてくる。

 ――雨か。

 鉄太郎は脳裏でそう感じたが、すぐにその思いを消し去った。

 これから起きる一切に身をゆだねる。

 山の自然に溶け込む。

 今この瞬間にのみ心を置く。

 さすれば、己の身体が知らずに動いてくれるであろう。

 まだ刀の柄には手をかけない。

 そこには理由も策もない。ただ、己の身体に従うのみ。


 ――あと三歩。

 紅之丞の隻眼に狂喜の色が浮かび上がっていた。

 鉄太郎が紅落花の間合いに入ろうとしている。

 紅之丞は中段の横薙ぎの構えで待ち受けている。

 ――あと二歩、あと一歩。

 鉄太郎が間合いに踏み込んだ。

「忍法紅落花!」

 紅之丞は紅い刀身を横に薙いだ。

 必殺の血飛沫が山岡鉄太郎めがけて射出された。

 二人を隔てるものは何もない。

 紅之丞は勝利を確信した。


 紅之丞が二間も離れた位置で刀を横に薙ぐのを、鉄太郎はただ見つめていた。

 血飛沫が飛来する。

 その血飛沫がふと消えた。

 そのときには、背中に何かが当たる感触が、すぐに肩、頭、顔に移り、目の前に銀の幕が降りていた。

 ――雨がここまで。

 歩みを止めていなかった鉄太郎は紅之丞の目の前に立っていた。

 紅之丞は驚愕の色を顔に浮かべている。

「ひっ」

 紅之丞は素早く背後に飛んだ。

 鉄太郎の腰間ようかんから銀光がほとばしる。

 届けとばかりに右手を伸ばして突き出した刀を斬り上げる。

「化物退治、第三番!」

 鉄太郎の刀は紅之丞の顔を顎から鼻にかけて縦に断ち割っていた。

 後ろに飛んだ紅之丞はしたたかに背中を地に打ちつけて倒れた。

 雨の音。濡れて重くなった着物。

 動かなくなった月ノ輪紅之丞。

 鉄太郎はようやく我に返った。

「五寸釘、仇はとったぞ」

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