星降る夜に奇跡は起こらない。だけど天使が祈るのは――

リウクス

ベテルギウス

 私は天使。

 とある少女の魂を回収するため、地上に舞い降りた。彼女は草木の生い茂る片田舎に建つログハウスで家族と共にひっそりと暮らしている。


 畦道を辿って目的地を目指しているのだけど、自然に囲まれた環境なだけあって空気がどこまでも澄んでいて清らかだ。

 輪郭を月光に照らされた深緑の稲葉は瞬く星々のように鋭く輝き、疎らに煌めく鉄紺てつこんの夜空と境なく調和している。

 足元をざらざらと流れていく砂利道はさながら天の川のようだった。


 こんなにも素敵な夜にはきっと何か良いことが起こるものだと、一瞬そう思わされるほど美しい展望がそこにはあった。


 だけど、そんな自然美を目の前にしても、私の憂鬱が完全に晴れることはない。


 私は自分の仕事があまり好きではないのだ。

 私の仕事は肉体から抜け出た魂が現世を彷徨わないよう回収することだから、人が死ぬ直前に側で待機している必要があるし、その時間本人や家族の絶望に暮れる様子を眺めていなければならない。

 私たち天使には死という概念が無いし、他者との縁を持つことはないから、彼らに深く共感するようなことはないけど、長年人間を観察していると妙な想像力を培ってしまうものなのだ。この人は苦しんで死ぬのかな、とか。この人の人生は幸せだったのかな、とか。そういうことばかり考えてしまう。


 実際のところ、客観的に見て幸せな顔をして死んでいった人間は少ないと思う。誰も彼もが未練を残して、後悔を想いながら、遠くを見つめて眠っていく。

 だけど、だからといって私たち天使が同情で個々の魂を特別扱いすることなどできない。魂を霊体に変換してやり残したことを果たさせるなんてことは絶対にできない。全ての生き物はみな等しく死が終着点であるのだから、それを超越することは許されないのだ。

 したがって、この世に幽霊と呼ばれるものは滅多に存在しない。


 この世界は雪が降った日の午後みたいに冷たく無慈悲なのだ。


 そうやって思案に耽っていると、いつの間にか不自然に年季の入った材木の乾いた匂いが鼻を掠めて、すぐそこに平屋があることに気がついた。

 木製ドアの磨りガラスから淡く橙色の光が漏れていて、中からは囁くような男女の話し声が聞こえる。恐らく今日眠りにつく少女の両親だろう。

 神からの報告によれば少女は中学1年生で、幼い頃から病弱。小学3年から少しずつ体力が落ちてきて、5年の後半からはほとんど寝たきり。両親は在宅の仕事に移行して彼女につきっきりだそうだ。


 実体を持たない私がドアをすり抜けて屋内に入り込むと、玄関から真っ直ぐ続く廊下の両端には後から手作業で付けられたと思われる手すりが整然と並んでいた。

 少女の体調が良い時は体力向上を図って歩かせたりしていたのだろうけど、そんな努力も全て無に帰すことになる。

 誰が何をどれだけ頑張ろうとも、人間が生き物である以上向かう先は一つに決まっているのだ。


 ならば命は一体なんのためにあるのか。そんなことは考えても無益なだけだ。世界というものはただそういう風にできてしまっただけなのだ。そこに論理的な意味も答えも存在しない。


 家族の暖かみに溢れたこの場所も、死をもってすれば悲しみの象徴へと変わる。綺麗な思い出の中に少女の死という事実が取り憑いて離れなくなってしまう。


 全くもって理不尽な世界だ。


 私は足音を立てることもなく、ただ流れるように、導かれるように、声のする方へと向かった。一番奥の部屋だ。


 果たしてこれは天国の扉か地獄の門か。


 私が頭だけ突き出して顔を覗かせると、そこには薄く目を開けながらベッドに横たわる少女と、彼女をぼんやりと照らす間接照明の隣で丸椅子に座りながら古いアルバムを開けて静かに語りかける両親の姿があった。

 少女は両親を心配させまいと精一杯の笑顔を見せるように取り繕っている。

 細く乱れた黒髪が透き通るような白い肌と絡み合って、今にも崩れてしまいそうだった。


「ねえ、覚えてる? 昔裏の広い丘であの子と一緒に天体観測したわよね」


「うん……オリオン座……見た」


「懐かしいなあ。ベテルギウスって名前の由来話したらあの子に怒られたっけな」


「あら。なんのことだったかしら」


「ベテルギウスの意味は脇の下ってやつだよ。それは一説にすぎないしカッコ悪いからやめろって言われて」


「そういえばそんな話してたわね」


「……はは」


 アルバムを一枚一枚捲りながら、思い出話に花が咲く。


 どうやらこの家族は天文が好きらしい。


 あの子というのはいくつかの写真に写っている少年のことだろうか。柔らかく微笑む少女の隣で活発に歯を見せる姿が印象的だ。恐らく幼馴染というやつだろう。写真を見る彼女の嬉しそうな表情から察するに、相当親しい関係であったことが窺える。


「そういえば、今夜はオリオン座流星群が極大だそうだよ。窓の外眺めてれば流れ星見えるかもしれないね」


「……そう、なんだ」


 それにしても皮肉なものだ。天文好きの少女が、広い夜空を見上げることなく、この閉じられた空間で朽ちた天井を仰ぎながら死んでいくことになるのだから。

 もっとも、彼女が死ぬまでにもう残り時間があまりないから、外に出ようが出なかろうがどうせ流れ星は見られないのだけど。


 私は少し居た堪れなくなって、部屋の隅で膝を折って抱えるように座り、彼女らを横目で見ながら縮こまった。


 少女の頭上にかけられた壁時計がゆっくりと、確かに針を打つ。だけどその音は鈍く、今にも止まってしまいそうだった。


「彼、明日にはこっちに来れるそうよ」


「あっちに引っ越してからはなかなか会えなくなってたもんなあ。男の子だしあっという間に大きくなってるんだろうなあ」


「……たの、しみ」


 己の運命をすでに悟った少女が未来への希望を口にするのは、きっと本気でそう信じているからじゃない。死ぬのが怖いから、死ぬんだと身構えて死ぬんじゃなくて、あくまで平然を装って、何事もなく死にたいのだろう。


 彼女の両親も、きっとそれを承知の上でこれから先の話をしているのだ。

 明日が来ることは誰にとっても当たり前のことのはずなのだから。


 それからアルバムの年代が進むごとに、写真が減っていって、彼らの口数も少なくなってきた。


「……もうこんな時間か」


「……そうね。少し遅くなっちゃったわね。眠くない?」


「……ちょっと、だけ……」


「昔から毎晩9時過ぎにはちゃんと寝てたもんなあ」


 時刻はまだ8時30分を過ぎたところだが、普段はやることがないからすぐに就寝する習慣がついていたのだろう。


「……もうおやすみする?」


 間を置いて、子守唄を歌うような優しい声色で母親が問いかけた。


 すると、少女が掛け布団の横から寂しそうに手を出して彼女の袖を掴んだ。


「……ま……だ」


 浅い呼吸の混ざったか細い声が無音の室内に浸透していく。


「……そうだな。たまには夜更かししちゃってもいいかもしれないな」


 そう父親が言うと、少女は上がらない口角を上げようとしていて、それを見た母親が表情筋だけで懸命に涙を堪えようとしていた。


 恐らくあと30分ほど。

 彼女の命はもう間もなく尽きる。


「……ね……え」


「……うん?」


「おか……あ、さん。お……と……うさん。あり、が……とう」


 口元を震わせながら、一文字ずつ丁寧に発せられたその言葉は、両親の肺腑はいふを貫いた。


 きっと、死ぬその間際まで両親から送られる愛情の全てに、最大限の感謝を示したくて、今日まで伝えず大事に取っておいた言葉なのだろう。

 絶え絶えながらも、声に乗った感情の大きさを痛切に感じ取ることができた。


「うん……うん…………」


「…………」


 対して両親の沈黙には躊躇いが垣間見える。


 彼女に生きていてほしいと願う限り、応えられないのだ。それは必然的に諦めを意味するから。

 しかし、それと同時に、応えてやらねば彼女の気持ちを無下にすることになるというのも事実。だから――


「……うん。……こちらこそありがとう」


 ああ、言ってしまったな。と私は思った。


 ここまで来たら両親がすることはただ一つ。少女を看取ってやることだけだ。つまり、彼女の人生はすでに終わったも同然。もう身体的な生命活動が続いているかいないかの違いしかない。


 ――さて、そろそろ準備をしておこう。


 私は立ち上がって、少女の左手を握る両親の側に立って彼女を見下ろした。


 ……まあ、悪くない最期だったんじゃないのかな。


 幽霊にしてあげることはできないけど、せめて魂は迷ってしまわないよう、速やかに回収してあげよう。


 私は形式的に深呼吸をして身構えた。


 ――すると突然、ドアの向こうの玄関から目の覚めるような戸を叩く音が聞こえた。


「諸星です!諸星希もろぼしのぞみです!天王寺さんいますか!?」


「……の、ぞみ……くん」


 希くん。もしかして写真に写っていた少年だろうか。名前は女性的だが声は中性的というか、恐らくまだ声変わりを経ていないような印象だ。


「希くんって確か明日来られる予定だったわよね」


「わからない。どうしたんだろうな」


 二人は困惑しつつも、父親が玄関まで出て確かめに行った。


「あ。お父さんこんばんは」


「希くんじゃないか。どうしたんだい。大事な大会があるとかで、今日は都合が合わなかったんじゃ」


「はい。でも、今朝テレビで流星群の話題を聞いて、そしたら居ても立っても居られなってしまって。気づいたら新幹線乗ってました」


 見ると少年は青い部活動ジャージを着たままここまでやって来たようで、その行動が本当に衝動的だったことが察せられた。


「……そうか。ありがとう、来てくれて。でも、よかったのかい?」


「大会のことですか? もちろん大丈夫ですよ。テニスはいつでもできますけど、その……」


 少年は少し言葉に詰まると、空を見上げて口を開いた。


「……流星群は、今夜が極大ですから」


「……そうだね。……さあ、中へおいで、つむぎも希くんに会えるのを楽しみにしていたよ」


 そういうと父親は少年を家に招き入れた。

 少年は言い慣れたようで、どこか回顧するように、おじゃまします、と呟いた。

 軋む廊下に自分の成長と時の移ろいを感じている。そんな顔をしている。


「ほら。ここだよ」


 そして、ドアはゆっくりと開かれ、小麦色の滲む薄暗い部屋の中に、廊下の淡い光が差し込んでいく。きらりと舞う埃が印象的に見えた。


「紬ちゃん」


「……の、ぞみ……くん」


「久しぶり」


「……う、ん」


 元気にしてた?

 と聞けたらどれだけ幸せだっただろうか。


 少年は先ほどまで父親が座っていた丸椅子に腰掛けた。


「た……」


「ん?」


「……い、かい」


「ああ、大会。さっきお父さんにも言ったけどさ、今夜は流星群が極大だから。どうせなら紬ちゃんちの広い丘で見たかったんだ」


 少年はできるだけ希望を持たせるような含みで言った。


「紬ちゃんは流星群、見たくない? 昔みたいにさ」


「み……た、い」


 少し焦り気味に答えた少女が息を整える。


「…………け……ど」


「……」


 少年も彼女がすでに事切れる寸前であることを察しているようだ。

 彼女の接続詞から続く言葉を問うことはなかった。

 しかし――


「確か、予測極大時刻は9時だったよね」


「……?」


「見頃なのは12時過ぎだと思うけど、それでも見れることに変わりはない」


 少年は立ち上がって少女に手を伸ばした。


「見に行こう。流れ星」


 その提案に、少女の両親も当然目を丸くしていた。


 何を言っているんだ。この少女にはもうそんなことをする時間も体力も残っていないのだぞ。


「俺がおぶっていくからさ」


 この行動に対する責任も、君の想いも、俺が全て背負うから。


 そう宣言しているような気がした。


「だから、さ」


 少年が力無い少女の左腕に手のひらを被せる。


「希くん……」


 隣で母親が眉尻を下げてその様子を見つめていた。


「…………うん。いいんじゃないかな。見に行こうじゃないか。流れ星」


 重たい沈黙を破ったのは父親だった。


「お父さん……」


「希くんが今日この日の夜に来てくれたのも、きっと何かの縁だ。僕たちだけだったら……そんなこと考えもしなかったかもしれない。だから、とにかく、やってみようよ」


 彼は少年の肩をポンと叩いて和かに微笑んだ。


「そうと決まれば、早く行こうじゃないか。外は寒いから毛布を持っていこう。希くんは、紬を頼んだよ」


「……はい!」


 瞬間、視界がとても明るくなったような気がした。部屋全体が希望に満ち溢れていた。


 どんなに特別な夜だとしても、奇跡は起こらないというのに。

 それなのに、この家族は、遠足前の子どもみたいに目を輝かせていた。


 ……これだから、この仕事は好きになれないんだ。


 少年が父親の助けを借りながら少女を慎重に背負って、しっかり支えると、母親はそこへ毛布をかけて、少女の頭を優しく撫でた。


「じゃあ、行こう」


 タイムリミットまであと10分。


 泣いても笑っても、きっと運命は変わらない。

 だから、私のやることも変わらない。

 彼女の側に立って、魂の還る場所へと導いてやるだけだ。


 それから、家族と共に外へ出ると、木々が生い茂る裏の方へと回って、そこから1分ほど獣道を歩き、ドーム状に盛り上がった広い丘に辿り着いた。


「わあ……!」


 見渡す限りの星屑の空。

 川のせせらぎみたいに清らかな空気が肺を包み込む。

 新月の夜に光害のない完全な自然環境、星を見るにはこれ以上ない好条件が揃っていた。


 この空をスコップで掬い上げたら、どれだけの宝石を発掘できるのだろう。

 そんな他愛のない疑問が思わず頭の中を過った。


「紬ちゃん、見える?」


 少年は少女を仰向けに抱きかかえるようにして、問いかけた。


「……うん。……き……れ、い」


 少女の笑顔からぎこちなさは消えて、この場にいる全員が心から幸せを噛み締めていた。

 ……もちろん、私一人を除いて。


 ――残りは3分。


「あ! ほらあれ! オリオン座! 向こうでもよく見えるけど、やっぱこっちで見たほうが断然綺麗だね!」


 少年が興奮して子どもみたいにはしゃぎだす。実際まだまだ子どもなのかもしれないが。


 そんな彼の姿を見て、少女は切なげに破顔する。


 ――恐らく、少女が本当に好きだったのは天文学などではない。彼女が好きなのは、愛しているのは、きっと――


「流れ星、見られるといいね!」


 あと2分。


「一箇所にこだわるよりも、全体を眺める方がいいらしいよ」


「…………ふふ」


「どうしたの?」


「……わき……の、した」


 そう言って少女が指差したのは、煌々と輝きを放つオリオン座α星ベテルギウス。地上から見える恒星の中で9番目に明るいと言われるそれは赤色超巨星であり、もうすぐ寿命を迎えるのではないかと囁かれている。


「そういえば、お父さんがそんなこと言ってたね。それでなぜだったか俺は怒ったんだっけ」


 少年ははにかんで、少女の見つめる先を臨んだ。


「……でも、たとえベテルギウスが脇の下だとか、そんな他愛のない意味だったとしても、俺はずっと、これから先も、この星のことを愛し続けるよ」


 少女の視線は彼の重力に惹きつけられて、もう星の方を向いてはいなかった。


 ……あと、30秒。


「……ね、え」


「ん?」


「わ……た、し………….も」


 少女が最後の力を振り絞る。


「わたし、も、ずっ……と、ずっと、大好き……だよ」


「…………」


 何て応えたらいいのか分からず、少年は僅かに口を噤んだ。

 そして、


「…………ありがとう」


 お互いの瞳を見つめ合い、そう一言感謝の気持ちを伝えると、彼は頬を赤らめて天球を見遣った。


 すると――


「…………! 流れ星!」


 星々を敷き詰めた藍色の球面を、一筋の白い光が駆けていった。


 それは紛れもなく、流れ星。

 少年は満面の笑みで空に叫んだ。


「……紬ちゃん! 流れ星、見れたね! 凄く、凄く綺麗だった! ねえ、紬ちゃんはどう――」


 だけど、私は知っている。

 星降る夜に奇跡は起こらない。


「………………紬、ちゃん?」


 だから、今私の手にあるものは――


「ねえ。紬ちゃん?」


 少年の震える声色に頭を殴られて、母親が膝から崩れ落ちる。必死に堪えていたものが、滝のように溢れ出した。


「……紬っ」


 父親は絶句して、声にならない呻き声を上げながら、何もできないでいた。


「……あ」


 そして少年は気づく。

 自分の腕の中で少女が少しずつ体温を失っていくのを。


「待っ……」


 言いかけて、一雫の星が頬を流れた。


「あぁ」


 少年の声が裏返る。

 そして、彼は少女だったものを強く抱きしめた。


 そこへ夫婦が駆け寄ると、彼らもまた、少女が冷たくならないうちに、その熱を大切に包みこうもうとしていた。


「うぅ」


 数多の流星が、少女の頭上を走っていく。されど彼女はもう二度と目を覚さない。

 どれだけ星に願いを込めたって、失った命は戻ってこない。

 死んだ人間に会える方法なんて、この世にもあの世にも存在しない。


 私たち天使の仕事は、こうして死にゆく人々の魂を、あるべき場所へと導いてやることだ。


「ほんと。救いのない世界だ」


 私は手元で光る魂を薄めで眺めながらため息を吐いて、星々に向けて両手を合わせた。


「私が、導いてあげるから」


 意味のないことだとは分かっている。

 だけど、こんなことでもしないと、やりきれなくて仕方がないから――


「この魂がいつか、もう一度、彼らと巡り合う日が訪れますように」


 ――あの流れ星に、想いを託すのだ。

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星降る夜に奇跡は起こらない。だけど天使が祈るのは―― リウクス @PoteRiukusu

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