叔母の友達 4

 それからはひたすら無言。


 雨音と、車の稼働音と、鼻をかむ音、それしか耳に届かない。

 雨に濡れた窓は、予想通りいつもと違う光景で、気持ちが落ち着いてきた頃には日が沈み、街灯がついたことで思わず見惚れてしまった。

 灯りの周りがぼわぼわしてる、それがすごく綺麗。

 そっちに意識を向けすぎて、いつの間にか車が停まっていたことにも──真東さんに見られていることにも気付かなかった。

「……っ」

「あ、いや」

 彼はかなり狼狽えている。

 私もびっくり。

「見たことなかったもんだから、つい」

「……何を?」

 真東さんの口が、開いた状態で固まって、だけどすぐに閉じて。

 じっと、私を見る顔はちょっと怖くて、でも、言うべきか迷っている感じで。

 待ちがてら、綺麗な光景でも見ようかと、視線を逸らしたら──その口を開いた。


「藤宮は、俺の前で泣かなかった」


 何かを、押し殺しているかのような声音。

「基本的に表情が変わらない奴だった。常に真顔で、けど変なタイミングで思わず笑ってしまうような一言を口にする。それが本当に面白い上に、たまに自分でも笑うことがあるんだ、くふって。そんな時に浮かべる表情や、その後の恥ずかしがる姿とか、妙に頭にこびりついて……そういう日は、一睡もできずに朝を迎えるんだ」

 それなのに言葉には、懐かしさが滲み出ている。

「同好会は二人だけで、藤宮が他の誰かといる所なんか一度も見たことがない。だから、そんな藤宮を知っているのは、俺だけだと思ってた」

 ぼすん、と前から音がしたので見たら、真東さんは正面を向いて、運転席の背もたれに身体を預けていた。

「普段は活動が終われば、一緒に学校を出ていたんだが、ある日、俺の方で約束があって、先に出たんだ。まぁ、校舎を出て五分と経たない内に今日は無理と相手から連絡があった上に、忘れ物をしたことに気付いて、取りに引き返したが。……大した物じゃないんだから、次の日にすれば良かったのにな」

 苛立たしそうに、髪を掻きむしる。

「俺と藤宮がいた空き教室に、藤宮と兄貴がいた。藤宮はハンカチ目に押し当てて、肩を震わしていて。そんなあいつの背中を、兄貴がゆっくりさすってるんだ。見たこともない穏やかな顔でな」

「……お兄さん、どうしているんですか?」

 叔母が入学した時には卒業してるはず。

「用務員さんと仲良くて、たまに会いに行ってたんだ。そのついでに、同好会にも顔出ししてた」

 そんなこともあるのか。……いやいや。

 それよりも、ハンカチ押し当てて肩を震わしてたって、それ。

「静かに、泣いてた。あいつらしい泣き方だと思う。どんな理由で、どんな経緯で、そうなったのかは今でも知らない。どうにも……訊けなかった」

 次に会った時もいつも通りで、会話をしても、その時の内容を察せられるようなものはなく、いつも通り。

 その後も特に関係が変わることもなく、真東さんが卒業してから直接会うことはなくなったけど、たまに電話やメールで連絡を取ってたみたいで。

 それすらなくなって音信不通になったのが、叔母も卒業して一年後。──お兄さんが亡くなったそうだ。

「逢い引きするんだ、とか言って出掛けた後ろ姿が最後だった。車にはねられたらしい。病院から家の電話に連絡が来た時には、もう。家には俺しかいなくて、早く伝えようと親の番号に掛けたつもりが、気が動転してたのか、藤宮に掛けてて」

 お兄さんのことを伝えたら、叔母は今日会うつもりで、と答え──その後のことを、真東さんはよく覚えてないらしい。

 いつの間にか病院に来て、眠るお兄さんの元に案内されている途中で、携帯にお母さんから電話が来たことで、ご両親に連絡してなかったことに気付いたと。

「で、それっきり。電話番号もメールアドレスも変えられて、家もどこにあるか、その時に知らないことに気付いて。そのまま数年間、藤宮から連絡があるまで、どこにいて、何をしてるのか知らなかった」

「叔母から?」

「あぁ。少し前にテレビの街頭インタビューに答えたんだが、その番組を偶然藤宮が見たらしく、駄目元で掛けてきたんだと。俺も驚いたが、あいつもかなり驚いてたな。番号変えてなかったのかって」

 はは、と短く笑うその声は、ほんのり自嘲が込められていて。

「今までどうしてたとか、今は何をしているかとか、色々話したが、特に君のことが多かったな」

「ふぇっ、私?」

 思わず変な声が出た。

「自分が今後結婚する気も、子供を産む気もないから、お袋さんから孫を取り上げたくないと、お袋さんの為だけに君を引き取ったけど、いつの間にか君の存在は、藤宮の中で大きくなったって」


 言葉もろくに話せなかった幼児が、今や私を見下ろして、ふざけてお母さんとか言ってくるんだ。

 何だか姉に悪いよ。

 産んでないのに、お母さんにしてもらって。

 来年には高校三年生。進学か就職かまだ迷っているみたいだけど、ゆっくり決めたらいいと思う。

 私も母も、許される限り、傍で支えていきたい。


「……っ!」

 叔母の微笑みが、脳裏を過る。

 時間と共に記憶は薄れていくと聞いたから、そうならないように、毎夜寝る前に一緒に撮った写真を見てるけど、その必要はないかもしれない。

 これが薄れることはきっとない。


 産みとか、育てとか、関係なく──藤宮霧湖は私の母親だった。


「真東さん。……ありがとうございます」

「……いや」

 散々泣いたのに、また出そうになるのを堪える。かなりティッシュを使わせてもらったから、使い切ってしまいそうでさすがに悪い。

 ──牡蠣沼君に謝らないと。

 彼にも言われていたのに。叔母が育ててくれたことは間違いないんだから、それでいいじゃないかと。

 でも私が変なことにこだわって、否定して、こじれて。

 ……まだ話せる内に、話しておこう。

 真東さんの話を聞いていたら、自然とそう考えていた。

 フロントガラスに目を向ければ、既に家の近くにいることが見て取れて。

「今日はこのまま、うちに来ますか?」

 私が訊くと、びっくりしたのか、真東さんの肩が一瞬跳ね上がった。

「い、いや、今日はこのまま帰らせてもらう。お婆さんに何の連絡もしていないから」

「そうですか……。なら、後日、うちに来た時に、何か真東さんの好きな物、作らせてください。私の腕がいいのは知ってますよね」

 今日のお礼に、どうか。

 私がそう言うと、真東さんは振り返って、じっと私を見つめる。

「……いいのか、その、これからも」

「……もちろんですよ。真東さんとはまだ、叔母の話をしたいです」

「……ありがとうな、嬢ちゃん」

「こちらこそ」

 不思議な真東さん。

 なんだか今にも泣きそうな顔してる。

 ……真東さんにとっても、叔母は大切な人だったのかな。


 何度もお互いに頭を下げて、ドアを開ける。

 雨はまだ降ったまま。

 私のお気に入りの傘を差して、外に出る。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 そんな言葉を交わして、私は車から離れた。

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