第9話 【過去アンナ・幼少期】
父親は仕事で居ない。もう一週間も顔を見ていない。
八歳の少女アンナは今日も一人でロキロキの街を歩いていた。家に居てもする事がなかった。
王都は相変わらず人で賑わっている。しかし彼らは皆忙しそうだ。商売人は声を張り上げ、大きな荷物を背負う馬車たちは目的地へと急いでいる。
八歳の子供にかまってくれる暇人なんてどこにも居ない。街の日常に寂しい少女は組み込まれていない。
しかし彼女は構わなかった。今日も少しずつ、散歩する範囲を広げていく。見た事のない新しい景色に出会うことだけが彼女の日々の楽しみだった。
今日は東まで足を伸ばして鍛冶屋街まで来ていた。
ブラックスミス王国は昔から鍛冶や採石がとても盛んな国だった。今でこそ第三次産業が増えたが、その名残で今も鍛冶界隈は盛り上がっている。広い範囲で鍛冶屋が立ち並び、外国からのカスタマーもわざわざここへ足を運ぶ。
そんな鍛冶屋街は八歳の少女には十分すぎるほど魅力的だった。鉄を叩く音や飛び散る火花。大きな煙突に鉄の匂い。彼女はキョロキョロと、輝く瞳で物珍しく見ながら街を散歩していく。
ドスンっ。
だからこそ彼女はその男に気づかず、鼻頭から思いっきりぶつかってしまった。
「い、いたぁい…」
「嬢ちゃん大丈夫か?」
それは巨大な男だった。身長は二メートルもあり、しかも筋骨隆々の大男だ。小さいアンナからしたら尚のこと大きく見えた筈だ。
「アンナは大丈夫! おじさん、ぶつかってごめんなさい」
アンナは礼儀正しく頭を下げて謝罪する。
「ガッハッハ、気にすんな! だけど気をつけて歩くんだぞ? この街には火とか武器とか、そういう危険な物が沢山あるからな」
「うん、わかった! おじさん優しいね!」
「ちっちゃいのに見る目あるじゃねぇか。十年後には俺にプロポーズしに来てもいいんだぜぇ?」
「それは大丈夫です!」
「そ、そうか…。じゃあ、俺はそろそろ行くわ。今日から忙しくなるんだ」
「うん! バイバイ、またね!」
二人は手を振り、男は去って行った。
「もっとお話ししていたかったなぁ」
少女は少し悲しくなったが、こういうのは慣れっこだ。
(大人はみんな忙しいもんね)
実の父とももうずっと遊べていない。たまに家に帰ってきても、一緒にやることといったら食事かお風呂ぐらいだ。寝る間に少しだけ本を読んでもらい、起きる頃には既に置き手紙しか残っていない。
「そろそろ帰った方がいいかな」
夜は出歩かないようにと、死んだ母との約束だ。彼女は今でもそれをしっかりと守り、暗くなる前に帰宅するようにしている。今から帰れば夕飯を買いに寄ったとしても十分間に合うだろう。
「今日は何にしようかな♪」
明日は日曜日だし、今晩は父が帰ってくるかもしれない。だったら少しでも豪華な料理がいいなと、八歳のシェフは考える。
「パパの好きなお魚料理にしよ! だったらダニーおじさんのお店寄らなきゃね!」
アンナは鼻歌を歌いながらスキップで来た道を戻っていく。彼女のその可愛らしい姿に、すれ違う大人たちもつい足を止めて微笑ましそうに目を細める。
魚でいっぱいの籠を持って家に入る。中は薄暗く、家には誰も居ないようだ。
「そっか…。今日も帰れなかったんだね」
少女は悲しそうに俯く。しかし自分を責めるようにパンパンと頬を叩いて上を見る。
「寂しがっちゃダメ! お仕事だもん、仕方ないんだもん!」
彼女は気持ちを切り替えると、早速キッチンに向かって魚を捌き始める。
外は暗くなり始めていた。
「ご馳走様でした」
誰も食べてくれなかった残りの魚を氷でいっぱいの金属の箱に入れる。多分このまま明日の朝ごはんになってしまうのだろう。
アンナはレモン水をコップに注ぎ、それを持って二階のベランダに向かう。ベランダは道路に面しており、街の風景が見える。もうすっかり暗い外は、夜風がさらさらと吹いていた。
他にやることもなく、彼女は街の明かりをボーっと見つめながらレモン水を少しずつ飲む。最近、これが日課になりつつある。
「そろそろ寝よ」
彼女が部屋に戻ろうとしたその時、彼女の耳に短い悲鳴が聞こえた。続いてうめくような声。それは彼女の家の下の道路の方から聞こえた。
「なんだろ」
もしかしたら誰か助けが必要なのかもしれない。彼女は急いで下に向かう。
(あ、でも夜は外へ行っちゃいけないんだった。で、でも! パパは困ってる人が居たら助けてあげなさいって言ってた!)
一瞬躊躇するも、彼女は玄関の扉を開けて声のした方を探す。
声の主はすぐに見つかった。
隣の家の玄関前で、アンナと同じぐらいの歳の子が石畳の上にうつ伏せで倒れていた。どうやら右のつま先が石畳の間に挟まっているようだ。それで転んだらしい。
顔面からは透明な液体が流れている。さっき聞こえた呻き声は彼の嗚咽だったようだ。
「あなた大丈夫⁉︎」
アンナは急いで足の方へまわると、彼の靴先を地面から抜き取る。石が砕けて隙間が出来てしまっていたようだ。
「怪我は無い? ほら立って」
アンナが手を差し出し、握った手をグッと引っ張ってその子を立たせた。若菜色の髪がふわりと舞った。
「綺麗な髪…草原みたい…」
月夜に照らされキラキラと輝くその美しい髪に少女は思わず見惚れた。
「?」
「って、あなた膝とおでこ怪我してるじゃない⁉︎ アンナのお家においで。手当してあげる」
少女はそのまま手を引き、無理やり家の中へ連れて帰った。怪我人をリビングの椅子に座らせ、彼女自身はキッチンに氷と包帯を取りに行く。
「なんで…」
「うん? 何か言った⁉︎ ごめんちょっと待ってて! 直ぐに戻るから!」
彼女はうんうん唸りながら、重そうに金属の箱を持って来た。その上には包帯や布も積まれている。
「ほら、膝突き出して。今包帯巻いてあげるから」
その子は言われた通りに膝を突き出す。
「ところであなた男の子? 女の子?」
傷口に箱から取り出した氷を塗りながらアンナは尋ねる。
「お、男…」
真っ暗な外ではともかく、明るい室内で見ても彼の性別が分からなかった。というのも、彼の顔が恐ろしいほど美しい、中性的な美形だったからだ。
「男の子かぁ。綺麗な顔だね。歳は?」
「九つ」
「九歳? じゃあアンナとほとんど同じだ」
氷で傷口を消毒し終わると、綺麗な布で優しく水分を拭き取り、今度は包帯を巻いていく。
「君は、一人…?」
「そうだよ。お父さんはお仕事で居ないんだ。お母さんはずっと前に死んじゃったの」
「そう…」
「あ、そういえば自己紹介まだだったね。アンナだよ。アンナ・ミロスフィード」
「僕、ハルト」
「ハルトかぁ。なんだか爽やかで良い名前だね! さぁハルト、今度はおでこ貸して」
膝が巻き終わり、今度は前髪を上げてもらって同じ手順を行っていく。
「ハルトってどこの子? なんだか不思議な服を着ているけど」
彼は袖絞りのショートパンツに半袖のシャツを着ていたが、そのどちらもやけにツルツルの素材で出来ている物だった。縁やボタン周りには細かい刺繍が沢山入っている。
アンナの知る洋服の大体は革やウールの物だったが、ハルトの着ている服はそのどちらともまるっきり質が違うようだ。
「……僕…」
「うん?」
「ううん。何でもない」
彼は首を振って俯いてしまった。それを見て、彼がどうやら訳ありである事をアンナも悟った。
「お家には帰れるの?」
彼は答えない。長い沈黙は「NO」を意味しているようだ。
「そっか。じゃあさ、ウチに泊まりなよ!」
「えっ…?」
まるで何かおかしなことでも言われたみたいに、ハルトはキョトンと惚けている。
「何かワケがあるんでしょ? なら、それが解決するまで居ていいよ」
「何で、僕にそんな…。知らない人なのに…」
「何でって…友達になりたいから?」
「友達…?」
「そ! 仲良くしてくれたら嬉しいな!」
にかっと笑うアンナ。その顔にハルトの緊張が少し解け、顔が緩んだ。
「とりあえず何か食べる? 私が作った魚料理があるんだ!」
「う、うん。貰うよ」
「おっけー」
彼女は箱から魚を取り出すと、キッチンにいってそれを温め直した。そしてテキパキと盛り付け、フォークも添えるとあっという間に食卓が復活した。
その後、二人は共に夜の時間を過ごした。誰かと一緒に食べる食事はとてもおいしかった。
ハルトがやって来てから数日が経ったが、父親はまだ帰ってこない。しかしアンナの寂しさは紛れ、ハルトとの新しい生活にすっかり慣れていた。
最初はおどおどしていたハルトもだんだん積極的に話すようになり、今では二人の間に隔たりは完全になくなっていた。二人は「友達」になれたのだ。
本当に楽しい日々だった。アンナもハルトも、今までの人生で一番の充実感を感じていた。
そんなある晩の事だった。
「アンナちゃん、お風呂沸いたよ。どっちが先に入る?」
「今食器洗ってるからハルト先いいよ」
「手伝おうか?」
コンコンッ。
日常となりつつある二人のそんな会話に短いノックが割り込む。外はもう十分暗く、普通の来客にしては遅い時間だ。
「ん? パパかな? 鍵無くしたのかな?」
アンナは急いで泡の手を拭き、玄関に向かう。
「アンナちゃん! 待って!」
ハルトも最初は一緒に首を傾げていたが、何かに気づいて慌てて少女を制止する。
しかし遅かった。扉は既に開けられていた。
「どなたさ…うっ⁉︎」
少女の小さな体がどてっと倒れ込む。それを見て青ざめるハルト。次の瞬間、少年の意識も闇の中へと消えた。
アンナは瞳をゆっくり開けた。まだ意識が朦朧としている。
「おっ。嬢ちゃん目が覚めたかい?」
聞いた事の無い中年男性の声が呼びかける。
「ここは…?」
見た事のない天井だった。カラフルで、無駄な装飾もされている。豪華という言葉が少女の頭に浮かんだ。
「俺の名前はダンケル。すまなかったな、ハルト様を誘拐した盗賊団のアジトだと思って突撃したもんでよ。顔も見ずに失神薬を吹きかけてしまった」
アンナが隣を見ると、優しい顔をした髭の男が座っていた。彼女が起きるのを待っていたようだ。
「これ、お詫びだ」
彼はアンナのお腹の上に何かを置いた。軽くて小さい物だった。
アンナが手を伸ばすと、木材の柔らかい感触が指先に触れる。
「彫刻が俺の趣味でね。他に子供が喜びそうな物、思いつかなかったんだ」
アンナはそのまま掴んで顔の近くまで持ってくる。それは小さな木彫りのイルカだった。
「可愛い…」
「さぁ、ハルト様が待ってる。行こうぜ嬢ちゃん」
「ハルト⁉︎」
少女はその名を聞いた瞬間、ベッドから飛び上がる。
アンナはダンケルに連れられて広い部屋に入る。ここが王の間と呼ばれる場所であると、彼は説明する。そしてここが王宮の城の中であることも彼は教えてくれた。
「君が例の少女か」
部屋の奥、大きな玉座に男が座っていた。彼はふかふかの赤いマントを着ており、頭には宝石の施された大きな金の王冠をかぶっている。
「王…さま…?」
その時、少女は何かを悟った。その男の髪色に見覚えがあったからだ。あの美しい若菜色の髪を持つ人物を、彼女は一人しか知らない。
「ごめんなさい!」
アンナは急いで体を折って土下座の体勢をとり、床に額を強く押し付ける。涙が自然と流れ出る。
「ハルトが王様の子供だって知らなかったんです! ただ助けてあげようと思って…悪気は無かったんです!」
アンナは少女ながらにして、国王の機嫌を損ねるという事が恐ろしい事であると理解していた。だから彼女は泣きながら必死に頭を擦り付け、許しを請う。
「うぅぅ…」
泣き崩れる少女の体をダンケルが優しく持ち上げる。
「大丈夫だよ嬢ちゃん」
彼はアンナに、王の顔を見るように促した。そう、王は全く怒った様子は無く、むしろ少女に向かって微笑んでいた。
「驚かせてすまないな。私はサイガ・ウォーカー。お気付きのように、ハルトの父だ」
彼の声は穏やかそのものだった。アンナは泣き止み、涙を拭う。
「私はハルトに次期王として期待するあまり、あの子にストレスを与えてしまうほど教育熱心になっていたようだ。確かに毎日の家庭教師はあの歳の子には辛かったかもしれなかったな。しかし安心してくれ、ハルトとは話し合って折り合いを付けた」
そう言ってサイガは手招きする。アンナが恐る恐る近づくと、彼はその大きな手で少女の頭を優しく撫でる。
「ハルトを助け、面倒を見てくれたようだね。そして何より、あの子の友達になってくれた。父親として、君には感謝しても仕切れないよ」
「王さま…」
叱られるとばかり思って取り乱していたアンナは、安堵からか腰が抜けてヘニョヘニョと座り込んでしまう。
「君のことはハルトから聞いたよ。父親がまだ戻らないらしいな。そこでどうだろう、父親が帰ってくるまでこの城に住んでは」
「お城に?」
「ハルトも喜ぶ。父親としては寧ろ君にお願いしたいくらいだ」
「アンナ、ハルトとまた遊びたい! ハルトの友達、やめたくない」
その後、ダンケルに送ってもらい、少女は一度家に帰った。父親の帰ってきた痕跡は当然、まだ無かった。彼女は置き手紙を残し、荷物をまとめた。
こうして彼女の、王宮での新生活が始まった。
時は過ぎ、二人ともすくすくと育った。
アンナの父親はついに帰って来ず、彼女は正式に王宮で暮らすようになった。
忙しい勉強の合間にしか遊べなかったが、二人は兄妹のように仲良しだった。
ハルトの家庭教師の時間、アンナは城の騎士や召使い達と過ごした。明るく優しい彼女はすぐに城の人気者になり、みんなにとても愛された。
特にダンケルとは仲が良かった。アンナはよく木彫りを習いに彼の元へ通った。
ダンケルがいない時、彼女はよくもう一つのお気に入りの場所に向かった。それは王宮専属の研究室だった。そこでは国中から集まった様々な分野の学者たちが国の発展のために日々研究していた。
彼らはアンナをとても可愛がり、賢い彼女に様々な事を教えた。アンナは特に歴史学に興味を持ち、自由な時間を使ってどんどん知識を蓄えていった。
気がつけば彼女は他の学者に負けずとも劣らない学を手にし、王宮専属博士の一人として認められた。
ハルトの方も勉強は捗り、次期国王としての技量をどんどん育てていった。
「約束よハルト。私たちは国を助ける立派な人になるの!」
「うん、アンナちゃん。一緒に頑張ろう」
二人は小指を絡め合い、硬い約束をかわした。
「父さん、大丈夫⁉︎」
ある日、突然の知らせを聞いたハルトがサイガの寝室に飛んできた。
「ハルト、勉強はどうした。ちゃんとやるって約束だろう。早く家庭教師さんのとこへ行きなさい」
「父さんが倒れたって聞いて慌てて来たんだよ! 具合は大丈夫なの⁉︎」
夕食の後にサイガが突然倒れ、メイド達によって寝室まで運ばれたのだ。もうじき医者も着く筈だ。
「いいから行きなさい。私の代わりにこの国を背負うのはお前だ。そのためには今のうちにしっかりと勉強しなくてはいけない」
「は、はい…」
「ついでにアンナちゃんを呼んできてくれ」
「わかりました」
心配そうな面持ちを残したまま、渋々ハルトは部屋を出ていった。
暫くすると赤髪の少女がやって来る。
「倒れたって本当なの⁉︎」
彼女はサイガに駆け寄ってその手を握りしめる。彼女は今にも泣きそうだ。
「アンナ、君には本当に感謝している。君が王宮に来てからもう七年。私もハルトも、君から沢山の宝物をもらった」
「感謝してるのは私の方よ! 迎え入れてくれて。優しくしてくれて。それなのにお礼のひとつも出来ていなくて…」
「私は君のことを本当の娘だと思っている。娘を想うのは親として当然じゃないかね?」
「サイガさん…」
いよいよ彼女の頬を大粒の涙が滴り落ちる。
「私も、サイガさんが大好き。ハルトが大好き。このお城、この家族が大大大好きよ」
それを聞いたサイガが満足そうに微笑む。
「最期に、一つだけ頼みがある」
「お願い…。最期だなんて言わないで…」
「今のこの国は、すっかりギルドに侵されている」
「…」
「奴らは陰で悪事を行い、暗躍している。沢山の人々が犠牲になっているんだ」
「それってサイガさんがずっと調べてた…」
「ああ。だが気付くのが遅過ぎたんだ。いいかアンナ、よく聞け。私は病気だと診断されるだろう。しかし事実は違う。私はギルドの魔の手にかかったのだ」
「まさか⁉︎」
「気をつけるんだアンナ、気をつけろ。奴らは至る所に潜んでいる。我々が思っていたよりもずっと闇は深いんだ」
「そんな…」
「だから、アンナ、お願いだ。ハルトを、どうかよろしく頼む。そしてこの国の未来を、二人で、守ってくれ。君たち、だけ、が、希望だ。私の…、大事な…子供達…」
「サイガさん? サイガさん⁉︎ サイガさんっ‼︎ サイガさんっ‼︎」
涙でぐしょぐしょになりながら、アンナは彼の体を揺らし続けた。しかしいくら呼び掛けても、彼の目が開くことは二度と無かった…。
「うあァァァァァァァァァァァァァァァァ‼︎‼︎‼︎‼︎」
少女の号哭だけが虚しく響く。
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