第49話 月が昇るまでに(20)

 相瀬あいせは、その子のほうを笑ってちらっと見てから、手に持った白木の丸い箱に、それを垂らす。

 「あの、貝の身に傷をつけていっしょに入れたさぁ、あの真結まゆいが入れるのをいやがった小さい玉があるでしょ?」

 「うん……」

 あのとき、真結は相瀬さんの気もちを受け止めきれなかった。

 あれが、あのあとのいろんな後悔につながったんだ……。

 「あの玉が、この貝のなかで、こんなに育つんだよ」

 「はい?」

 相瀬は、そのいちばん下についた、大きな艶々つやつやした石のようなものを指差した。

 闇夜なので色はわからない。白くはないみたいだ。やっぱり黒いのだろうか。

 しずくのようなかたちをしていて、大きさは一寸ぐらいだろうか?

 大きい。

 それに、貝のなかで、あの石が「育つ」って?

 貝が育つのはわかる。

 でも、石も育つの……?

 相瀬はそれ以上の説明はせず、その艶のある石を白木の箱に入れ、最後には細い細い鎖を収めて、その入れ物にふたをした。

 入れ物を、ふなばたにつかまった真結の手の指の上に置く。

 真結は、その入れ物を手でつかんだ。

 もう一寸いっすん伸ばせば、相瀬さんの手に触れることができるのに!

 ――でも、やめた。

 相瀬さんが言う。

 「その箱ってすぐれものでさ、きちんと蓋してれば、水に漬けても水は漏らないんだよ。ずっと水に入れて水がしみこんでしまうとだめだけど、それでも一日ぐらいはしみこまないからだいじょうぶ。これは、かならずその箱に入れて、肌につけたときは、そのあとかならずやわらかい布でいて。そうすれば、これはいつまでもずっと輝き続けてると思う」

 「うん」

 真結は、ふなばたから離れて、その白木の箱を胸に抱く。

 男の一人が綱を渡してくれた。銀両が入ったたるにつながっている。

 樽には浮きがついていて、これで筒島まで縄を引っぱって帰ればいいのだが。

 毎年の二樽でも重いのに、今年は五樽か……。

 男たちがかいを手に取った。

 「あのさ」

 少しあいだが離れた相瀬が声を大きくして言う。

 「その箱さ、もともとお姫様のものだから」

 「はいっ?」

 「だからさ」

 目を細めて、笑って。

 「すくなくとも、真結は、玉藻姫たまもひめって女の子がいたこと、忘れずにすむわけだ」

 「うん」

 真結は少し考える。

 「うん。それに、この中の入ってるきれいな石のおかげで、相瀬さんがいたこともね!」

 「うんっ!」

 男たちは櫂を漕ぎ始めている。

 舳先が真結のすぐ前を過ぎる。

 舳先に座っていた若い男が、真結に向かって、柔和に笑い、軽く手を振った。

 「さようなら、相瀬さん!」

 少しぐらい声を張り上げても、いいだろう。

 さっき、あんなに近いところにいた相瀬さんが、もう遠い。

 相瀬も舳先の男と同じように手を振って、言った。

 「グッド・バイ!」

 「えっ?」

 「……神様が真結のそばにいつもいらっしゃいますように、っていう、イングランドの別れのあいさつだよ!」

 「ああ、そうか……」

 相瀬さんも、いまは、そのイングランド人なんだ……。

 では、その相瀬さんには?

 イングランド人になった相瀬さんは、どんな宗旨しゅうしなんだろう?

 「あの!」

 相瀬さんには、ききたいことは何でもきいておけばよかった。それをいつも気もちを抑えてきかなかった。

 そう、いまもそんなことをしたら後悔する!

 「相瀬さんには、だれがいっしょにいますように、って言えばいいのかな?」

 「だいじょうぶだよ!」

 相瀬さんも大きい声で答える。

 「わたしには、その箱の持ち主だったお姫様が、いつもついてるから!」

 「うん……」

 真結は笑った。

 いちばんの笑顔を、相瀬さんの思いに残しておかなくては!

 「だから、さよなら、でいいよ!」

 「うん。さようなら、相瀬さん!」

 「グッド・バイ、真結!」

 それが別れのあいさつだと、櫂をっている連中もわかったのだろう。

 舟はくるんと向こうを向いた。

 この舟は速い。

 相瀬さんの背中が、そして大きなかぶりものがちらっと見えたかと思うと、その姿は、いや、舟そのものが、もう闇に紛れて見えなくなっていた。

 「さあ」

 一人残された真結は、お姫様の遺してくれた箱を手ぬぐいに包んで首の後ろに巻き――。

 そして、樽につながった綱をきっちりと握って。

 「月が昇るまでに、帰らなくちゃ」

 唐子浜の村へと、力強く、泳ぎ始めた。

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