第45話 月が昇るまでに(16)

 「えっ?」

 真結まゆいは驚く。

 相瀬あいせさんが言ったことそのものだけでなく、その声の変わりように。

 「わたしがやったんじゃないけど、わたしが行かなければ火をつけられることもなかった、っていうのも確かだからね。それで、その事情っていうのがへたに漏れるとさ、岡下おかしたの殿様――ってことはいまは岡平おかだいらの殿様だよねぇ――その殿様の首が飛ぶだけじゃすまないから。しかも殿様自身はわけわからないままでさ。いまのこの国で、そのへんのことが漏れると、もう大騒動になっちゃうよ。せっかく、讃州さんしゅうの絡んだ騒動をやっと収めたんだからさ、大騒動はいやでしょ? だったらあのお寺のことは、あんまりあれこれ言わないほうがいい」

 「はぁ……」

 なんだか、よくわからない。

 「たださ」

 相瀬さんはさびしそうにして、ちょっと首を傾げた。

 「あの真浄土院しんじょうどいんって、姫様が育ったお寺だったんだ。火事で死んだ尼さんっているでしょ?」

 「ああ、うん……」

 「あれ――あの子さ、姫様の友だちだった。もちろんわたしとも友だちだった」

 「もちろん」とは言うけれど……。

 いまので少しだけわかった。

 相瀬さんは文字が読めなかった。ほかの海女の娘が読めたのに、頭の相瀬さんが一字も読めなかった。

 その相瀬さんに、あの「田氏でんし春秋しゅんじゅう」のようなものが書けるはずがないと思う。

 でも、相瀬さんはその永遠寺ようおんじというお寺で、文字を習ったのだ。

 いまでは、昔の唐国の国の家老がどうしたなどという、真結も知らないことまで知っている。そして、相瀬さんは、相良さがら讃州の屋敷に入りこみ、そして、相良讃州を破滅させるような種を着々と仕込んでいったのだ。

 ――何のために?

 そう。

 相瀬さんは姫様が好きだったのだ。

 一度会ったきりの真結があの姫様が好きなのとは、比較にならないくらい。

 相瀬がものく言う。

 「真浄土院ってところにあった、讃州が灰にしてしまった文書が何かを知ってたのは、その子と、姫様と、わたしだけ。二人がいなくなって、わたしもここから遠くに行けば、もう、だれも知らない」

 どうこたえていいか、真結にはわからない。

 それが何か、なぜそれが明るみに出たら殿様の首が飛ぶのか。

 わからない。

 しかし、消されてしまったのはそのお寺とか文書とかだけではない。

 「でも」

と真結が言う。

 「けっきょく、岡下の殿様が残るのと引き替えに、相瀬さんも、それに姫様も最初からいなかったことになっちゃったよ」

 「しかたないよ」

 相瀬は答える。

 「そんなふうにするしかないよ。この国のご公儀こうぎと、この国の領主とって関係じゃさ。ここの国じゃ、ご公儀も領主も、一つの落ち度もなく正しくなければ、って考えが強いからね。正しくない、ってことを言われそうになると、それ全部をなかったことにするしかないんだよ。それにさ、それは字に書いたものとしては残らない、ってことでしょ?」

 「うん」

 「人が覚えてることっていうのは、そうかんたんに消せないから」

 相瀬さんはそう言うまでまじめな顔をしていた。

 ここでにっこり笑う。

 「ところで、最初にさぁ、浅葱あさぎが最初に嫁ぐっていうのはまちがいって真結は言ったよね」

 「ああ、うん」

 覚えていたんだ!

 「それってさ、真結が、お城の、しかも讃州を取り調べる係に入ってた人のほかは知らないはずの、あの日記のなかみを知ってることと、関係あるんだよね?」

 「えっ?」

 頬がぽっと赤くなったように感じる。

 もっとも、筒島つつしまからこんな沖まで泳いで来て、息も弾んでいるし、最初から頬は赤いにきまっているのだけど。

 「うん……そうだよ」

 桑江くわえ慎之進しんのじょう野川のがわ玄斎げんさいに声をかけられ、相良さがら讃州の非行を調べる組の一人として加わっていた。だからあの日記の内容を知ることのできる立場だった。

 そして、それを、漁についての調べという名目で村に来たとき、真結にぜんぶ教えてくれた。

 だから、真結は、領内のほかのひとが知らないことまで知っている。

 「城下の桑江様のところに嫁ぐの?」

 海女の娘組の頭を務めると、一生、村を出られない。それを知っているから、相瀬さんはそうきくのだろう。

 「いや、そうじゃなくて」

 そこまでは相瀬さんも知らない。当然かな、と思って、真結は説明する。

 「あの、昔は相良讃州が独り占めしてた浜の奉行ぶぎょうしょくね、浜の村それぞれに置くことになって、そのお奉行としてこの村に来てくださる。それに、浅葱が嫁ぐのも、おんなじ職のお仲間だよ」

 「大出世だね、浅葱は」

 そう言ってから、真結に言う。

 「あんたたち、似合いの夫婦になるよ。お幸せにね」

 相瀬さんは笑った。

 それは、昔の相瀬さんは見せなかった、大人っぽい笑いだった。

 あれから五年が経った。

 二人とも、もう「娘」じゃないんだ、と思う。

 「だから、わたしは今年限り。来年からはおくまが来るよ」

 真結がそう言ったとき、船の舳先へさきのほうから、短いことばが聞こえた。

 何を言ったかは、聴き取れない。

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