第42話 月が昇るまでに(13)

 「ふなばたを握ったらちょっとは休めるよ、真結まゆい

 はっとした。

 その女が笑っている。おかしくてたまらないというように。

 このいたずらそうな笑い、それに、「真結」という名を知っていること――。

 それが「相瀬あいせさんによく似た別の女」のはずがない。

 だいたい、この舟に乗っている者たちと話が通じたことはこれまで一度もなかったのだ。

 「相瀬さんっ!」

 相瀬はふっと笑った。

 「元気だったみたいね」

 「ええ。おかげ様で」

 お陰様も何もないだろう。このひとは村では最初からいなかったことになっているのだから。

 「みんなは?」

 「ふさかや浅葱あさぎ麻実あさみも元気だよ。浅葱は今度嫁ぐんで、娘組は抜けるけど」

 「やっぱり嫁ぐのは浅葱が最初かぁ」

 相瀬はおもしろそうに笑った。

 「まあ、浅葱か麻実だろうと思ったけどね」

 「いや、そうじゃないんだけど」

 真結は、言って、笑って見せる。

 実際に嫁ぐ順番がどうなるかまだわからないが、嫁ぐために娘組を抜けるのは浅葱が最初ではない。そのことを言われたらすぐにほんとうのことを明かすつもりだったけど、相瀬さんは何も言わない。

 前にこんなに楽しく相瀬さんと話をしたのはいつのことだろう?

 いや、初めてかも知れない。

 前は、なぜか、相瀬さんと話すときには、何かすなおになれないところがあった。相瀬さんとだれより近く話したいのに、切り出せない。

 そして、それを相瀬さんのせいにしていた。

 いま思うと、そうだ。

 それで取り返しのつかないことをしてしまった。

 「大小母おおおば様や美絹みきぬさんやこうさんは?」

 相瀬がきく。

 「大小母様はあの岩山の家は下りられた」

 「それは知ってる」

 そうか。知っているのか。

 「でも、元気だよ。いまはお寺の庫裏くりのところにいらっしゃって」

 「そうかぁ……」

 「美絹さんは子どもが二人できた。男の子と女の子で、とってもいいお母さん。だから、貞吉さだきちさんもご城下に養子になんか行けなくなっちゃったね」

 「まあ、もともとそういうがらじゃないんだよ」

 「ああ、そうだ。相瀬さん、村ではもう最初から相瀬さんってひとはいなかったことになってるんだけど」

 「大小母様が名主様と神主様とお寺の住持じゅうじさんと相談して、そう決めたみたいだね」

 「あのさぁ」

 やっぱりこの話をすると真結の口ぶりはかげる。

 「それでも、一人だけ、相瀬さんの名まえをずっと口にしてる人がいるんだよ」

 「だれ?」

 「貞吉さんのお父さん」

 「ああ……」

 相瀬も少し真顔に、もしかするともの悲しそうな顔になる。

 「参籠さんろうが明けたら行きます、とか言っちゃったからね。それで待ってるんだ」

 「すぐそこだよ。ここから見えてるところだよ。相瀬さん、行ってあいさつしたり、できない?」

 「無理だよ、って、真結もわかってるでしょ?」

 相瀬は軽く顔をらす。

 「さっき言ったとおり、ここからこっちは、浜のみんなにとっては鬼の領分なんだから」

 「うん……」

 相瀬さん一人なら、いっしょに泳いで来て、と言ってもいい。

 でも、ほかにその「鬼」とかいう人たちが乗っている。この人たちの都合もある。

 それに、だいたい、相瀬さんがこんなへんな服で歩いていたら村はたちまち大騒ぎになってしまうだろう。

 この取引の秘密も漏れてしまう。

 最初から、無理なのだ。

 「そう、っか……」

 しようがない。

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