第41話 月が昇るまでに(12)

 かすかにかいの音がして振り向いたときには、もうその舟は間近に迫っていた。

 毎年のことだ。

 四人で、櫂を分担して漕ぐ舟なのに、ほんとうに水を滑るように進んできて、気配を感じさせない。

 舟の大きさは、娘組の舟よりは大きいけれど、漁師組が沖の漁で使っている船よりは小さいといったところだろう。

 真結まゆいは、その舟に近づくと、手でいくつか定められた合図を送った。

 相手からもやはり決められた合図が返って来る。

 しかし……?

 舟のともに座っているのがこの舟のかしらだという。合図を返してくるのはこの頭だ。

 この頭が――。

 ――今年は女らしい。

 暗い海なので着物の色までは見えない。首のところまで閉まり、胸の前にへんなひだがいっぱいつき、襟にまでひだが着いた着物を着ている。そのうえ、両側に大きなつばの広がった大きいかぶりものをかぶっている。足まで大きな地下じか足袋のようなもので覆っているらしい。

 ――うわ、この着物、うっとうしくないのかな、とよけいなことを考えてしまう。

 考えながら、引っぱってきた樽を舟の横に横付けすると、毎年のとおり、舟に乗ってきた者たちがそれを品定めする。

 品定めといっても、ちゃんとあの「鬼あわび」が入っているかどうか確かめるだけだ。

 あとは、その代金に銀両ぎんりょうをもらって泳いで帰るだけだ。今日は早く出たからまだ余裕があるけれど、月が昇りかけ、遠くの空が白く明るくなってきたら、この務めは果たせない。

 あれ? ――と思う。

 その艫に座っている、ふくよかな丸い顔の女が、ずっと真結の顔を見ている?

 その、唐人とうじんの服よりごてごてした、うっとうしそうな着物を着た女の人……。

 真結は目を大きく見開いた。

 「相瀬あいせ……さん?」

 相手の舟の頭は、それでにっこりと笑って頷いた。

 相瀬さん!

 村ではいないことにされてしまい、これだけ経ったいまでは真結でさえそんなひとがいたのかどうかぼんやりしてきている、あの相瀬さんだ。

 確かにいる! それも、手を伸ばしたらもう少しで届くところに。

 真結は艫の近くまで泳いで行って、そこにふなばたに手をやる。

 そこから相瀬さんに向かって手を差し伸べる。

 その女、真結には相瀬さんにしか見えない女は、軽く首を振った。

 「ここからこっちは鬼の領分です」

 舟のふなばたを指差して、女は言う。

 「人は鬼に触れてはなりません」

 「相瀬……さん?」

 真結が疑うような声を立てたのは。

 その声色はたしかに覚えている相瀬さんにそっくりだった。

 しかし……?

 こんな気品のある話しかたを相瀬さんはしただろうか?

 「でも、ふなばたに手をつくぐらいはいいでしょう」

 女は言い、何かよくわからないことばで、舳先へさきに座っている人に何か言った。

 舳先にいるのも、これも暗くてよくわからないが、男なんだろうと思う。ただ、着ているものは、その相瀬さんによく似た女のものに似ている。

 どうも、この舟に乗って来る人たちは、男と女の区別がつきにくい。

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