第40話 月が昇るまでに(11)

 あたりは「墨を流したような」と言っていい闇だ。空も曇っている。

 ただ、自分が水をかいいて浮いているから、自分は海にいるのだな、ということがわかるくらいだ。

 そのほうが、これからやることにとっては都合はよい。

 それと――と、あのとき自分が危うく溺れかけ、相瀬あいせさんに救われたあたりを通り越し、その沖で舟を待つ真結まゆいは思う。

 岡下おかしたの殿様が岡平おかだいら領を継いでくれたのはよいことだ。

 けれども、一連の変事の経緯を記したものは、公儀こうぎがまとめたひとつづりの文書以外はすべて焼き捨てられてしまった。

 そして、その公儀の文書には、玉藻姫たまもひめのことも、新大炊頭おおいのかみを殺した「相瀬あいせ」という女のことも記されていなかった。

 これほどの不始末は支領の領主としても見過ごしてはならないはずなのに、いずみ大膳だいぜんはそれを見過ごしていた。その大膳の家に本領を与えるなどもってのほかだという意見を封じるためだったという。

 もっとも、見過ごすも何も、岡下という小さい一つの街を支配するだけの支領の当主に、多くの奉行・役人を配下に収めて本領の隅々までその権勢を及ぼしていた相良さがら讃州さんしゅうのような者をやっつけろと言っても、それは無理というものだ。

 しかも、大膳は、相良讃州が玉藻姫の行方を調べるために役人を岡下領に入れようとしたとき、断った。がんばりはしたのだ。

 だが、お上の理屈は、「やってみたけど無理だった」ではすませられないものらしい。

 それで「相瀬」という女は岡平のお家の文書のどこからも姿を消した。

 それとともに、あの別院から禁制の浜の沖までのあいだいっしょだったたけだけれども、たしかに真結が会い、ことばを交わしたあの愛くるしいお姫様は、二重に殺されてしまった。

 あのお姫様がなぶり殺しにされたなどというのは、真結にとっては思い出すだけで身をよじりたくなるような恐ろしいできごとだ。しかも、いろんな事情がどうあったにしても、真結が姫様を引き渡さなければ、そんなことにはならなかった。だから、それは思い出すのもつらい。

 でも、それはそれとして文書に残しておいてほしかった。えがたいことではあるけれど、そのお姫様がそうやって殺されたのは確かなことなのだから。

 けれども、それも残らなかった。

 玉藻姫というお姫様は、国許くにもとの側室の子だったこともあって、最初からいなかったことになってしまった。

 相良讃州については、施政しせいが強引だったことと、家中を統制できる立場にありながら、領主を続けて見舞った不祥ふしょう事件を防げなかったことがとがめられた。また、正式の処断が下る前に見苦しい自害を遂げたことも咎められた。

 でも、それだけだった。

 ひとたび、悪政が行われると、それを元に戻すにはこれだけの犠牲が必要だ、ということなのだろう。

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