第36話 月が昇るまでに(7)

 「田氏でんし春秋しゅんじゅう」は、江戸のいずみ家の屋敷で、当主大炊頭おおいのかみの正妻夏野なつの姫に男子が生まれるところから始まる。

 その子は小若こわかと名づけられた。

 当然、小若君の父親は当主の大炊頭のはずだ。「田氏春秋」の書きかたも普通に読めばそう読める。だが、「田氏春秋」には、「わが働きありて初めてご誕生あるなり」ということばがあった。

 この子は相良さがら讃州さんしゅうの「働き」がなければ誕生しなかった。

 それはどういうことだろう?

 そのあと、「田氏春秋」は、領主の泉家と相良家の関係を述べる。

 泉家は、その昔、このあたりを荒らし、「鬼党きとう」と恐れられていた賊の頭目とうもくだった。

 相良家は鎮西ちんぜいの名族だ。相良右衛門尉うえもんのじょうという岡平相良家の祖がこの地を訪れたとき、「鬼党」の勢いは衰え、泉家の没落は避けられないありさまだった。

 その泉家の当主である瀚文公かんぶんこう行廉ゆきかど悔悟かいごさせて交友を結び、泉家がこの地に安堵あんどされるよう導いたのは、ひとえに相良右衛門尉の働きだった。

 その書きぶりは、この地の領主には相良右衛門尉こそがふさわしく、その情けで泉家が領主に安堵されたのだということを強く言外ににじませるものだったという。

 そして、前の前の当主だった大炊頭おおいのかみの直情ぶり、その直情ぶりと表裏をなす暗愚あんぐぶりが何度も当てこすられる。讃州は何度も諫言かんげんしたが、その直情ぶりは収まらない。

 そんな折り、大炊頭の側室照葉姫てるはひめが、正妻の夏野姫に世継ぎが生まれないように呪詛じゅそしていたことが発覚した。

 正妻夏野姫と大炊頭は仲が悪く、国許くにもとの照葉姫とのほうがずっと仲がよかった。照葉姫は自分に息子が生まれれば、その子を世継ぎにしようと策していたという。「このおんな奸佞かんねいなることこの上なし」と讃州は書く。

 しかし、讃州の懸命けんめいいさめで――讃州はそう書く――、大炊頭は奸婦かんぷ照葉姫を「誅殺ちゅうさつ」する。

 それで讃州の心配は一つ去ったことになる。しかし、そのとき相良讃州が見過ごしていたことがある。

 それは、その大炊頭の直情ぶりが度を超していたことだ。

 狩りと称して山を訪れた大炊頭は、野でみだらな行いをしていた野人夫婦を見つけ、惨殺してしまった。野で淫らな姿をさらすのはよいことではないが、夫婦とも殺してしまうというのは讃州から見ても行き過ぎだった。

 このできごとが公儀こうぎに知られ、大炊頭は蟄居ちっきょせざるを得なくなった。

 そこで、小若君が生まれると、讃州は早くその小若君に領主の地位を委ねようと画策かくさくすることになる。

 相良讃州は「これりて、御領ごりょう、初めて正統しょうとうの治に帰するなり」と書く。領内は初めて正しい血筋の者に治められることになるという意味だそうだ。

 なぜ、小若君が「最初の、正しい血筋の者」ということになるのだろう?

 どちらにしても、世継ぎとなるはずの小若君はまだ子どもで、元服にはまだ遠い。

 そこで、大炊頭の跡を嗣いで岡平に入部したのが、大炊頭の弟で、支領岡下おかしたを継いでいた刑部ぎょうぶだった。

 相良讃州は刑部が自分をやめさせ、自分を罪に落とすのではないかと恐れた。

 しかし、刑部も祖先から功績ある相良家を無視することはできなかった。身分ではなく、才や能によって人材を採るべきだという考えでも刑部と相良讃州は一致した。讃州は領内の政を引き続き担うことになった。

 「田氏春秋」にはここまでのことが最初の日の条にまとめて書いてあって、あとは日ごとに条立じょうだてして書いてあるという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る