第37話 月が昇るまでに(8)

 やがて、相良さがら讃州さんしゅうが「愚劣ぐれつきわみ」と罵るできごとが起こる。

 支領岡下おかしたいずみ家の男子に、本領岡平おかだいらの泉家を継がせようという話がまとまりそうになったのだ。

 刑部ぎょうぶが支領の岡下から本領の岡平に戻ってから、岡下のおいえは岡下泉家の大膳だいぜんが継いでいた。

 この大膳の息子に、刑部の養女になっていた玉藻姫たまもひめめとらせて、岡平の泉家を継がせるというのだ。つまり、支領の岡下泉家の子を刑部に婿むこ入りさせて跡継ぎにしようというわけだ。

 讃州は反対した。

 相良讃州によれば、その大膳という領主は、「母の血統よろしからず」、つまり母親の身分が低いので本来は領主になれないはずの男子だった。だからこそ、岡下では、大膳がいたにもかかわらず、岡平から大炊頭おおいのかみの弟刑部を養子に取って、跡継ぎにしていたのだ。

 刑部が本家に戻ったために、その血筋のよくない大膳が岡下の領主に収まったのはしかたがない。

 しかし、その血筋を岡平に押しつけようとは「もってのほか」だという。

 だが、家中の大勢は、大膳の息子を婿に迎えるという考えに傾いていた。

 「苦悩」した讃州は思い切った手段に出る。

 玉藻姫さえいなくなれば、支領の血筋を岡平に押しつけることはできなくなる。それに照葉姫の娘でおごりたかぶった玉藻姫が「ざんたるかたちにてただしきめんしてくっしなばこれ末代まつだいまでの良薬ならん」と讃州は書く。姫が、惨めな姿で正義の前に身を屈すれば、それは将来の世代にとっての「良薬」になるだろう、ということらしい。

 そこで、その玉藻姫が岡平を訪ねて来て刑部に面会する日を見計らって刑部に砒毒ひどくを刑部に飲ませ、それを玉藻姫の作ってきた菜のせいにして、刑部と玉藻姫を亡きものにしようとした。

 この企みは成功した。

 ただ、大きな失策は、養父の身を案じて城にとどまるはずだった玉藻姫が、乳母にそそのかされて逃げてしまったことだ。親が生死の境にあるというのに出奔した玉藻姫を「不孝の極み」と讃州は罵っているそうだ。

 讃州は、まず岡下との境を固め、姫が江戸に逃げ出すことも考えて、江戸への街道筋に人を配し、江戸屋敷にも手を回して、玉藻姫が江戸に現れても公儀こうぎの者と接することのないように手配した。

 しかし玉藻姫の行方は知れなかった。讃州も一度はその追及をあきらめた。

 それだけに、玉藻姫が捕らえられたときの日記は、罵倒のことばであふれている。「奸賊かんぞく」・「奸婦かんぷ」・「大盗たいとう」のうえに「稀代きたい醜女しゅうじょ」とまで書いているという。そして、この姫が自害したなどというのは偽りであるとしたうえで、記している――「そのしょう極悪にして傲倨ごうきょかたくななり、凌遅りょうちしょす」と。

 「凌遅」とは痛めつけて少しずつなぶり殺しにする刑罰だという。

 しかし、何かそのことに後ろめたいところがあったのか、すべてしっかりした文字で書かれている日記のなかで、この文字だけは筆が震えた跡があるという。

 やがて刑部も実の子を残さないままに亡くなり、讃州は晴れて自分の息子である小若を領主に迎えることができた。このとき讃州ははっきりと「我が子主馬しゅめ」と書いているらしい。

 その小若、元服して主馬と名のっていた子が、さらに新たに大炊頭の官途かんどを得て入部するところでこの日記は終わり、「田氏でんしこと、九せい成れり」――ということばで結ばれている。

 「田氏」とは、唐国とうこくの戦国時代、せいという旧国の領主を追い落として新たな領主になった一族のことで、それは、泉家を追い落として相良家が岡平の領主になることを暗示している、ということだ。「田氏春秋」という名もそれを指しているらしい。「九成」とは「九割がた」という意味だそうだ。

 続く「ぞく田氏でんし春秋しゅんじゅう」のほうは、自分の息子、新しい大炊頭おおいのかみが入部するところから始まっている。

 日記の最初は、新しい大炊頭を領主に迎え、晴れ晴れとした気分にあふれていた。

 しかし、その初日に続く日記は、たちまち憤懣ふんまんに覆われることになる。

 新大炊頭が相良さがら讃州さんしゅうを親と認めなかったからだ。それどころか、かたちのうえでの序列のとおり、筆頭家老の野川のがわ玄斎げんさいを尊重し、何ごとも玄斎にまず相談するありさまで、讃州を並の臣下と同じ扱いにした。

 「不孝ここにきわまれり」とか「無間むけん地獄につべし」・「この者天魔てんまなり」と、また相良讃州は憤りのことばを連ねる。

 ちょうどそのころ、相良讃州の愛妾あいしょう新野あらの姫に息子が生まれ、「福富ふくとみ」と名づけられた。

 相良讃州は新大炊頭を殺し、福富を領主の地位に就けようと画策し始める。

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