第34話 月が昇るまでに(5)

 あれから三年めになり、ついに、江戸から、もとの主馬しゅめ、新しい大炊頭おおいのかみが初めて岡平おかだいら領に入部することになった。

 もと主馬の新大炊頭は、親が乱行らんぎょう蟄居ちっきょさせられたという血筋が血筋だし、実は相良さがら讃州さんしゅうの息子だという噂も根強く、また領内では非業の死を遂げた玉藻姫たまもひめへの同情も厚かったので、入部する前にはその評判はさんざんだった。入部してもせいぜい相良讃州の操り人形の役割しか果たせないだろうというのだ。

 ところが、その評判が、新大炊頭が入部してみると大きく変わった。この少年の殿様こそ名君になるのではないかという評判がにわかに高まったのだ。

 なぜか?

 「目がくりくりしていて、かわいいから」

 ――そう教えてくれたのは、城下までわざわざ見物に行ったあのくまだった。

 熊とこいは、新村しんむらの娘たちといっしょによく城下まで出かけていた。

 そのうち、最初はこの新村の海女たちを毛嫌いしていた浅葱あさぎまでいっしょによく遊びに行くようになってしまった。

 べつに仕事に差し障らないなら、遊びに行ってもいいけど――というのが、真結まゆいの考えだけど。

 ともかく、この新村の海女たちのおかげで、真結は前よりも城下や領内のほかの町や村、それに天下の情勢に詳しくなった。

 江戸で評判の役者や絵師などの名まえといった、とりあえずはどうでもよいことにも詳しくなったけれど。

 新大炊頭は、かねてからじつは相良讃州の息子だと噂されていた。その噂の虚実はともかく、新大炊頭が岡平に入ったことで、相良讃州の権勢はますますのぼ調子じょうしになるものと思われていた。

 ところが、相良讃州には思わぬめぐり合わせが待っていた。

 その不吉な兆しは、その年の夏前、永遠寺ようおんじ真浄土院しんじょうどいんという塔頭たっちゅうが焼亡したことだった。

 しかし、この火事で亡くなったのは尼さんが一人だけという話だった。

 しかも火が真浄土院だけで収まってくれたので、岡平ではあまり大事とは受け取られなかった。

 亡くなった尼さんには気の毒なことだと思うけど、支領の岡下おかしたの領内ということもあり、岡平にとっては大きなできごとでもなかったのだ。

 この夏、新大炊頭は、領内の各所を巡察することになった。

 唐子からこ浜にあの祭礼の期間に来られると困ると真結まゆいは思っていたけれど、唐子浜は巡察の先からははずれていた。

 そのかわり、唐子浜の祭礼の期間の終わりごろ、あの甲峰こうみねの村を巡察することになっていた。かつて姫様が姿を現した村だ。

 甲峰の村は、半分に割った椀のように崖がえぐれて半円形に落ちこんだところに広がっているという。

 北側の岬のところに道がついていて、そこから急な坂を下りて村に入らなければならない。

 若くて元気な新大炊頭は、その岬の上の入り口のところに駕籠かごを待たせ、そこから歩いて村に入った。

 相良讃州にとっては、自分が古い住人を追い出して自分の思うままに作った新しい村だ。得意になって新大炊頭を案内した。新大炊頭も、新しい住人たちが相模から持ちこんだという漁法についていろいろ熱心にたずね、また、名主ともねんごろに語り合ったという。それもかなりの長い時間、さまざまなことを根掘り葉掘り聞いたらしい。

 昼近くになって、新大炊頭は巡察を終え、駕籠を待たせてある岬の上への坂道を意気揚々と登ってきた。

 そのときの順番は、徒歩の新大炊頭が先頭で、その両側を十名以上の近習きんじゅうが固め、その少し後ろに相良讃州、さらに遅れて名目だけの筆頭家老の野川のがわ玄斎げんさい、その後ろに奉行や役人たちが従っていたという。

 新大炊頭が岬への道を上りきった、そのときに変事――というより惨事が起こった。

 岬の上には、高く、横にも枝の伸びた枝振りのよい松が生えていた。

 その松の枝から槍が飛来し、新大炊頭の首の下あたりに突き刺さったのだ。

 勢いで新大炊頭のきゃしゃな体はずっと後ろまではね飛ばされたという。

 新大炊頭は即死だったという話もあるし、急所ははずれたが胸の骨を折っていて、お城に帰ってから苦しみながら亡くなったという話もある。ほんとうのことはわからない。

 その新大炊頭が倒れたのを見て、松から女が一人下りてきた。

 それを見ていた者たちが思わず玉藻姫たまもひめの亡霊だと思った――という噂も伝わっている。甲峰は玉藻姫が潜んでいた村だし、その松も玉藻姫が首をくくったという松に枝振りが似ていたからだという。

 しかし、その女の姿を見て、相良讃州は思わず口走った。

 「相瀬あいせ」――と。

 もちろん真結の知っている――村ではだれも知らないことになっている――あの「相瀬さん」との関係はわからない。あの「相瀬さん」はお姫様には似ていないし、それにどう見ても亡霊には見えないだろう。

 ただし、その新大炊頭を刺した「槍」は漁に使うもりだったともいう。真結の知っている相瀬さんは銛使いが巧かった。

 ともかく、真結が「相瀬」の名を聞いたのはこれが久しぶりだった。

 近習たちはすぐにその女を捕らえようと刀を抜いて殺到した。

 でも、近習たちは女が陸のほうに逃げると思いこんでいた。それに反して女は岬の先のほうに逃げた。それで追いつくのが間に合わなかった。

 岬の先のほうは細く、その先端は絶壁になっている。

 追われた女は、崖を伝いながら逃げていたが、ついに人の背丈の十倍以上もある絶壁から滑り落ちた。

 死体はどこにも見つからなかったという。

 追っていった近習どものなかにも崖の上から滑り落ちる者が続出し、それを助けるあいだに見失ってしまったらしい。

 このあたりは強い海流が岸辺に近づくところなので、遠くに流されてしまったということになった。

 しかし――と真結は思う。

 それがかりにあの相瀬さんならば、それは落ちたのではない。

 飛びこんだのだ。

 そして、人の背丈の十倍ぐらいの高さから飛びこんで死ぬような相瀬さんではないことを、真結は知っている。もちろん岩で体を打たなければだけれど、それを避けるくらい、あの相瀬さんならば造作ぞうさないことだろう。

 だが、もちろんそれが「あの相瀬さん」であるという証拠はなかった。

 ともかく、この件で、相良讃州の立場は一挙に悪くなった。

 讃州の実子とまで言われていた若君が死んだから、ではない。

 一つは、すぐ隣に主君が、槍に刺され、血を流して倒れているというのに、主君にも駆け寄らず、主犯を捕らえるよう命じもしなかったから――。

 そして、もう一つは、その主犯の女の姿を見て「相瀬」とその名を口走ったからだった。

 相良讃州自身は「そんな名は呼んでいない」と言い張ったが、近習の何人もがきいたと口を揃えている。

 「讃州様、しばらく謹慎きんしんしていただきましょう」

 筆頭家老野川玄斎のことばが何年かぶりに重みを持った。

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