第33話 月が昇るまでに(4)

 新村しんむらにも娘の海女がいた。

 というより、新村には海女は娘の海女しかいなかった。

 新村の海女たちは、浜にくいを立ててを育てようとしていた。

 その藻は海苔のりだという。でも真結たちが浜で採っている岩海苔とは違うものらしい。江戸には高く売れるというが、それほど稼ぎになっているようには見えなかった。たぶん、自分たちの領分の海での収獲の少なさを補おうとそんなことに手を出したのだろうと思った。

 あるとき、唐子浜の海女の娘組が漁に出ていると、その向かい側で新村の海女が漁をしていた。

 いつものように、互いにあいさつすることもなく、それぞれがそれぞれの海に潜っていた。

 たまたま、真結まゆいが潜ったとき、向こうでも一人の海女が潜るところだった。

 ほれぼれするようなきれいな潜りだった。

 重石おもしを使うこともなく、体をばたばた動かすこともなく、魚よりもきれいな潜りですうっと深いところまで潜って行った。

 こちらの海女の娘組でいちばんきれいに潜るのは、真結を除けば――自分の潜りがきれいかどうか自分ではわからないから――麻実あさみだ。でも、その新村の若い海女の潜りは、麻実の潜りよりもずっときれいだったし、深いところまで行っていた。

 思わず声をかけた。

 ごめんなさい、どうも、お隣の村の海女さんですよね、ええ、頭の真結と言います、で、何か、いえ、あまりにきれいな潜りをなさるので思わず声をかけました――というようなやりとりがあって――。

 そのあとの相手の海女のあっけらかんとした言いぐさを、真結はよく覚えている。

 「いや、海女だったらこれぐらい潜れてあたりまえだと思うんですけど」

 それをとても人のよさそうな顔で言って、笑うのだ。

 でも、残念ながら、新村のもう一人の海女はそんなにきれいに潜れず、最近、うまくなってきた浅葱あさぎと同じくらいだったから、やっぱり「あたりまえ」ではなかったのだ。

 そのなまいきで人のいい、そして背が低くて体の小さい海女はくまと言った。「久万」とか「久磨」ではなく「熊」という字でいいと自分で言い、その字を海面に書いて見せた。

 学もあるらしい。

 相瀬あいせさんなど、潜りはこの熊に負けないくらいだったが、字は一字も書けなかったというのに!

 もう一人の新村の海女はこいと言った。鯉が海を泳ぐのは変だが、この鯉もこの字でいいという。

 村にはほかにも娘はいるが、海女になるかどうか迷っていると熊は言った。

 それから両方の村の娘の海女どうしのつきあいが始まり、やがて、最初はそんなつきあいを渋っていた大人の海女たちもつきあいに加わるようになった。

 真結は熊と鯉とその家の者をあの炭焼きの祭りに呼んだ。

 村人の多くが反対した。とくに漁師組が反対した。

 けれども真結の理屈は決まっていた。この祭りは、城下の商人や、それどころかたまたま訪れた客人も見に訪れる。それを、すぐ隣の村の人たちだけ来てはならぬというのでは筋が通らない……。

 そうなると、新村のほうでも、唐子浜からこはまの村の村人を祭りに呼ばないわけにはいかない。しかも、新村は、出身地のお社の分社を北の岬の斜面のところに作っていたが、境内地は狭く、さらに祭りを担えるほどの人数もいない。ここの村は田畑も漁も失敗だと言って南武蔵に帰ってしまう村人もいたという。人数は村ができたときより減っている。

 けっきょく、唐子浜の古いほうの村が新村の祭りを手伝ってやることになった。

 祭で行き来するようになると、もう祭でなくても日々の暮らしで自然に行き来するようになる。新村のお社はほどなく唐子浜の村の社の境内地に移ってきた。

 浜で海女漁のできる場所の取り決めもなくした。熊のような才のある海女を、青海鼠しか獲れない海で働かせておくのはもったいない。かわりに、熊と鯉は、海苔を育てるところを見せてくれた。最初に考えていたのとは違い、もう少し何とかすればうまく行くかも知れないと真結やふさかやも考えるようになった。

 讃州が無理に村に住まわせた人たちは、こうして、唐子浜の村のなかに取りこまれてしまった。村と新村では名主様も別だし、唐子浜の元の村だけの寄り合いも新村だけの寄り合いもする。しかし、ふだんは唐子浜の寄り合いに新村の名主も村人も出るようになり、元の村とか新村とかいう区別もしだいにしなくなった。

 それは、佃屋つくだやを初めとする村出入りの商人たちにとってもそちらのほうが都合がよかったから、という事情も考えなければならないだろうけれど。

 この商人たちは海苔を育てることにも乗り気で、そのためだったら金を出してやってもいいとまで言っている。また、お城がなかなか出してくれない救恤きゅうじゅつ金というものにかわる見舞金を、商人と村人とで集まってお金を積み立てることで出すことができないか、という話も進んでいる。

 佃屋を初めとする商人たちも、ただの相良さがら讃州さんしゅうの手先ではないのだと真結は知った。

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