第30話 月が昇るまでに(1)

 それが、五年前の今日のことだった。

 闇の中、筒島つつしまの岩をって、真結まゆいは泳ぎ出す。

 腰からは紐を後ろに伸ばして、あの樽を引いている。紐を足で絡めないように気をつけて泳がなければいけないが、それぐらいは真結にはなんでもないことだ。

 真結になんでもないのならば、いまの次の頭にはもっとなんでもないだろう。

 なかに入っているのは、いま下の洞穴のいちばん底で拾ってきた、あの角のない鬼あわび――相瀬あいせさんがこう呼んでいたのだからそれでいいだろう――だ。

 かわりに、あの村の岬の下の洞穴で養生していた、「角」を折ったばかりの鬼鮑をここに返してあげた。

 満月の夜と違って、今日は闇夜だ。

 相瀬さんからは、この日はろうそくを灯してもいい、上に笠をつけておいたら外には明かりは漏れないから、と言われたけれど、真結はずっと灯火なしで通した。

 灯火がないと、月のない日の筒島の洞穴の中はまっ暗だ。だからすべて手探りだった。

 でも、手探りならば目をつぶっていてもだいじょうぶだから、とくに目が痛むこの洞穴ではそのほうがいい。

 それでもどこに何があって何がいるかは、満月の夜に念入りに泳いでおいて、身につけている。

 また、そうすると、この洞穴の中も年々少しずつ変わっていることがわかってきた。

 下に貝殻が積もっていくのは、それはここにあの貝が住んでいる以上、しかたがない。

 でも、黒い岩のかたまりも落ちてきている。それも、年々、それが増えている。

 黒い岩はこの島の周りにも落ちている。筒島が崩れて落ちた岩だ。

 この島は、少しずつ崩れているのだ。

 相瀬さんはここの洞穴にたこや海蛇や黒鯛が入ってくるのを心配していた。

 でも、その心配はなさそうだ。

 ずっと洞穴の入り口を開けておいてはいけないけれど、少しだけならば開け放っていてもそういうものは入ってこない。

 それに気づいたのはあれから二年めのことだっただろうか。

 ここの水はなぜ潜るときに力がいるのか? なぜ目が痛いのか?

 ふと、口のなかに含んだ水が跳び上がるくらいに塩辛かった。それで気づいた。

 塩が濃いのだ。

 塩が濃くて、あの若布わかめのようなと、緑の毛氈もうせんのような藻と、この鬼鮑以外は生きられない。蛸や海蛇や黒鯛にはこの濃い塩水は耐えられないだろう。

 ということは、若布のような藻も毛氈のような藻も、鬼鮑も、外に出したら生きられないのだろう。

 ここでしか、生きることができないのだ。

 その洞穴の入り口も、もう閉じた。

 来年のこの時期まで、あの入り口は開くことがない。

 これが五回め、あの最後の日だけの参籠さんろうを含めると六回めの参籠だ。でも、それは村では真結の七回めの参籠ということになっている。

 それも明日の朝には解ける。

 そして、真結はもう二度とこの役を務めることはない。

 娘組のおさをこんな長く務めるつもりもなかった。娘組というには歳上になりすぎたのではないかと思う。

 早めに出たので、この「大仕事」が終わるまでまだ時間がある。

 真結は、その間のできごとを思い出しながら、あまり急がずに泳いで行くことにした。

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