第28話 別れ(7)
「はじめてだね」
「真結のほうから抱きついてくるのは」
真結は何度もしゃくり上げ、声がことばにならない。
「いい?」
そういえば、お母さんがこんな言いかた、してくれたな。
いたずら者で、よく喧嘩して、泣いて帰ったり、それ以上に男の子を泣かせて帰ったりしてた相瀬に。
「なんでもめぐり合わせのせいにするのはいいことじゃない」
「うん」とでも言いたいのだろう。それを何度もやろうとして、けっきょく息が止まってしまう。
その動きが真結の胸と相瀬の胸を通して伝わってくる。
相瀬は続けた。やさしく。
子どもをさとすように。
「でもさ、めぐり合わせっていうのは、やっぱりあるんだよ。いいことをした人にいいことの報いが来るとはかぎらない。悪いことをした人に悪いことの報いが行くともかぎらない。それは神様が決めてらっしゃること」
自分の考えのように言ったら、姫様は怒るだろうか?
姫様が怒ってむくれているところも見てみたかった。でも姫様はそんなそぶりは見せなかった。相瀬が見たのは、お膳が少なくて、いかにも不満そうに、もったいなさそうに食べているところだけだ。
でも、これを自分の考えのように真結に言っても、姫様は怒らないだろうと思う。
「神様はさあ」
大きく息をつきながら言う。
真結の息が胸を通して伝わってきて、その気もちが体で感じられるように思う。
「神様は、だれに善の報いを与えて、だれに悪の報いを与えるかっていう理由を、ちゃんともっていらっしゃる。でも、神様はわたしたちよりずっと高くから広く遠いところを見ていらっしゃるんだ。わたしたちにはどうあってもつながりのわからないものごとのつながりが見える。そのなかの小さな小さなところだけがわたしたちには見えてるだけだ。だから、わたしたちは、どんなに考えたって、神様の理由っていうのはわからないんだよ」
真結が自分の体をはね返らせた。
でも、それは、すぐ近くから相瀬の顔を見上げるためだった。
涙が流れている。
拭いてやろうかと思ったが、やめた。
いまは、自分の手で真結の体を抱いているほうがだいじだ。
――もう、あまり時間はない。
「そんな……!」
自分の胸に、しっかり抱き寄せる。
真結も相瀬の肩の後ろに手をやり、その手にしっかり力をこめて、抱いた。
肩の後ろと胸と両方から骨を押されて、苦しい。
真結って力があるんだ……。
だとしたら、娘組の頭も立派に務まるだろう。
「神様を、信じよう……」
それが、あの姫様が相瀬と真結にいちばん伝えたかったことばではなかったのだろうか。
――とふと思う。
真結が、自分の肩の横で、何回かしゃくり上げ、何か言おうとしたのがわかる。
そのことばを相瀬は体で受け取る。
「相瀬さん……」
だから、相瀬も答える。できるだけ優しく。
「真結」
そして、次のことばは相瀬が先に伝えなければいけない。
「好きだよ」
「わたしもっ!」
真結は、それだけきっちりと声に出して言うと、もっときつく
ああ、ここまでか、と相瀬は思う。
相瀬はその真結の体を軽く押し返す。
それに逆らってまた体を近づけてこようとする真結の左の肌着の襟の下に、相瀬は手を入れた。
その胸から肩のあたりへと手のひらを動かしながら、さする。
ああ。やっぱりやわらかくて、すべすべしていて。
神様がとくべつに作ってくださった生きものだ、と思う。
真結はそれで抱きつくのをやめ、顔を相瀬の前にさらして、夢を見るように目を閉じた。
相瀬の動きをまねて、自分も相瀬の左の肌着をはだける。
相瀬の左肩から左腕をつかまえる。真結の右手は、その相瀬の左腕を、胸の横へと押し下げていった。
相瀬は逆らわない。
逆らわないまま、右手を真結の脇の下に通す。肌の上を滑らせながら首の後ろへと持って行く。
真結は、それで、自分の右手を自然に自分の体のほうに戻した。
それに乗じて、相瀬は真結の左肩に自分の首をのせる。
ひそかに何ごとかを伝えるように、真結に耳にささやく。
「真結……」
そうして、相瀬は左手の指をすばやく唇にやった。
真結が応じてくれるかどうかは、賭けだ。
失敗すると、とても情けないことになる。
相瀬は、その顔を真結の肩からはずし、真結の顔の前に持って行った。
だいじょうぶだ。真結もそのつもりだったようだ。
「相瀬さん……」
少しだけ目を開いてから、また閉じる。
真結は、あらかじめ胸の前に出していた両手で、相瀬の両頬を押さえた。
ああもう、どうして真結の肌がこんなきれいなのに、自分の肌はこんなざらざらしているんだろう――という思いが湧いて笑いそうになるのを抑えこむ。
そのまま、真結の首の後ろに置いていた右手で、真結の頭を自分のほうに押した。
互いの動きの、自然な成り行きだった。
真結は相瀬の唇に自分の唇を合わせてきた。
相瀬もそれに応える。
深い口づけだ、と相瀬は思う。
これで、たぶん……。
姫様がうそをついていさえいなければ!
――姫様がうそをつくはずがなかった。
相瀬の腕の中で、真結の体が急に力を失っていく。
その体を支えて、床に置いてやる。
真結はぐったりと気を失って倒れていた。
相瀬は、左手で、器用に、あの白木の丸い入れ物の蓋を閉じる。
自分の左の腰帯のところ――ちょうど姫様がこれを収めていたのと同じところに戻す。
いや、姫様の言いかたでも弱かったかも知れない。
そんなに長いあいだ口に含んでいたわけでもないのに、相瀬の唇は
舌の先もだ。
姫様はこれを自分で飲んで試したといった。
この効き目を見ると、試した、どころじゃない。
……死ぬつもりだったのだ……。
そんなことはいまはどうでもいい。
姫様のことばを信じよう。真結は死ぬことはない。
ここから運び出すのがたいへんかも知れない。ここには気を失ったままの姫様を運び入れたことがあるから、できるのはできるはずだが。
真結のほうが、少し体が大きい。
でも、やらないといけない。相瀬にとって、それがこの村での最後の仕事になる。
「
――真夜中でも、朝早くでもかまわないから来なさい……。
相瀬は顔を上げた。
月の光は、相瀬がここに来たときよりもずっと強くなったらしい。
嵐の去ったあとで、空もきれいに晴れているのだろう。
その月の光が、主のないままに百年眠り続け、ひと月足らずのあいだだけ主を迎え、また久しく主を失うこの小さい部屋にも、十分すぎる明かりを与えてくれていた。
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