第11話 鬼の裔(11)

 「あ、いやいや」

 慌てているところを見せていいと思う。

 「そんな、お姫様にお願いなんかされるようなことはしてないです。それより、なんかいろいろうまく行かなくて、すまなかったと思ってます」

 そこで、くすっと笑って、何がうまく行かなかったのですか、などと言われると、なんだか困ると思う。

 でも姫様はそうは言わなかった。

 「わたしたちは、自分の功徳くどくを人に分かち、ほかの人の功徳のおかげを蒙り、また自分の悪行で得たものを人に与え、人からも悪行で得たものを受け取って生きています。それは避けようがありません。だから、だれもが、もとはほかのだれかのものだったかも知れない功徳の果報かほうを受けるかも知れないし、身に覚えのない悪行の報いを受けるかも知れない。それはわからないのです」

 姫様は息を短く継いで、続ける。

 「神様には、だれに善行の報いを与え、だれに悪行の報いを与えるかという、きっちりした理由があるのかも知れません。いえ、あるのだと思います。しかし、神様はわたしたちよりずっと広く遠いところを見ておられます。だから、わたしたちには、その理由はわかるものではないのだと思います。わたしたちは、その神様のさばきを受け入れながら、何をして生きなければ行けないか、たぶん、ずっと考えながら生きて行くしかないのだと思います」

 ああ、姫様はこういうふうに言うのか。

 盛の大小母おおおば様に、筒島つつしまの神様を恨んではいないかときかれたとき、自分もそんなことを答えたと相瀬あいせは思う。

 でも、その答えよりずっと理屈っぽい。

 学問をしているとそうなるんだ、という思いと、自分は学問をしていなくても学問をした姫様と同じようなことを考えられた、という思いが交わる。

 でも、同じようなことを言っても姫様を感心させることはできない。

 いま、姫様にいちばん伝えておきたいことって何だろう?

 「あのさ、姫様」

 相瀬は仲間の海女たちに言うように言った。

 「さっき、瀚文公かんぶんこう様がサガラウエモンノジョーとかいうのに会わなかったとしたら」

 ここでことばが切れたのは、そういえば、最後が「ジョー」で終わるのは、こいつはあのクワエといっしょだな、ととっさに思ったからだ。

 「はい?」

 「いや、会わなかったとしたら、瀚文公様はわたしたちと同じ貧しい小百姓こびゃくしょうで一生を終わっておられたかも知れない、って言いましたよね?」

 「ああ、はい。言いましたけど?」

 そのきょとっと首を傾げたところがかわいらしい。

 さっき、自分の祖先の話をしていたときの姫様はほんとうに「鬼」のようだった。何か悪いことを企んでいる人のように、次々に顔つきを変え、声色を変えた。

 憑いていた「鬼」が落ちた。

 よかった、と思う。

 相瀬は続ける。

 「そうすれば、姫様も、いま姫様がいるここの村で暮らしているただの小百姓の娘だったかも知れませんよね」

 もちろんお姫様にそんなことを言うのは失礼だとわかっているけれど、いまさらそんなことを気にしてもしようがない。

 「ええ、そうですね」

 「だったら、いまごろ、隣村の女の子どうし、姫様とわたしは仲よくしていたかも知れない」

 「ええ」

 姫様は明るい声で言った。

 「わたしも泳ぎを覚えて、相瀬さんに潜るのを教えてもらって、いっしょにあの海鼠なまこという生きものをったり、あわびを獲ったり、そんなことをして日々を送っていたかも知れませんね」

 海鼠と来たか。

 「いや、あの海鼠というのは、平気でつかめるようになるまでにだいぶ覚悟がいると思いますよ」

 相瀬でも、最初につかんだときには水の面まで跳び上がったのだ。武士らしい武士であるはずのクワエもつかめなかったという。

 「まあ」

 姫様は首を傾げたまま、

「わたしは、干した海鼠と、それを水で戻したものしか見ていないのですが」

 あと、その水で戻したのを細かく切ったのも見ているはずだ。

 このまえ、ここに持って来たお膳のなかに入っていた。

 「あれはあんな姿で泳いでいるものなのですか?」

 「ああ、いや」

 見たことのない人は、そんなことを思うんだな。

 「あれは、海の底なんかを這ってるんです。泳ぎません」

 「まあ。海の底ってあんなのがい回ってるんですか? 考えることもできないわ」

 考えることができないって言ったって……いるんだからしようがない。

 それに、あれが泳いでいるところなんて、もっと考えられないんじゃないかな。

 その海鼠と鮑がこの国の天下を支えていることを知っていたり、阿蘭陀オランダ語の字引で何か別のことばを調べたりするこのお姫様が、海鼠が海の底を這っているのも知らなかった!

 相瀬はおかしくて笑い声を漏らした。

 姫様も、小さく、かわいらしい笑い声を立てる。

 隙間から漏れてくる月の光の照り返しの下で、二人の笑い声が交わる。

 相瀬が大きくひと息ついてから言った。

 「そういうふうに、姫様と友だちになりたかった」

 「ええ。わたしもです」

 言って、姫様は唇の両端を引き、目を細くした。

 でもさっき同じような笑いかたをしたときとは違っていた。

 自分より少し下の年ごろの女の子が、自分たちに見せることのできるいちばんいい笑顔だと思う。

 相瀬は、このお姫様を抱きしめてみたくなった。

 体を抱いたことはある。そうやってここまで連れて来たのだから。

 でも、ぎゅっと抱きしめたことは、まだ、ない。

 やわらかいだろうか、あんがい硬いだろうか、あったかいだろうか。

 抱いてみるとどれくらいの大きさに感じるだろうか。

 だが、相瀬が姫様に抱きつく前に、姫様が相瀬の前に手を差し出した。

 手のひらの上には、あの小さい「鬼鮑」を入れた白木の入れ物を載せている。

 これをどうするというのだろう?

 「これはもうわたしには必要のないものです。だから、わたしよりも、もっとこの貝と縁の深い相瀬さんに持っていてほしいと思います」

 相瀬をまっすぐに見ているのは、目の黒い、なんでも知りたがるような、ちょっといたずらな女の子の顔だった。

 お姫様として生まれ、これまでお姫様として積んできたいろいろなものを落として、ただの女の子に戻った、と思う。

 この子ができることはぜんぶやった。

 このあと、この子がただの女の子に戻るためにできることは、自分がやろう。

 相瀬はその小さいまるい入れ物を受け取って、言った。

 「ええ。じゃ、これはわたしがいただきます」

 姫様は、ほっ、と息を漏らした。

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