第5話 鬼の裔(5)

 「……」

 まだ声が出ない。息をつきながら頷くのでせいいっぱいだ。

 姫様がその手のひらの上のものを入れ物に返す。蓋は開けたままだ。

 それは。

 はっきりと二本の「角」が生えた、小さい黒い貝だった。

 大きさは、小さい。

 でも、それは、あの筒島つつしまの洞穴に――「ご胎内」に――いる「鬼鮑おにあわび」だ。

 「そうです。知っています」

 声が震えている。

 もし、領主家にこの「鬼鮑」のことが知れているとするならば、相瀬あいせは知らぬふりをしたほうがいいのだろう。でも、驚いたところを見せてしまったのだから、もうしかたがない。

 「これはもっと大きくなるんです。そして、真結まゆいが身に傷をつけるのはいやだと言い張ったのは、この貝のことです」

 「ああ、真結さんにも縁があったのですか」

 姫様はふっと目を伏せる。息をついて、また吸ってから、姫様は顔を上げて言った。

 「これのことが領主家に漏れているかと考えているとしたら、その心配はありません。もちろん、わたしだけは別ですけれど。父上――刑部ぎょうぶ様もご存じありません。ああ、それに、もちろん相良さがら様もご存じありません」

 「あ、ああ……」

 何が気にかかっていたか、姫様には見抜かれていた。

 「でも……それっ……」

 まだ声が喉につっかえる。

 「それ……、いや、もうこうなったら、何もかも話しましょう」

 そう言うと、少し声が落ち着いてきた。

 「それが、その筒島という島にいるんですよ。それを知っているのは、海女の娘組の頭と次の頭だけです。もちろん、前にその頭というのを務めたことのある海女はみんな知っています。でもほかの海女も漁師も知りません。もちろんほかの村人もです。そして、村は、一度でも海女の娘組の頭か次の頭を務めた海女は、一生、村を出られないという掟をつくって、この貝のことが外に漏れないよう守ってきました。たぶん、この祭礼で海女の娘組の頭が参籠さんろうすると決められているのも、参籠中にその大きい貝を扱うのを知られないようにするためです」

 姫様は小さく頷く。相瀬が続ける。

 「だからよくわからないんです。どうして姫様がこれを持っているのかが……」

 「その筒島という島のほかに、もうひとつ、いる場所があるのです」

 姫様は澄んだ声で答える。

 「もっとも、そこではこの貝はこの大きさにしか育ちません。その筒島では、もっと大きくなるまで育つんでしょう?」

 「はい……」

 姫様は黙っている。

 相瀬がきいた。

 「その場所というのは、どこですか?」

 姫様は答えを拒むだろうか?

 立場が逆なら、相瀬は一度は答えをはぐらかす。

 「岡下の……」

 でも、姫様は拒まなかった。

 「永遠寺ようおんじ塔頭たっちゅう真浄土院しんじょうどいんというところの池です。真浄土院は、まことの、浄土、と書きます」

 「あぁ……」

 タッチューというのが何かわからないが、そのヨーオンジというのは姫様が預けられていたお寺だということは覚えていた。

 「いや、でも……池?」

 海に育つ魚も貝も、池では生きられない。逆に池や川の魚や貝は、海では生きられない。相瀬の知っているところではそうだ。うなぎという魚は川から海に下るらしいけれど、少なくとも相瀬はうなぎが海を泳いでいるのは見たことがない。

 「そうです」

 姫様は頷いた。

 「そこには海から塩を運ばせて、塩が沈むほどになるまで塩を入れているのです。日あたりはで遮ります。そうすると、青い毛氈もうせんのような藻が生え、この貝が育つのです」

 「ああ。それならわかります」

 わかる、と言っていいのかどうかがわからないけれど。

 「筒島もちょうどそうなっているんです」

 日はあまり強く射さないが、月の光が漏れてくるのだから、昼には日も射すのだろう。そして、あの長い若布わかめのようなものと、姫様の言うその毛氈のような藻が生える。

 だったら、その池でこの貝が大きく育たない理由もわかる。

 たぶん、そこでは、あの稚貝ちがいがくっついていたあの若布のような藻が生えないからだ。

 それで?

 「この貝を持ってきたのが、その鬼たちなんですね?」

 「持ってきたのか、もとからここにいたのかはわかりません」

 姫様は答えて、続けてきく。

 「でも、相瀬さんの知っている鬼は、この貝のことを知っていて、しかもこの貝ととても深い関わりがある。そうではありませんか?」

 「はい、はい」

 相瀬は自分の気もちが昂ぶっているのを感じる。

 「そのとおりです」

 姫様は端整にまた目を閉じた。

 気持ちをしずめているのだろうか。相瀬もそうしたほうがいいのかも知れない。

 「それでわかりました」

 でも、相瀬が気分を落ち着かせる前に、姫様は続きを話し始めた。

 「鬼には二種類いるのです。相瀬さんの知っているのは、この貝を知っている鬼たちで、これはいまこの国にはいません。相瀬さんの言うように鬼の国というのがあって、相瀬さんの言うとおりだとすれば、明後日の夜だけ、そこから訪ねてくるのでしょう」

 「はい……」

 「それに、その鬼たちは自分で自分のことを鬼だなんて言いませんよね? わたしたちがその鬼たちを鬼と呼んでいるっていうことも知りませんよね?」

 「ええ、まあ」

 確かめてみたことはないけれど。姫様は軽く頷く。

 「でも、もうひとつ、この貝のことを知らない、少なくとももう忘れてしまって久しい鬼たちがいて、それは、困ったことに、この領内にいまも住んでいるのです」

 「はい。え? あ、いや、そんなの……」

 あれの仲間が、領内に?

 それは困ったことだ。いまは忘れているとしても、それを思い出してこの唐子からこ浜に押し寄せてきたりしたら、どうすればいいのだろう?

 矢や鉄砲で追い返す? いや、そんなことをしたら、せっかく隠していることがお城に漏れてしまう。

 いや、あれは矢や鉄砲で戦わなければいけないような荒っぽい連中ではない。

 でも、ともかくそれがいまどこにいるのかくらいはきいておかなければ。

 「いや……それは、片方が海のほうにいるとすれば、片方は山奥とか?」

 姫様は首を振った。

 「お城にいます」

 「……!」

 相瀬は、城の奥深く、何重にも閉ざされたところに閉じこめられている鬼を思い描きかける。

 しかし、その前に姫様が言った。

 はっきりと、相瀬のほうに顔を上げて。

 「わたしが、その鬼の子孫なのです」

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