第3話 鬼の裔(3)

 「ええ」

 姫様はそれまでと変わらない声で答えた。

 「それで?」

 「今日が二十二日の夜、明日が二十三夜様の月待ちで、その次が二十四日の夜なんですが」

 自分で言っておいて、まあそれはそうだな、と思う。日数が一日ずつ増えていくのはあたりまえだ。

 「ええ、それで?」

 「二十四日の夜、鬼が来ます」

 「……はい」

 「その鬼に、姫様を預けようと思うんです」

 「……はい」

 順番に説明したつもりだったが、でも、やっぱりすぐにはわかってもらえないな、と思う。

 「いやぁ、姫様をどうやって連れ出そうか、いろいろ考えたんですよ」

 だから正直にそこから説明することにする。

 「よその領内に出て、お伊勢様にお参りするというふりをして江戸に行くとか、海づたいに江戸に行って公方くぼう様に訴えるとか、いろいろ考えたんですけど、どれもできそうになくて」

 「ああ、かなえも同じようなことを考えていました」

 姫様があっさりと言う。

 それはそうだな。姫様の乳母を務めた人ならば、それぐらいは考える。

 あのひとも生きていてくれて、話し相手になってくれていたらもっと楽だったろうと思う。そうしたら、その叶さんの考えたところから相瀬あいせはさらに先を考えればよかったのだから。

 それに、この姫様を育てた人なんだから、話せばおもしろい人だったに違いない。

 「わたしたちは最初に岡下おかしたに抜けようとしたのですが、岡下領との境は、関所のあるところないところ含めてすでに相良様の手の方がたが固めておられました。山道を越えて領外に出ることも考えたのですが、すぐに追っ手が追いついてきて、危ういところで逃れました。しかも、そのときのことで、ここから江戸に抜ける街道沿いにも相良さがら様のお手が回っていることがわかりました」

 いや、サンシューのようなやつに「お手」なんて言ってやらなくていいと思うのだけど。

 「それでわたしたちはここから自害しようとしたのです。それに、江戸に着いたとしても、とっくに江戸のお屋敷の人たちが手を回していて、わたしたちが公儀こうぎに訴える道は閉ざされているでしょう。訴え出たところで捕縛ほばくされていたに違いありません」

 ああ、そうなのか。

 公方様のおん許に行けば、悪臣の小細工など相手にされず、公方様の正しいお裁きを受けられると思っていた。

 そういうわけにもいかないらしい。

 「もっとも、先にはいま江戸にいる父が乱行で蟄居ちっきょ、いまの父が娘に殺されるということが起こり、しかもその娘が公儀に直訴を試みた、となると、御領の召し上げということにはなるかも知れませんね。岡平おかだいらの御領はそれくらい危ないところまで来てはいるのです。まあ、そうなって岡平領が公儀に召し上げられるとすれば、相良様を家老からやめさせることはできることはできますね。召し上げられれば家老も何もなくなってしまいますから」

 そう言う姫様のことばは、さっき相瀬あいせのよい行いの話をしていたときよりも、いや、これまでどの話をしたときと較べても、冷たかった。

 「それで、相瀬さんのいう鬼に、わたしを預けると」

 だから、姫様が話をいまの自分に戻したことで、相瀬はほっとした。

 鬼の話に戻ってほっとするなんて……。

 「はい」

 「では、その鬼はどこから来るのですか? 預けられたわたしは、どこへ行くのですか?」

 姫様はいちばん答えにくいところをきいてくる。

 でも、そうだよな、と思う。姫様には学問があるのだから。

 正直に答えるしかない。

 「それがわからないんです。どこかに鬼の国というのがあって、そこに行くのだ、というぐらいしか」

 「でも、どこかでその鬼の人たちとは会えるんですよね? そうでないと、わたしを引き渡すことはできません」

 姫様が理屈を追って考えてくれることが、いまは相瀬には嬉しい。

 それに、いまのことばで、姫様も、「鬼」というのは人のうちだと考えているという見当がついた。

 「それはどこで、ですか?」

 「海の上です」

 相瀬は目を閉じ、どこまで言うかを考える。

 でも、もうここまで話せば、姫様に黙っているのはかえってよくないと思った。

 「前に、初めて海女になる子が泳いで行かなければいけない筒島つつしまという島のことを話しましたよね」

 「ええ」

 答えはそっけない。でも、この姫様ならば、ただ話を合わせただけでなく、ちゃんと覚えていてくれての返事だろうと思う。

 「そのもう少し沖です」

 「でも、わたし泳げませんよ」

 やっぱり泳げないのか!

 でも、それはもう考えに入れてある。もし姫様が泳げたとしても、「海女の娘と同じように泳げる」ことなんか最初から望んではいない。

 最初から「自分は泳げない」と思っていてくれるほうが助かる。

 「板きれにつかまれば人の体は浮きます。それでわたしが引っぱって行きます。途中で、二度、休むことができます。それでも水にかるのはいやですか?」

 そうなったら舟に載せていくしかない。そうすることも考えに入れているけれど、それはできればやめておきたかった。

 舟を使うと目立つ。それに、泳ぐのならばここの禁制の浜から泳いで行けるが、舟は唐子浜からここまで回してこなければいけない。夜のうちに浜に出ただれかが海女組の舟が一艘ないということに気づくかも知れない。

 「いやだなんて申しません」

 よかった、と思う。

 「ただ、相瀬さんにご無理をさせるのでなければ、ですけど」

 「あ、いや。そんな。無理ではないです、ぜんぜん無理ではないです」

 相瀬は笑って答える。

 「ま、無理であってもなくても、やろうと思ったことをなさるのが相瀬さんですからね」

 言って、姫様はくすんと笑う。

 「相瀬さんを信じます」

 姫様と会ってからひと月も経っていない。それでこの姫様は相瀬のそういうところをよく知ってくれている。

 ここでそういう話ばかりしたから――だろうか?

 姫様は続ける。

 「それに、その鬼の国というところに行ってからのことですが、そんなにひどいことにはならないと思いますよ。少なくともここの領内でわたしが受ける扱いよりはずっといい暮らしができると思います。もちろんその鬼の国というのは地獄絵図の地獄のようなところではないだろうと思います。ただ、そこに行ってしまうと、相瀬さんにもだれにも、まず、もう二度と会えなくなってしまうとは思いますが」

 「ええ……」

 それは相瀬も思っている。

 しかし、姫様が「鬼の国」に行くことをここまでかんたんに受け入れてくれるとは、相瀬も思っていなかった。

 姫様は、やはりほんとうに「鬼」に会ったことがあるのだろうか?

 なぜ「鬼の国」が地獄とは違うことを姫様は知っている?

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