第2話 鬼の裔(2)
――これでは、入り口の壁を叩いて合図しても意味がないのでは?
でも、しかたがないと思う。
相瀬だって、海から引き上げた後、しばらく眠ったのだ。夢も見ないほどに深く。
もちろん相瀬は短い時間のあいだに何度も「力の限り」まで泳いだり舟を漕いだりした。でも、姫様とは体の
それに、この用心も今日までだ。
「姫様」
姫様の向かいに座って、相瀬は声をかけた。
「あの嵐のあいだ、お経を唱えてくれてましたよね?」
「ああ、はい」
姫様はすなおに答えた。
「相瀬さんと村のみなさんのご無事をお祈りして」
ほかの人がそんなことを言えば、何をきれいごとを言ってるんだと思うけれど、この姫様の場合はほんとうにそうなのだろうと思う。
「ですから、わたしが大事だと思うお経よりも、みなさんになじみの深いお経をお読みしました」
「ああ……」
そう言われても、相瀬はお経なんか読んだことがないからぜんぜんわからない。相瀬にとって、お経というのは、お寺の
姫様は説明する。
「いまから二千二百年ほど前、お
「はあ」
お経というものに、この世の人が聴いて意味のわかるなかみがある、ということに、相瀬はまず驚いている。
あれは、仏様と神様とお坊さんと神主さんくらいしかわからないことばではなかったのか?
姫様の説明が続く。
「最初から仏様は
「はぁ……」
そういうことを説明してもらって、相瀬にはわかるようでもあり、でもほんとうはよくわからない。
「でも、どうして、わたしがお経を読んでいたことをご存じなんですか?」
「あぁ」
ご存じというほどのものじゃないけれど。
「聞こえたんですよ、姫様がお経を読んでいらっしゃるのが」
「でも、相瀬さんはこの近くにはいなかったのでしょう? それにそんな大きい声は出してませんよ、わたしは」
参籠所に帰るふりをして盗み聞きしていたと思われたのだろうか?
そう思われているとしたらおもしろくないけれど、でも、しかたないな、とも思う。
「ああ、いえ、そうじゃないんです」
相瀬は、さっきここを出てから起こったできごとを短く説明した。
海の上で無事に村に帰れるのかどうか不安になったときと、嵐のまっ暗な海で
姫様は短く息をついた。
「不思議なこともあるものです」
言ってから顔を上げる。
「でも、それは相瀬さんの
姫様の語りようはまじめだった。
「ああ、いえ、そんな……」
相瀬は「そんなにいいことをした覚えはない」と姫様に言おうと思った。
でも「よい行い」のせいでないとしたら、もともと相瀬には嵐の海で舟を漕ぎ闇の中で人を救う才が備わっていたことになってしまう。
そちらのほうがもっとほんとうではない。
姫様は続きに何か言おうとしたが、軽くまぶたを閉じて言うのをやめた。しばらく目を閉じてから、またまぶたを開け、言う。
「ところで、相瀬さんは、今晩じゅうにわたしに言っておかなければいけないことがあるっておっしゃってましたよね?」
「ああ」
相瀬はその「よい行い」の話を姫様からもっと聞きたくて、その話を切り出すのをためらっていた。
姫様がその話を断ち切ってしまったのはもったいないと思う。それに、これから話す話は、姫様にとって楽しい話ばかりではないかも知れない。
もちろん相瀬にとっても。
でも、姫様がきっかけを作ってくれなければ、相瀬はその話に入れなかったかも知れない。
相瀬は話を始めた。
「いつか、姫様は鬼に会ったことがあると言ってましたよね?」
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