荒磯の姫君(下)

清瀬 六朗

第1話 鬼の裔(1)

 明るい光が目に射して相瀬あいせは目を覚ました。

 日の光ではない。さやかな月の光だ。

 手も足もかずにいられる。浮いていられるのでも潜っていられるのでもなく、ただ手足を伸ばしただけでしていられる。

 それもまた「ありがたい」ことだと思う。

 雨戸あまどは一枚飛んでいた。

 釘打ちしていなかった入り口の雨戸だ。

 相瀬が外に出たときに外からかぎをかけた。でもそんなのでは足りなかった。雨風の打ちつけるなか、泥水の滝を逆さに泳ぐようにしてようやくこの参籠さんろう所に帰ってきて、雨戸がはずれているのに気づいたけれど、もう戻す気力もなかった。

 そこから緑の草が軽く風に靡いているのが見える。月に照らされてはっきり見える。

 虫の音が聞こえていた。

 嵐は去った。

 まだ風は吹いているが、肌をさらしただけで痛いほどの風ではない。

 それにしても、いま鳴いている虫どもは、あの嵐のあいだどうしていたのだろう?

 ぜんぶ飛ばされてしまっていてもおかしくないのに。

 草の根方のほうに、あのはげしい風の来ない場所が残っていたのだろうか?

 相瀬は身を起こした。

 明日が二十三夜の月待ちで、月の出は真夜中――夜がいちばん深まるころだ。

 今日はその前の夜で、もう月が昇っているのだから、やっぱり夜のいちばん深い真夜中ごろだろう。

 夏の夜は短い。

 ここに戻る前に、雨戸の釘をはずすのは、明日、昼になってからにしてほしいと言ってきた。夜のあいだはずっと眠っていたいからと。

 行かなければいけないところがあるのを、相瀬は覚えている。

 ほっ、と、強く息をつく。

 立てるだろうか?

 嵐の海で、何度も力の限りまで泳いで。

 立てた。

 足がふらつきもしない。自分の体の頑丈さにはあきれる。

 外に出る。夜空はきれいに晴れわたっていた。ここから見上げる限り、雲の影などどこにも見えない。

 相瀬は参籠所にだれも来ていないのを確かめてから、崖の道を禁制の浜に向かって急ぎ足に下りていった。

 参籠所近くの草の虫は戻っていたが、船虫は出てこない。崖にはところどころ水が小さい滝のようになって流れ落ちてくる。岩のあいだから勢いよく水が吹き出ているところもある。ふだんは足がすべらないところで足がすべる。歩きにくい。

 「遺跡」の街にも波が打ち寄せたのだろう。波打ち際に近いほうは草がぎ倒されている。

 「遺跡」に住まう神様たちは、いまごろ

「今日の嵐はきつかったですな」

「ええ、ここ数年なかった嵐ですな。難儀なことです」

などと話しているだろうか。

 それとも、神様にとっては何でもない嵐だったろうか。神様は嵐を招くほうなので、人のように嵐に難渋なんじゅうしたりうろたえたりはしないものなのだろうか。

 月は斜めに照らしている。海に面した東側の草が薙ぎ倒されたせいか、その月の光がいつもより明るく射していた。

 まだ月は低い。姫様と話をしている時間は十分にありそうだ。

 別院の周りまでは波は来なかったらしい。草も、風に吹かれて倒れているところはあったが、波に薙ぎ倒されてはいない。ところどころに高い木の枝が落ちている。

 今度は合図に壁を叩けば、姫様には伝わるだろう。

 別院の裏に寄り、木の壁を叩こうとする。

 でも、相瀬は思い直して、姫様の部屋の入り口を通り過ぎ、別院の裏から正面に出てみた。

 さっきの嵐でほかにも難船した船があったかも知れない。難船しなくても、嵐を避けて来た船がいるかも知れない。

 その船がもしこの浜に着いたとしたら?

 この禁制の浜に船が来ることは、唐子浜の秋の祭礼の船を除いてはまずない。

 近在の人たちはここが禁制の浜だと知っている。そうでなくても、ここは海の底が岩だらけで、下手に船を入れると岩に乗り上げてしまうからだ。それに気づいた船乗りはここの浜には寄って来ない。

 だから、ふだんは船がここに来ることはないのだけれど、流れ着いたり、嵐を避けたりして船がこの浜に来れば、その乗り組みの者たちはどうするだろう?

 まず、浜にある雨露をしのげそうな建物――それも頑丈そうな建物に逃げこむのではないか。

 つまり、この別院に。

 別院の正面に出る。斜め前から月が照らしていて、明るい。

 正面の入り口のかんぬきは下りたままだ。錠にも鍵がかかっている。

 背を伸ばして連子れんじ窓からなかを覗く。

 板敷きの間があり、神棚があり、そこが連子窓からの明かりでほの明るい。

 あの嵐にも神棚においてある空の祭具は動いても倒れてもいなかった。

 姫様の言うとおり、吹きこんできた風を、部屋を通さずに逃がす風の通り道が作ってあるのかも知れない。

 いまはここには神様はいないはずだが、相瀬はそっと手を合わせる。

 それに、ここから神棚に向かって拝んで、神様がいない神棚をそのお祈りが素通りするとすれば、神棚の向こうにそのお祈りは届くのだ。

 そこにはいま姫様がいる。

 くすぐったい。

 相瀬は浜まで行ってみようかと思った。

 迷う。

 浜に流れ着いて、ここまで歩いてくる気力もない人が倒れているかも知れない。

 いや――と相瀬は首を振った。

 この浜に流れ着いた人は助けない決まりになっている。もちろん、ここが人が足を踏み入れてはいけない禁制の浜だからだ。

 相瀬はたしかに大岬から身を投げた人を助けた。それだって、その決まりから言えば助けてはいけないはずだ。でも、助けた。

 姫様を助けたときの心持ちを貫くならば、やっぱり浜に難船者が流れ着いていないかを見て、流れ着いていたら助ける手筈てはずを整えるのが筋だろう。

 けれども、そんなことをしていては、姫様に、伝えなければいけないことを伝えている時間がなくなってしまう。

 それに、そういう人を助けたら、相瀬がここに来ていたことが村にわかってしまう。

 そうすれば、相瀬はお叱りを受けるだろう。叱られるぐらいはいつものことだからいいにしても、参籠をやめさせられてしまうかも知れない。

 そうすると、姫様を助けることもできなくなってしまう。

 ――いまは姫様のことをまず考えよう。

 相瀬は、別院の反対側を回って、姫様の部屋の入り口へと向かう。

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