二十葉・ごめんなさい。

「富士山、綺麗でしょ?」


春風。

黒髪が青空に線を引く。

風に吹かれる少女の向こうには桜の並木、そしてその果てに名峰富士が聳えている。

それを眺めながら、少女は――小野おの千代ちよは声を弾ませた。


「桜と富士山の景色。これが、私の大好物なんです。小さな町ですが、この景色があるからまた来たいなって思うんです」


弾むようなその口調で、千代は語る。

その隣で、ショウマは頬を染めて頷いた。


「本当に、良い景色だね」


僕と弟は千代に連れられて、富士山の見える町へと来ていた。

新幹線と在来線を乗り継いで三時間ほどの小旅行だった。


「目的地は、この先?」


僕の隣で弟が首を傾げた。

弟と僕にとっては初めての街。

あらかじめ目的地の大体の場所は聞いているものの、やっぱり実地を歩いていると分からなくなる。


「うん。あとはこの道をまっすぐ進むだけ」


そんな僕らに、千代は笑顔で頷いた。


「そろそろ疲れてきますよね。すみません、駅からちょっと遠くて」

「ううん、大丈夫。それよりも本当にお伺いしても大丈夫だった?」

「はい。そもそも私からお誘いしたんですからそんなに遠慮しないでください」


いつもの如く千代は僕に丁寧に答えて、ふっと笑顔を見せた。

卒業式の日に話して以来、僕は何度か彼女と会う機会があった。

彼女が慕ってくれているというのもあって、コミュニケーションはうまく取れていると思う。

でも、その丁寧な仕草は相変わらずだった。

それは多分、僕に遠慮しているとかではなくて、彼女なりの距離感の測り方なのだと思う。

一歩一歩、丁寧に距離を詰めていくその姿は、兄とはまるで真逆だった。


「あ、ゴールが見えてきましたね」


ぼんやりとした思索を破り、千代さんが声を上げた。


「あの、赤い屋根の家?」

「そうだよ。長い道中、お疲れ様でした」


弟に頷いた彼女が指し示す指の先に、僕は目を向ける。

桜並木の途切れた先、青い空と無機質な住宅街の中に、小豆色の屋根が一つ見えた。


「あそこが目的地……祖母の家です」


* *


「はじめまして。河津かわづ郁乃ふみのと言います」

「弟の翔真ショウマです」

「ようこそ、おいでくださいました。こんな田舎にまで足を運んでくださり恐縮です」


千代さんに似てとても腰の低い人――お祖母さんの第一印象は、そういった感じだった。

一人暮らしには少し広い一軒家は、その隅々までが全て綺麗に吹き上げられていて、客間の窓から見える庭には松の青い葉が初春の陽射しに踊っていた。


「少し前までは孝太がよく手伝ってくれたのですが、今は私ひとりなので……蕭然しょうぜんとしているのには目をつぶってくださいね」


そう言って笑うお祖母さんの、その言葉の意味はわからなかったけれど、どうも謙遜をしているらしく。

でも、そんな言葉が謙遜だと言えるほどに、部屋の中も外も美しく調和のとれた居心地の良い空間になっていた。


「まずは、お悔やみを。今回のことは本当に……心中いか程かと……」

「いえ、こちらこそお二人にはよくしていただいたようで……」


お祖母さんはそう言って、僕の手を取った。


「特に郁乃さんには随分と孫がお世話になったようで……堪忍ね」


――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。


おばあさんの言葉が親友の言葉と重なった。


重い……本当に、とても重い謝罪の言葉。

親友からの手紙はそれっきり、終わっていた。

終わりに向かうほどに乱れていくその筆跡を追いながら何を考えていたか、僕は自分のことのはずなのに思い出せない。

ただ、世界は色を失って、その謝罪の言葉だけが瞼の裏に焼き付いていた。


それからの一か月はどこか、夢の中を彷徨っているようだった。

弟が無事志望校に合格した時も、千代さんから弟と同じ大学に行くことが決まったと聞いた時も、町中で黄梅を見なくなり、桜がほころび始めても、それを見聞きする僕の心は打てども響かなくて。

僕の心はいつも、彼岸に在った。


そんな時。


――祖母と、会ってはいただけませんか?


そんな「お願い」を、千代がしてきた。


千代の祖母は、親友が最期に言葉を交わした人物なのだとか。

今際の際の彼のもとに真っ先に駆けつけて、ただ一人でその死を看取ったらしい。

戦中に生まれたおばあさんはもう結構な年齢になっていて、それなのに孫を失い、しかもたった一人でその死を看取ることになった。そのため、今回のことで心身を壊さないかと、千代や周囲の人々は心配していた。

そうした配慮から、おばあさんの前で彼の話をすることは、親族一同の暗黙の了解として憚られていたらしい。


『でも、祖母が生前の兄の様子を知りたいと言ってきたんです』


――ハッキリと覚えている間にたくさん思い出しておかないと……思い出は、手に掬った水のようにどんどん零れて失われていくものだから。

そう言って、兄の写真を指で撫でる祖母が不憫で仕方ないのだと、千代は言った。


『だから、祖母に話してあげてはくれませんか?』


そして今。

僕は、親友の祖母と向かい合っている。

南側は一面ガラス戸で、そこには日差しの差し込む和風の枯山水庭園が見えた。遠くには富士山の見える、素晴らしい借景だった。

西の壁には大きなテレビが埋め込まれ、そのまわりの棚には一面、写真が飾られていた。

その中には、僕の知る男の子のものも少なからず飾られていて。


「……彼は、みんなに優しい人でした」


写真の中の笑顔を見ていると、言葉が勝手に喉から溢れ出していた。


「彼は……彼は、僕の救世主なんです」

「そうなのね」

「彼は…………彼は…………」


――会話をした。

そう表現するのは、少し不適切なのかもしれない。

それくらい、ずっと僕ばかりが話していた。

まるで蛇口に何かが詰まっているかのように、途切れ途切れに、ポツポツとしか出てこない言葉たち。

でもそれを急かすこともせず、丁寧に頷きながらおばあさんは僕の話を聞いてくれた。

そして一つ語り終えるたびに笑ったり、時折目頭を押さえたりして。


……それが、なんだか辛かった。


僕が、彼の話をしていいのかと。

彼を追い込んだ僕が、何も気づかなかった僕が、彼との思い出を話しても良いのだろうか、と。

彼自身にその意図はなくとも、彼の遺書において僕は、ある種の「加害者」であった。

その僕が、彼を語っていいのだろうか。

そんな問いに、思い出を呼び起こすたびに胸が締め付けられるような思いになりながら、それでも僕は話して、話して……話し続けて。

一体、どれだけの時間話していただろうか。

ようやく話がひと段落ついたころ、おばあさんは初めて自分から口を開いた。


「……ありがとうございます。孫との思い出を……これだけたくさん大切にしていただいて……」

「いえ、僕の方こそ感謝しているんです。彼がいたから、今の僕はあります。本当に……もっと思い出を作りたかった」

「……そう言っていただけると、あの子もきっと喜ぶでしょう」


うれしそうに微笑むその表情に、僕は泣きたいような気持ちになった。


「……あの、よろしければ、彼の昔のことなど教えていただけませんか?」


気がつくと、僕はそんな言葉を口にしていた。


「幼い頃の彼が周りから見るとどんなお子さんだったのか、どんな風に育ってきたのか……知りたいんです。無遠慮なことを言っているとは思いますが……」

「いえ、ありがとうございます……」


おばあさんは小さくそう呟いた。

下を向いたその肩は、小刻みに震えていた。


「おばあちゃん……」

「うん。大丈夫よ、千代ちゃん。嬉しくて、心が少し揺れちゃっただけよ」


そっと寄り添う千代さんに、おばあさんは優しく微笑んで、それから少し潤んだ目を僕に向けた。


「お恥ずかしいところを、ごめんなさい」

「いえ……」


小さく首を振る。

それに、おばあさんは優しく頷いてくれた。


「千代ちゃん、ちょっと隣の部屋の棚からアルバムとってきてくれるかしら? 部屋に入ったらすぐに分かると思うわ」

「うん」


千代さんが立ち上がるのを横目に、おばあさんは微笑む。


「せっかくですから、写真を見ながらお話ししましょう」

「写真……そう言えば、昔の孝太さんがどんな風だったのか、ご本人からも聞いたことはありませんでした」


弟が、おそらく挨拶以外では初めて口を開いて、それから少し遠い目をする。


「何度か部屋にあげていただきましたが……年配の方やご友人の写真ばかりで、ご本人の写真は一枚もありませんでした……」

「それ、きっとうちのおじいちゃん達の写真だよ」


いつのまにか戻ってきていた千代さんが、おばあさんの隣に腰を下ろしながら答えた。


「お兄ちゃん、いつも二人のおじいちゃんと、それからもう一人のおばあちゃんのことを気にしてたの……三人とも私が小さいうちに亡くなってしまったから、私はあまり覚えてはいないんですけど……」


最後の言葉は僕にも向けてのものだった。

僕も会話に入ることの出来るようにという配慮だろう。

でも、僕はそのことを知っている。

彼が手紙にそのことを書いてくれていたから。

彼の祖父母が亡くなったことも、その時に彼が何をしたのかも、そして、彼がそれをずっと引きずっていたことも。

そのすべてを、僕は知っている。

でも彼女達は、僕がそのことを知っているということを、知らない。


「それじゃあ、その辺りから話しましょうか」


そう言って、おばあさんはアルバムを開きながら親友の過去を語り始めた。


幼少の頃の親友の話。

親友は昆虫が好きで、そして電車が好きな男の子だったらしい。

いつもたくさんの笑顔に囲まれて、そして彼自身もいつも笑顔の明るい男の子だったのだとか。

好きな食べ物は苺。嫌いな食べ物はチョコレート。


「だからね、誕生日はいつも苺のケーキを買ってきて、みんなで食べていたのよ」


おじいさんは、特に初孫の彼のことを大事に思っていたらしい。


「あの子が覚えていたのかは分からないけれど……おじいさんね、あの子にはとても甘かったの。孝太がケーキのおかわりを欲しいって言うと自分の食べていたケーキを分けてあげたりね……」


とても優しいおじいさんに、幼い頃の彼もとても懐いていたらしい。


「二人はとても仲が良くて、私はいつも置いてけぼり。だから、いつも嫉妬していたわ」


そう言って、おばあさんは笑いながら涙を拭った。

小学生になると彼は、優しく明るい男の子に成長したらしい。


「今でもね、覚えているの」


おばあさんは遠くを見ながら呟いた。


「この子が……確か小学五年生か六年生の頃。おじいさんが亡くなったの」


千代ちゃんはその頃のこと覚えているかしら、とおばあさんは千代さんに話を振った。

それに、彼女は小さく首を振る。

おじいさんのこともそのお葬式も、あまり覚えてはいない、と。

ポツリと返すその言葉に、おばあさんは「そうよね」と、小さく頷いた。


「その頃は、孝太に近しい人たちが立て続けに亡くなっていてね……あの子にとっては辛い時期だったと思うわ。けれどね、あの子はそんな素振りも見せなかった。丁度……火葬している時だったかしら。あの子はね、火葬場の職員さんをつかまえて尋ねていたの。『おじいちゃんを燃やした煙はどれですか?』って。『おじいちゃんが天国に行けるように見守ってあげたい』って。その様子を見た時、私は本当に……優しい子に育ってくれて……嬉しかった」


手紙に記されていた、あの火葬場でのエピソード。

懐かしげに、そして嬉しそうに語るおばあさんを見ながら、僕は心に影が差すのを感じた。

だって、僕は知っているから。

彼はその後のことをずっと後悔していた。

いや、その「後」だけじゃない。

その前からずっと……ずっと。

彼は後悔を重ね、自分を責めて、嘆きつづけた。

果たしてその後悔を、今目の前でお茶を啜っているおばあさんは知っているのだろうか。

彼の悔いた出来事達を、おばあさんはどう思っているだろう。

僕は、それを知りたいと思った。尋ねようと思った。

手を握り締め、硬く噛み締めた唇を緩めて口を開こうとした。

でも、どれだけ頑張っても、胸の内をぐるぐると駆け回る質問達は、喉元にまでせり上がってこなかった。


「……でもね、一度だけあの子が変なことを口走ったことがあるの」

「……?」


結局何も言えなかった僕に代わり、おばあさんが再び言葉を紡ぐ。


「おじいさんの納骨の時。おじいさんの骨が骨壺に引っかかってしまってね。それを見て、あの子は『おじいちゃん、この世に未練があるのかも』って……そんな風にポツリと呟いたの。まぁ、一見すると、とても……なんというか……人の気持ちを考えないような言葉でしょ? 案の定、納骨が終わった後すぐに、お父さん達に怒られていたわ」


あっ、と思った。


「きっと、骨壺に骨が引っかかってなかなか取れなかった様子が、あの子にはそう見えたのかもしれないわね。それで、思わずその思いつきを口にしてしまった……。優しい子だったけれど、まだ子供だったからね……。後にも先にも、あの子がそういったことを言ったのは一度きり。きっとあの子の優しさは……そうした失敗からも学んでいたのかもしれないわね」


納骨の時の話なんて他所様にするのはどうかと思うのだけれど……といいながら、語るおばあさん。

その正面で僕は、叫び出したくなるのを必死で押さえ込んでいた。


正直、少しだけ期待していた。

おばあさんが彼の後悔を理解して、彼の言葉の行間から本当の思いを汲み取っているということを。


でも、そんなことはなかった。


分かっていたはずだった。

だって、僕自身がそうだったんだから。

人が本当に抱えている想いなんて、普通に過ごしていれば半分も汲み取ることは出来ない。

本人が本気で隠そうとするならばなおさら、その読解の難度は高くなる。

僕が親友と言ってそばにいながらも、何も気付けず、何も知らなかったように。


でも、だからこそ、家族だけには気づいていて欲しかった。

僕が気付くことのできなかったその想いを、誰か一人でも知っている人がいてほしいと思っていた。

その願いが、彼の死に対する責任からの逃避だとは理解しながらも、僕はそんなことを願い、そして結局それは破られてしまった。


「……」


固く拳を握るばかりで、僕は何も言えないまま。

やがて僕は静かに口を閉じて、机の上のアルバムに力なく視線を落とし、無数の写真をただ眺めるだけの人形になった。

小学校の卒業式の写真、中学校の入学式の写真、家族旅行、親族の集まり……。

そこに写るどの彼もが、笑顔だった。

度重なる不幸に傷ついて、それでもそれを乗り越えて前を向く明るさがそこにあった。

彼の言っていたような醜さは微塵も感じられず、ただ幸福だけが伝わってきた。


「幸せそう……」


ポツリと言葉がこぼれ落ちた。

言おう言おうとした言葉はどれだけ経っても出てこなかったのに、事実と異なるその思いつきの感想だけは素直に舌の上を流れていった。


「えぇ……辛いことが立て続けに起きていたのに、この子は一生懸命明るく振る舞ってくれました。この笑顔があったから……だから私たち大人は、立ち直ることが出来たんです」

「この笑顔が……」


写真の中の彼の頬を指でなぞる。

鼻の奥がツンとした。


郁乃ふみのさん。あなたとの写真もあるんですよ」


おばあさんはそう言って、別のアルバムを開いて見せてくれた。

それは見覚えのある、僕と彼のツーショット写真だった。

中学校の修学旅行、浅草で夏波なつはに撮ってもらった写真。

僕が実家の卓上に飾っている写真。


「これ……どうして……?」

「あの子が送ってくれた写真の中にあったんです」


おばあさんは微笑んで、そういった。


「あの子はね、学校のこととなるといつもあなたの話ばかりをしてくれたんですよ。優しくて、明るくて、温かい。まるで太陽のような、大切な人だって……」


その言葉に、僕は何も言えなかった。

何を言っていいのか、分からなかった。


――僕は親友に恋をした。


ふいに、手紙の一文を思い出した。

彼が、僕のことを好きだと言ってくれたことを。


僕を好きになって、悩んで、そして苦しんで……結局彼は壊れてしまった。

僕のせいで、そして彼自身の優しさのせいで。


彼は、優しかった。

自分の想いを秘めたまま僕のもとを離れたのも、きっと僕を思ってのことなのだろう。手紙では「自分のため」と言っていたけれど、それは方便にしかすぎないはずだ。

だって彼は、自分のために生きることのできない人間だったから。

彼は、彼の友達の思い出を守ったんだと思う。

告白で、それまでの友情も思い出も全てが「恋愛」という別の色に塗り替えられてしまうことを、彼は防いでくれた。

彼は、本当にとても良い友達だった。


だからこそ、萌乃もえのの言葉が身に染みる。


『彼は恋に関しては酷い人だった』


全くもって、その通りだと思った。

僕との友情、そして友としての思い出を守ろうとして、彼は僕のもとを去った。

恋によって友情が壊れると思って、それならいっそ美しいままの思い出を汚すまいと彼は思ったのだろう。


――とんだ大馬鹿やろうだ。

確かに、一度告白されれば、それまでの関係ではいられないかもしれない。

友達だと思っていた相手が自分をそんな目で見ていたことに、「友情」への不信を抱くかもしれない。

でも、それで終わりじゃない。

たとえ一度壊れたとしても、友情は再び紡ぐことができる。

たとえ一度傷ついたとしても、その想いが誠実さから来るものであるなら、その傷はいつか思い出になる。

糸さえ断たねば、いつかまた友達として笑える日はくる。

そんな日が、来るはずだったんだ。


それを、あいつは全部投げ捨てた。

恋が全てを壊すと思い、友情の回復力を信じ切れなかった。

とことん、恋に疎い男の子だったのだろう。

恋がどんなものなのか測ることが出来なくて、避けがたい絶対的な災厄のようにでも思ったのだろう。

だから、彼は全てを投げ捨てた。

本当に、「弩」の上に「超」がつくほどの、馬鹿やろうで阿呆だった。


「……姉ちゃん?」


弟の呼ぶかける声で、僕はハッと我にかえる。

いつしか頬は濡れていて、幾つもの心配そうな目が僕を映していた。


「大丈夫?」

「うん……ごめんなさい。思わずぼぅっとしてしまったみた……いで…………」


笑って誤魔化そうとしたけれど、出てきたのは嗚咽だった。


「ごめ……なさ……」

「いいんですよ。大丈夫です」


千代が隣に来て、それから優しく背中をさすってくれた。

僕は、申し訳なくて仕方がなかった。

きっと、周りの目には亡き友人からの想いを伝えられて泣き出したように映るのだろう。

だからこそ千代は、こんなにも優しく僕を慰めてくれている。

その気はなくとも、それはまるでみんなを騙しているような気がして、僕はどうしようもないほどの罪悪感と、胸の痛みを感じた。


それから、どれだけの時間が経ったろう。

ようやく落ち着きを取り戻した僕に、おばあさんが静かに口を開いた。


「郁乃さんと、それからショウマさん。お二人は、最近あの子と……孝太と会いましたか?」

「いえ……高校を卒業してから、彼とは会えていなくて……」

「僕も、孝太さんが引っ越しをなさってからはお会いしていません」

「そうでしたか……」


おばあさんはそう言ったきり、しばらく顎に手を当てて考える素振りをした。

それはなんとなく、どこか寂しそうにも見えた。


「では、ここ数年のあの子の様子はご存知ないのですね……」

「何か……あったんですか?」


弟が身を乗り出すとなりで、僕は思わず目を逸らした。

あまり、聞きたいものではなかった。

だって、手紙に散々書かれていたことだから。

だって、その原因は確かに僕にあるのだから。

出来る事なら、話さないまま終わって欲しい。


――いや、もしかするとこの人は全てを知っているのかもしれない。

一瞬、そんな幻想が全身を這いずり回って、僕は身震いをした。

手紙の内容も、僕の責任も、この人はその全てを知っていて、あえて知らないフリをしているのかもしれない、と。

知らないふりをして、僕を糾弾するタイミングを図っているのではないか、と。

そんな思いに飲み込まれそうになりながら、それでも僕は歯を食いしばり、真っ直ぐに顔を上げた。


「……!」


――見上げた先にあったのは、穏やかな顔だった。

どこまでも穏やかで、そして、どこまでも深く、切ない愛。

ゴクリ、と僕は唾を飲み込んだ。


「……悩んでおられた、という話でしょうか」

「姉ちゃん……?」


僕の言葉に、ショウマが驚いたような顔をする一方で、おばあさんはそれを静かに受け入れた。


「ご存知……だったのですね」

「彼が亡くなられてからですが……その……」


一旦言葉を切って、僕は目を瞑る。


「…………僕は彼から手紙をもらいました。彼自身の人生の歩みと、想いと、そして悩みと……」


……そして、悔恨。

でもその言葉だけは飲み込んで、僕はおばあさんに頭を下げる。


「彼はいつもずっと何かに悩んでいて。そして、それを誰にも見せまいと一人で頑張っていました。僕はそのことに手紙をもらうまで気づいてあげられなくて、彼を追い詰めていることにも気がつきませんでした」

「そう……だったんですね」


伏し目がちに相槌を打つおばあさんに、鼻の奥がツンとした。


「ごめんなさい……手紙のことは……はじめに言うべきことでしたのに……」

「そんな、顔をあげてください……」


優しく包み込むようなおばあさんの声に頭を下げたまま、僕は首を振る。

だってそこには、彼の全てがさらけ出されていたのだから。

他の誰でもない、彼を最期に追い詰めた僕自身に向けて。

その責任は僕にあった。

だから、僕は――。


「本当にごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……」


――だけど僕は、謝ることしかできなかった。

僕は、謝ることしかできなかった。

何を言っていいか分からなかったから。

だから僕はただ、ごめんなさいの一言に万感を込めた……いや、すべてを包み隠した。

机に擦り付けるように下げた頭の上で、両手を固く固く握り締めて。

そんな僕をみて、おばあさんが息を飲んだように感じた。


「……こちらこそ、ごめんなさいね……辛かったでしょう?」


一泊置いて、僕の手をざらりとした手が優しく包み込んだ。


「え?」


思わず僕は固まった。

僕が謝罪と慰めの言葉を受ける、その意味が分からなかった。


「どう、して……?」

「あなたには……とても生々しく重いものを背負わせてしまったのではないかと思って。最期に遺された想いは……たとえどんなものでも心に傷が出来るほど喰い込みます。それを手紙なんて……きっとあなたには辛い想いを……」

「いえ、僕は全然……」


そう。確かに僕は苦しかった。

彼の人生は、後悔は、想いは、そのどれもが重かった。

重くて、大きくて、それを受け止めるには、僕の人としての器はあまりにも脆く小さかった。


でも僕には責任がある。

唯一手紙を遺された者として、彼を追い詰めた者として……。

親友の想いを受け入れ、遺された人たちに伝える責任があるはずだった。


「でも僕には……僕には…………」


責任が……あるのに……。


「わ……には…………」

「郁乃さん……」


――無理だった。


「小野孝太」という人間の喪失にあって初めて知った、彼をめぐる様々な想いに触れてしまったから。

どれだけの人が彼のことを想い、どれだけの人がその死を悲しんだのか――その心のうちを知るほどに、彼の後悔はの中でどんどん重くなっていって、彼への想いはの中でどんどん大きくなっていって。

そして今、この時。

おばあさんの語りを聞く中で、その深い愛と、そしてその裏に滲む後悔に気がつくと、僕は彼の手紙の内容など口にすることなんて出来なくなってしまった。


彼を追い詰めた加虐者である僕が、一体どの面を下げて語ることができようか!


「逃げ」だと分かっている。無責任だとも思う。

それでも、どうしても……僕は口を開くことができない。

何かを唇に乗せてしまえば、そこからきっと想いは雪崩れてしまうから。

なのに、言葉が出てこなかった。

固く噛み結んだ唇は頑として緩まることはなく、紡がれるのは沈黙の時間ばかりだった。


「……私は、あくまで傍観者でいることしかできなかったから……具体的に何かを知っているわけじゃないのだけど……」


沈黙を破ったのはおばあさんだった。


「……あの頃、あの子は少し思いつめていたようでした。何の悩みだったのかは最後まで教えてくれなかったのだけど」


リビングのガラス戸からは中庭が見える。

春の陽光が照らすその草木に目をやりながら、おばあさんは言の葉を紡ぐ。


「あの子はもともとね、少し悩みすぎるきらいはあったけれど、それを補って前に進むだけのエネルギーを秘めた子でした。でもね、大学生になって以降、あの子からは何か覇気のようなものが消え失せてしまいました。話をするその口調や表情は変わらず明るくて……でも空気感というのでしょうか、なんだかその身体は少しずつ小さく、顔はやつれていました」


目の下にはいつもクマがあったんですよ、とおばあさんは寂しく笑った。


「でも、私はどうしたのかと聞くことができませんでした。ただ、ここに来てくれた時には出来るだけたくさんの食べ物を食べさせてあげることしかできなかった」


おばあさんは目を閉じて語る。

彼の影を追いかけているのか、あるいは彼との日々を追憶しているのか。


「あの子は、優しい子でした。暇ではないだろうに、何度も何度もここへと足を運んでくれました。その度、私は嬉しさと少しばかりの悲しさを感じました。――あと数年もすれば死んでしまうような老婆に、あれだけ尽くしてくれることへの嬉しさと、随分と長い間生きてきたというのに、孫の悩みを解決してあげられない悲しさ……ですね。もう随分と長いこと……私はそんな自分の無力さを悔やんでいました」

「……でも……きっと彼は……」


気がつくと、僕は思わず声を絞り出していた。

それは違う、と。

誰かが自分のことで自身を責めるなんてことを、彼は望んでいない、と。

固く締まっていた喉を引き剥がして、僕は声を上げた。

それだけは、何をおいてでも伝えなければならないと思ったから。

そんな僕に、おばあさんは優しく頷く。


「えぇ。あの子は優しい子でしたから。そんな後悔を望んではいないでしょうね」


その泰然自若とした在り方に、息をのんで、僕は押し黙る。

当然、分かっているはずだった。

おばあさんは、親友のことを幼い頃からずっと、僕なんかよりも遥かに近いところで見つめてきた存在なのだから。

もし彼の人生を物語ることがあるとするならば、その語り部となるべき人物とも言える人なのだ。

そんな彼女からすれば、その心のうちに秘められたものならともかく、彼の性質などは分かり切っているに違いなかった。


「でもね、そうした長い間の葛藤も、その全てがあの日、霧散したんですよ」

「え……?」


思いもしない言葉に、僕は顔を上げる。


「あの日って……」

「私が最後にあの子と会った日のこと……あの子が亡くなった朝のことです」

「あ……」


すっかり忘れていた。

目の前にいるこの人は、彼と最後に言葉を交わし、その最期を看取った人なのだということを。

そのことを思い出して、僕は思わず千代に目を向けた。

彼女は俯いていて、その顔は見えなかった。


「その日、彼は朝からここに来てくれました。聞くと、その直前に実家の近くに行っていたようで、そこできっと何かいいことでもあったのでしょう、ここ数年のうちでは見たことのないくらいに上機嫌でした。夜行バスで帰ってきたその足で私の所に来てくれて、ご飯を一緒に食べました。その時、ここ数年で孝太は初めて、ご飯をおかわりをしたんです。昔みたいに……とても笑顔でご飯をかきこんでいて……数年ぶりに見た極上の笑顔でした。まるで、悩みのタネは消えたようで……そんな姿を見て、私は心がスッと軽くなるように感じました。『あぁ、この子は何かを乗り越えたんだな』、と。私は何もしてあげられなかったけれど、若者は自ら困難を乗り越えるものだなと……私が心配しなくてもこの子の未来はきっと大丈夫だと……」

「彼が……」


元気になっていた……?

思わぬ言葉に、呆然とする僕に変わって、ショウマが口を開く。


「孝太くんとは、その悩みごとについて何かお話を?」

「いいえ」


小さくかぶりを振って、おばさんは「でも」と続けた。


「憑きものの落ちたようなその顔を見れば全部……伝わってしまう。あの子はずっと悩んでいたんです。いつも、ふとした瞬間に顔には影が差して、笑顔には何か重いものが滲んでいた。特にここ数ヶ月は、とっても色濃く、ハッキリと出ていたんです……。それがあの朝……最期の朝には、全て消えていた。――久しぶりに、明るい『いってきます』を聞けたと喜んでいたんですよ」

「……孝太くんは……悩み事を乗り越えることができたということですか?」


弟の問いかけに、おばあさんは小さく首を振った。


「さぁ、どうなんでしょうね。私には分かりませんが……そうであってくれたなら、嬉しいですね」


おばあさんはそう言って優しく微笑んだ。


* *


「今日は孝太についていろいろお話をできて嬉しかったわ」


気がつけば、帰りの電車の時間が近づいていた。

おばあさんの家をおいとまする間際、おばあさんはそう言った。


「こちらこそ、本当にありがとうございました。そして、取り乱したりして、すみませんでした」


そう応えて頭を下げると、おばあさんは「気にしないで」と柔らかく微笑んだ。


「それだけ、あの子のことを想ってくれて、嬉しかったわ」

「……」

「こんな友人たちに囲まれていたのだから、余計にあの最期が残念に思うわね」


寂しく目を伏せるおばあさんに、弟が小さく頷いた。


「交通事故だと、伺っています」

「雪の日だったからね。仕方がないとはいえ……遣る瀬無いわね」


――死因は交通事故。


「え……?」


違和感が喉に引っかかって、掠れた声が零れた。

事故に巻き込まれた?

自ら命を絶ったのではなかったか?

吹き上がる疑問を何とかねじ伏せて、隣の千代に目を向ける。


「彼は……交通事故で……?」

「ご存じありませんでしたか……」


少女は小さく顔を伏せた。


「雪道でスリップしたバイクにはねられたんです。赤信号で停車しようとしたバイクが転倒して、横断報道に突っ込んでくる車体からそばにいた子供たちをかばったそうで……」

「私が病院についた時は意識がありました。しきりに子どもたちのことを心配していて、無事を伝えると心底安心したような顔をしました。でも、それからすぐ、孝太自身の容体が悪くなっていって……」


そこで一旦、言葉を切ると、おばあさんは掠れた声で呟いた。


「『まだ死ねない、死にたくない。みんなに会いたい。』……そう言いながら、あの子は息を引き取りました」

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