十九葉・手紙、その最後。

やがて、大学生になって二度目の年明けがやってきました。

そのしばらく後の、一月第二月曜日。

僕は、成人式を迎えました。

わざわざ帰省してまで出た式典はとても退屈なものでした。

やる気のないお偉いさん達の祝辞と聞いたこともない市歌を右から左に聞き流し、ようやく会場を出る頃にはすっかり疲れ切ってしまいました。

そんなぐったりとした僕の前に現れたのが、懐かしい旧友達でした。

男は凛々しく、女は華やか。

中学時代、高校時代とはすっかり変わった……でも、どこかかつての空気を引き連れた彼ら彼女らに、僕の心は沸き立ちました。

この時ばかりは、心を重く押し付けるものもどこかへ霧散しました。

いつまでも、ずっと話をしていました。

久しぶりにあった彼、今でも時折連絡を交わす彼……かつてはいがみ合っていた彼とも全てを時の流れに流し、和気藹々と話しました。

話しているうちに、不意に僕は時の流れを感じるようになりました。

いや、流れといえば不正確でしょう。

自分が積み上げてきたもの、自分が歩いてきた道程、過ごしてきた時間……そう、形容すればいいでしょうか。

その流れを、追体験したのです。

僕がこれまで一歩一歩、確かに残してきた道筋。

その一つ一つはハッキリと思い出せるのに、顔を上げると始まりの場所は遥かな彼方で。

随分遠くまで来たものだとでも言いたくなるような、泣きたくなるような胸の苦しみを感じました。

でも、そんな郷愁さえも楽しかった。


僕は同窓会に出るつもりはありませんでした。

でも、かつての同級生達と、旧交を深めるのは思いの外楽しくて。

彼らの誘いに絆されて、僕は同窓会に参加しました。

とても楽しかった。

懐かしい顔ばかりで、あの頃に戻れたような気がした。

二度と戻らないと思っていたあの時、あの時代の空気が、そこにあるのが無上に嬉しくて。


ほんの少し、気持ちが大きくなっていたことを否定できません。

だからでしょうか、考えてみれば当然のことで、そして僕にとって大切なことが何故だかその時は頭から抜けていました。


宴もたけなわになったころ、浮かれていた僕の前に過去が現れました。

君が、いたのです。

これまで見たいつよりも美しく、いつよりも可愛らしく、そしてそこにいる誰よりも魅力的な君が目の前に現れました。

僕はその姿に、遠くから惚けていました。

声をかけることもできず、その場から逃げることもできず、僕はまるで影を縫い付けられたかのようにその場で固まったまま。

僕に気付いてくれるな、と思いました。

君から逃げたかった。

でも、足はどうやっても動かなくて。


「あ!」


君はとうとう、僕を見つけてしまいました。


「久しぶりだね!」


君が。

僕に向かって歩いてくる君が、恐ろしくて、愛しくて。

忘れたはずのあの狂おしいほどの想いが湧き上がり、逃げたいという思いに頭が沸きあがり。

なのに、足は動きませんでした。

やがて君は、僕の目の前に足を止めました。


「元気だった?」

「その……ぼちぼちだよ」


なんて返したらいいのか分かりませんでした。

自分がどんな顔をしているのか、分かりませんでした。

ただ嬉しくて、でも悲しくて切なくて……それでもやっぱり嬉しくて。

何かを言えば泣いてしまうと思って、僕は何も言えなくなりました。

多分、君の隣に稲枝いなえ優衣ゆいがいなければ、話すことも出来なかったでしょう。

そんな波立つ僕の胸の内は君にもはっきりと伝わっていたと思う。

動揺をなんとか抑えて、僕が平気な顔を取り繕うまで待ってくれた君の寛容さには、心から感謝を。

ともかく、そうやって君と交わした言葉はその全部を覚えていられるくらいに短くて、けれどたくさんのことに気づくには十分な時間でした。

変わらないところ。そして変わってしまったところ。

それらを知り、そしてもう戻ることのない、かつての友とのかけがえのない時間の重さに胸が苦しくなりました。

邂逅の時間はあっという間に終わりました。

それきり、互いに話すことはもうありませんでした。


夢のような時間。

でも、君と話してからの僕は、なんだか酔いから覚めたような、でもまだ夢の中にいるような、そんなふわふわとした気分でした。

誰と話しても何を食べてもどんな風に笑っても、胸の奥の疼きを誤魔化せないまま。

気がつけば同窓会は終わっていました。


その帰り。

僕は一体どうやって帰ったのか覚えていません。

覚えているのは後悔。

後悔、後悔、後悔。

そして、天女のような君の顔。

ただ、灼けるような胸の痛みと吐きたいくらいの懐かしさでおかしくなりそうでした。

君は、あの頃と変わらず元気なままで、そしてあの頃よりも増して、美しく魅力的になっていた。

大好きだった少女は、いつしか僕の知らないところで立派な女性になっていたのです。


僕は自分を呪いました。

離れたくない、失いたくない、傷つけたくない。そんな思いでいっぱいだったはずなのに、気がつけばその全てを自ら手放していた。

全部自分で壊して、もはや取り返しはつかないところまで来てしまった……。

そうして気がついた時にはもう、僕は何も持たない存在に堕ちていました。

ただひとりぼっち、ただ在るだけの存在。

もはや僕は、人にすらなれなくなってしまったのです。

それは、まさに僕がかつて恐れた「全てが壊れ、喪う」という未来を、僕自身の手で描き出していることに他ならず、そしてそれに気がついたのは、手遅れが極まってからのことでした。


その頃から僕は本格的に、眠れなくなりました。

布団に入っていても、机に向かっていても、眠ることが出来ない。上手く眠りについたとしても、二、三時間で目が覚めてしまうようになったのです。

眠るのが怖いとか言っていた頃が笑えるくらいに、多少のまどろみの後に目が冴えて眠れなくなりました。

その長い長い、一人きりの暗闇の中。

僕はたくさんのことを考えました。

ずっと友愛の情で覆い隠してきた恋心のこと。君と過ごした時間のこと。そして絶対に無くしたくなかった関係と喪失への絶望と。

いくつもの夜を越える中で、思い出たちが何度も頭の中を駆け巡りました。そしてそのたびに重ねる後悔。

これまでの人生で、僕は小さいものから大きいものまでたくさんの後悔を積み重ねてきました。

無数のそれらは積もり重なり、やがていつしか僕の首の辺りまで積み重なっていて。

気がつくと僕はもう身動き一つ取れなくなっていました。


逃げ出したい。この世界から、この押しつぶされるような胸の苦しみから、逃げてしまいたい。

そう思っても、僕は後悔に固められたまま身じろぎひとつできませんでした。

ただ、積み重なる後悔の中で溺れるだけ。


もう、耐えられなかった。

息のできないようなことが、一日に何度も何度もありました。

もう、いっぱいいっぱいだった。


そんな日が数日ばかり続いたある日のこと。

それは、寒く雪の降りしきる如月の夜。

雪に揺らめく月明かりを見上げている時のことでした。




――ぷちん。


「あ」


なんの前触れもなく。

なんのきっかけもなく。

心の中で、張り詰めていた何かが切れた音がしました。

何か大切な、決定的なものが切れたような音。

その音をキッカケに、僕は嘘みたいに楽になりました。

まるでそれは、押しつぶそうとする冷たく重い雪が溶かされて、包み込むような春の陽光の温もりに身体が弛緩するような感覚。

世界がさぁと明るく色彩を持って眼前に広がり、笑いが止まらなくなりました。


そうだ、何も難しいことなんかじゃないと思いました。

全部投げ出してしまえばいいのだ、と。

過去も今も未来も、家族も友人も、恋も友愛も親愛も、なにもかも。


これまでの僕は、必死でした。

死なない方法を探して、必死に前を向く方法を探して。

足掻いて手繰って、立ち上がろうとして……。

でも、どうしてそんなことをしていたのだろうと、自分に呆れてしまいました。

死なない方法を探して、必死に前を向く方法を探して、「生きる理由」なんてのを求めて…………どうせ前を向いたとしても、死んでしまえば灰燼に帰すというのに、どうしてそんなことをしていたのだろうと、可笑しく感じました。


生きる意味なんかない。

ただ人間は、この世の理、事象の連続性の結果として、偶然にもここに「在る」だけの存在なのだ。


「だから、僕が死んだところで、なにも問題はないじゃないか」


一度それが腑に落ちると、僕はとても楽になりました。

思えば、きっととっくの昔に、心の奥の一番大切な芯がバキバキに折れていたのではないかと思います。

そして僕はその折れて粉々のものを、骨接ぎもせずに外殻だけを取り繕って、生きてきた。

どれほど固めたところで、芯を失ったそれは歪な形を取って、元には戻らないというのに。

この納得は、そんな歪な骨折を見ないようにしてきた末の、心の壊死でした。


それから一年。

大学三年生になった直後から僕は、死ぬ準備を行いました。

モノを捨て、ヒトを捨て、思い出を燃やしました。

そうやって僕がいなくなっても、誰も気に留めないであろうと思えるほどに全てを整理して……その総仕上げが、今しがた書いているこの手紙です。


本当は、何も言わずに消え去るつもりでした。

そのための一年であり、そのための断捨離だったから。

でも、いざ死のうと思うと、誰かに僕のことを知っていて欲しいという欲求を抑えることができなくなりました。

――いや、「誰かに」じゃない。

君には、知っていて欲しかったんだ。


許されざることだと、分かっているつもりです。

自ら消え失せ、死に向かうくせに、君にこんなことをいうのは酷く残酷で、とてもずるくて。

読み手である君の心に一生物の傷をつけることも分かっていました。

だけど、我慢が出来なかった。

死して虎は皮を残し、人は名を残す。

でも、人でなしの僕は名も残せず、勇を馳せる獣でも無ければ皮も残せず。

だから、僕の無意味な人生を君の……河津かわづ郁乃ふみのの心の片隅にだけでも、残したかった。


本当にごめん。

君にこんな置き土産を渡すなんて。


本当にごめんなさい。

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。


君に出会ってしまって、ごめんなさい。

君に、恋をしてしまって、ごめんなさい。


ごめんなさい。

本当にごめん……ごめんごめんごめんごめん……


こんな僕で本当に、ごめんね。

本当に、ごめんなさい。

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